渡辺淳一 メトレス 愛人 目 次  短  夜  旅  路  浮  橋  薄  暑  陽  光  燈  火  夜  長  秋  色  薄  陽  冬  野  未  来  短  夜  ビルとビルとのあいだに春の暮れかけた空がとどまっている。その区切られた一劃《いつかく》だけ見ていると、まだ外でひと遊びできそうな明るさである。  だがすでに六時に近く、街は一日の勤務を終えたサラリーマンで賑《にぎ》わっている。  これから同僚と飲みにでも行くのか、楽しそうに話しあっている男達の横を、若い二人連れが追い越し、そのうしろを生真面目そうな中年男が鞄を片手に地下鉄の駅へ向かっていく。  慌《あわ》ただしい人の流れに急《せ》かされるようにビルに群がる店々は明りをともし、ネオンが輝きはじめている。  片桐修子は、赤坂の街のこんな夕暮れどきが好きだ。  一日の仕事が終って、これから友達と逢って食事をしても、ウインドウショッピングを楽しんでも、まっすぐ家に帰ってもかまわない。暮れ方から夜にいたる時間が、すべて自分の前に投げだされている。  幼いとき突然ケーキをだされて、どれを選ぼうかと迷い、迷いながらも、自分の自由になるものが沢山あることに心が満たされた。ケーキと時間とは同じにできないかもしれないが、会社を終ったときの浮き立つ気持はそれに近い。これからは自由だという解放感と、なにをしようかという戸惑いが入りまじる。  それにしても春の日は、暮れそうで暮れない。いつもはその日永《ひなが》の空が迷いをかきたてるが、今日の修子は逡巡《しゆんじゆん》することはない。  会社から三分ほど歩いて溜池に出ると、そこで手を上げてタクシーを拾った。 「紀尾井町へ……」  一瞬、運転手が首を捻《ひね》る。歩いていくには遠すぎるが、タクシーで行くには近すぎる、いわば中途半端な距離である。  だが運転手は文句をいわずにハンドルを握る。すでに修子がのりこんでしまったせいもあるが、行先がホテルときいて、そこでまた客を拾えると思ったのかもしれない。  シートに坐って、修子は黒のバッグを膝の上におき、白の紙袋を隣りの座席においた。  小さいが白くて厚い袋には、遠野昌平への贈りものが入っている。  昨日、会社が終ってから日が暮れるまでの時間を、そのプレゼントを探すのに費やした。赤坂から銀座まで行き、ようやく気に入ったのを見付けたとき、日は完全に暮れていた。昨日と今日と、夕暮れから夜までの時間は、遠野とかかわりあうことで過ごすことになりそうである。  車はホテルの古い木造の旧館の前で停《とま》った。赤坂の表通りを見下すように、高層の瀟洒《しようしや》な新館ができたのに、遠野は相変らず旧館のバーやレストランのほうを好んでつかうが、修子は、そんな遠野の頑迷さが好きだ。  旧館に入ると、修子はまっすぐ化粧室へ向かう。約束の六時に五分ほど遅れているが、遠野はそんなことで怒ることはない。  化粧室で修子は大きな鏡に向かう。自分の顔で気に入っているのは、先のほうでついと上っている鼻である。学生のころまでは、その鼻が胡座《あぐら》をかいているように見えて、もう少し外国の女優のようにシャープな鼻にならないものかと思っていた。  だが大学の男友達や会社の男性達から、その上を向いているところが愛らしいのだといわれているうちに、考えが少し変ってきた。 「それがまっすぐのびていたら、整いすぎて、ますます近より難くなるからね」  会社の男性達は、修子が社長秘書であることを意識していっているのかもしれないが、軽く上向きの鼻が、やわらかさと親しみを与えていることはたしかである。 「その鼻のおかげで、年齢《とし》をとっても魔法使いのお婆さんのようにならなくてすむ」  遠野はそんな意地悪なことをいったが、考えてみると、それも一つの褒《ほ》め言葉なのかもしれない。鼻はともかく三十二歳になって、修子の目尻にはかすかに皺《しわ》ができている。初めて気がついたのは二年前で、慌てて目元をパックしたが消えるわけもなく、いまも横に二本薄く見えている。  もう二十代のころのような肌の張りはないが、軽く上を向いた鼻があどけなさを残して、年齢よりは若く見えるらしい。  先日、イギリスの本社から来た営業担当の重役は修子を見て「キュート」といってくれたが、その言葉はかなり若い女性への褒め言葉らしい。他に取引先の会社の男性達に、「二十五、六歳ですか」ときかれることもある。それぞれにお世辞が入っているとは思うが、その錯覚には上を向いた鼻が一役かっているようである。  修子はその鼻と頬を軽くパフで叩き、口紅を引いた。髪は軽くウェーブのかかったセミレングスで肩まで達している。会社を出てくるときに化粧を直してきているので、さして崩れてはいない。それをたしかめて、バーに入っていくと、遠野が奥の席から手をあげた。  細長いバーの中は深海のように暗く、各々のテーブルの上に赤く小さなキャンドルを真似た明りが灯《とも》されている。 「待った?」 「いや、僕もいまきたところだ」  遠野の会社は八重洲口にあるので、修子よりは少し早く出たことになる。 「いま、レストランに移るけど、一杯だけどうだ」  遠野がペルノーを飲んでいたので、修子も同じものを頼む。 「今日の服も、よく似合う」 「この前、思いきって、自由ヶ丘の店で買ったのです」  修子は胸元がゆるやかに開いたシルクのブラウスに黒のベルトを締め、グレイのスカートをはいている。 「品がよくて、色っぽい」  若いときから修子はヨーロッパ風の落着いたファッションが好きだったが、それは遠野の好みにもかなっているようである。 「いま、夕暮れがとてもきれいだったわ」  修子はくる途中に見たビルに区切られた夕暮れの美しさを遠野につたえた。 「なにか、そぞろ歩きしたい感じだったわ」 「こんな暗い穴ぐらで、酒を飲むのは惜しいというわけか」 「誰もいなければ、素敵なんだけど」  東京はどこへ行っても車と人があふれすぎている。 「ここなら誰にも邪魔されない」  ペルノーがきたところで、二人は軽くグラスをあわせた。 「お誕生日、おめでとうございます」 「こんな年齢になって、おめでとうでもないが……」  遠野は今日で四十九歳になり、修子とは十七歳違う。 「誕生日に、おめでとうという言葉しかないとは、日本語も困ったものだ」 「じゃあ、なんといえばいいのですか。ご愁傷さま、では可笑《おか》しいでしょう」 「“素晴しき歳月へ乾盃”とか、もう少し気取ったいい方がありそうなものだが……」  遠野はそこで思い出したように、修子の手元を見た。 「ところで、誕生日のプレゼントはあるのかな」 「もちろん、持って参りました」  修子が白い紙包みをみせると、遠野が手を差し出した。 「すまんが、ここでもらえないだろうか。レストランのほうは明るすぎてね」  遠野は光りのせいにするが、レストランでは、まわりにウエイターや客がいて人目につく。大の男がそういうところで、女性からプレゼントを貰うのは恥ずかしいということらしい。 「お気に召すかどうか、わかりませんが……」  テーブルの小さな明りの下で、遠野の無骨な指が紙包みを開いていく。  修子はそれを見ながら、少年が宝物を開いているような錯覚にとらわれる。この初々しい表情の男が、社員二百人を抱える会社の社長とは思えない。 「なるほど……」  遠野の大きい手のなかにタイピンが輝いている。 「ダイヤじゃないか」  円いタイタックで中央に小粒のダイヤが埋めこまれている。 「たいしたものではありません」 「いや、なかなか洒落《しやれ》ている。こういうのは初めてだ」 「年配の人に差し上げるのですといったら、老眼の人には難しいかもしれませんといわれたわ」 「俺はまだ、老眼ではない」 「わかっています、だから買ったのです」  すぐむきになるところが、修子には可笑しい。遠野は早速、ストライプの柄のネクタイの上に重ねてみる。 「よし、今晩はこれをつけて食事をしよう」  いままでつけていた横長のタイピンをはずして、プチダイヤのタイタックにつけ替える。  レストランは廻り階段を上った二階にあり、そこも木造の古い洋館の落着きと静けさが保たれている。二人は窓ぎわの席に坐って、改めてシャンペンで乾盃する。 「似合うかね」  遠野がたずねるのに、修子は笑顔でうなずく。 「それ以上大きくても、小さくても可笑しいと思って」 「これより大きいと、暴力団になってしまう」 「ぎりぎりのところで似合うのを探すのに、苦労したわ」 「しかし、高かったろう?」 「どうぞ、ご心配なく」  修子はクリスタル製品を販売している「ロイヤルクリスタル」の日本支社の秘書だが、外資系の会社で英語もできるので、給料は悪くはない。同年代のOLの倍近くはもらっているので、生活には多少の余裕がある。  それにしても十万以上する買物はいささか大きな出費だが、好きな人の年に一度の誕生日である。 「来年は、いよいよ五十歳だ」  スープを飲みながら、遠野がつぶやく。 「じゃあ、来年はもっと盛大にやりましょう」 「おいおい、修《しゆう》は俺が年齢をとるのが嬉しいのか」 「早く年齢をとって、もてなくなったら落着くでしょう」 「嫉《や》いているのか?」 「そういうことに、しておきましょう」  修子が遠野を知ったのはいまから四年前である。二十八から三十二歳までの、女が最も揺れるときに、遠野の愛を受けていたのだから嫌いなわけはない。  だが遠野に嫉妬しているかといわれると、そうともいいきれない。好きは好きでも、無理|強《じ》いしていつも側《そば》にいてもらおうとは思わない。いま、「もてなくなったら落着くでしょう」といったのも、嫉妬というより軽い皮肉のつもりである。  遠野はたしかに自分を愛してくれるが、ときに他の女性に心を動かすこともあるらしい。  むろん自分からいいだすわけではないが、話の調子でなんとなくわかるときがある。  だがそんなことにいちいち目くじらをたてるつもりはない。  もともと男はきょろきょろとして落着きがない性《さが》である。  それに遠野には妻も子供もいる。それを承知で親しくなったのだから、他の女性のことについて、とやかくいったところではじまらない。  遠野とは深い関係になったが、修子ははじめから一歩退いて距離をおいているようなところがあった。好きだけれども、自分と逢っていないときの彼にまで介入したくはない。自分と二人だけのときだけ充実していればそれでいい。  修子がそんなふうに醒《さ》めているのは、子供のときから父の浮気を見てきたせいかもしれない。  もの心ついたときから修子の父は家にほとんどいないで、ときどき思い出したように帰ってくるだけだった。修子には優しい父だったが、母には冷酷な夫だった。  だが二十代の半ばを過ぎてから、父の気持もいくらか理解できるようになった。  もしかすると、母は父に甘え、頼りすぎて、かえって父を追いやることになったのかもしれない。男と女は、近付き、ひたすら尽せばいいというだけでもない。女も男に合わせて成長し、自立していかなければ、いい意味での緊張関係は保てない。  四年間、愛人関係を続けてきて、トラブルらしいトラブルがなかったのは、そうしたあっさりと割り切っているところに原因があったのかもしれない。 「修の誕生日には、まだ少し間がある」  遠野が思い出したようにいう。 「七月十三日だろう」  修子はサラダの蟹《かに》をフォークにさしながらうなずく。 「よく覚えていたわ」 「パリ祭の前の日だから忘れない」  去年の誕生日のとき、修子はプラチナの台に大きな真珠が一つ輝く指輪をもらった。  いまもそれを左の薬指につけている。 「だんだん、年齢が近づいてくる」  遠野の理屈では、三十五歳と二十歳では大変な違いだが、七十五歳と六十歳ではあまり違わないということになる。実際、年齢をとるにつれて、年齢差の比率が小さくなっていくことはたしかである。 「これからどんどん近付いてあげますから、期待して待っていてください」 「ところで、ゴールデンウイークはどうするのだ」  メインディッシュの仔羊のリブローストが出たところで、遠野がきく。 「五月の一日と二日はイギリスからお客さまがくるので会社に出ますが、他は休みです」 「じゃあ、三日と四日に泊りがけで箱根に行こうか」  修子はバッグから手帖をとり出す。 「せっかくだけど、四日は行けないわ」 「どうしてだ、いま一日と二日だけ会社にでるといったろう」 「弘前に、桜を見に行く約束になっているのよ」 「それはいま、初めてきいた。誰と?」 「小泉さんや安部さんたちよ」  修子は大学時代からの友達の名を告げた。 「安部さんの実家が青森だから、前から誘われていたんだけど、今度ようやく行くことになったの」 「桜を見るくらいならたいしたことではない、別の日に変えたらいいだろう」 「駄目よ、ちゃんと約束したのだから」 「しかしこちらはゴールデンウイークの前半は仕事があって休めない。休むとしたら三日から五日までしかないんだ」 「………」 「箱根にいい部屋をとる。そこで一晩|暢《の》んびりしてゴルフでもやろう。弘前に女の友達と行っても仕方がないだろう。すぐ断ったらいい」 「いまさら、無理よ」 「頼む……」  遠野が頭を下げてみせるが、修子は首を横に振る。 「そんな勝手なことは、できないわ」 「これだけ、頼んでもか」 「だって、弘前に行くのは二カ月前から決っていたのよ。それをやめろなんて勝手だわ」 「強情な奴だ……」  遠野が呆《あき》れたというように溜息をつくが、修子はきこえぬようにナイフとフォークを動かす。  知り合って一年ぐらいのあいだは、彼の強引さに負けていいなりになったこともあったが、最近は余程のことでもないかぎり断る。  当然のことながら、彼の要求を入れていたら、こちらのスケジュールが立たなくなる。彼は好意のつもりかも知れないが、修子には修子の生活がある。それはなにも生意気とか強情というわけではない。むろん断るから、遠野への愛が薄いというわけでもない。  修子にとって遠野は大切な人ではあるが、といって彼に振り廻されるだけの生活は送りたくない。 「ゴールデンウイーク以外の日でも、まだ行けるときはあるでしょう」  修子が宥《なだ》めるようにいうが、遠野はまだ諦めかねているらしい。 「久し振りに、二人で暢んびりしようと思ったのに……」 「でもゴールデンウイークは混んでいるし、家族連れも多いわよ」  修子は休日の行楽地で家族連れに会うのが苦手である。子供の騒々しさに馴染めないせいもあるが、同時に、そうした一家|団欒《だんらん》の姿が独身の身には少し眩《まぶ》しくもある。 「しかし、かわりに平日に箱根に行くわけにもいかないだろう」 「五月の半ばになると、休暇をとれるかもしれないわ」  修子は社長秘書だけに、社長が不在のときに休暇をとりやすい。五月の半ばには社長が関西から九州へ一週間ほど出張する予定になっている。 「五月の半ばか……」  遠野はワイングラスを持ったまま考える。 「そのころのほうが、お客さんも減って静かでしょう」  遠野は広告関係の会社を経営しているが、オーナーだけに結構、自由になる時間があるようである。 「じゃあそのころ、考えてみようか」 「勝手をいって、ご免なさい」  最後には、修子のほうも下手にでる。 「いや、こちらの申し込みが遅かったんだから仕方がない」  理解のあるようなことをいうが、本当に遠野が納得したか否かはわからない。  食事のあと、軽くブランディを飲み、コーヒーをもらうと九時だった。 「今日はわりあいよく、食べたようだな」  遠野が少し機嫌を直した顔できく。 「久しぶりの洋食で美味《おい》しかったわ」  修子は海に面した新潟で育ったせいか、どちらかというと魚を中心とした和食のほうが好きだ。同様に遠野も和食党だが、誕生日というのでフランス料理を選んだようである。 「そろそろ出ようか」  遠野が時計を見て、ボーイに出かける旨を告げる。 「ご馳走さまでした」  彼の誕生日くらい、自分が払おうかとも思うが、今日はかなり高価なプレゼントをしたので、ご馳走になることにする。  そのまま並んで階段をおりていくと遠野がいう。 「車を、先に帰したんでね」  いつものことだが、遠野は修子と会うときには、自分のつかっているハイヤーを帰してしまう。公私混同しない、というときこえはいいが、運転手に余計な勘ぐりをされたくないのかもしれない。  外へ出ると、夕暮れの美しかった春の一日は暮れて、闇のなかにホテルの白壁と明りのついた窓が浮き出ている。  修子はこの旧館の落着いた雰囲気が好きで、しばらく外から見上げていると、タクシーが近付いてきた。 「瀬田で、いいね」  車に乗ってから、遠野がきく。  修子のマンションは世田谷のはずれに近い瀬田にある。いまから五年前、父からお金を借りて、二DKのマンションを買ったのだが、いまとなっては賢明な買物をしたようである。月々のローンの支払いは大変だが、当時からみるといまでは大分値上りしている。 「若いのに、マンションを持っているとは感心だ」  遠野はそんないい方をしたが、別に値上りを見こして買ったわけではない。ただ東京で仕事をしていく以上、落着ける自分の城を持ちたかっただけである。  遠野の家は、その瀬田から環状八号線を南に下った先の久が原にある。その町と瀬田とは都心を要《かなめ》とすると、丁度、扇型に広がった位置に当る。  一度、修子はそれを地図でたしかめながら、三角関係に似ていると思ったことがある。  だが現実に、修子は遠野の妻に、そんな気持を抱いたことはない。  遠野の妻は妻で自分は自分である。まだ面と向かって会っていないせいもあるが、ライバルとか嫉妬の対象として考えたことはない。  修子は、いま遠野と逢っているときだけ、充実していればいい。少し矛盾しているかもしれないが、遠野と知り合ったときから、そう思うようにしてきたし、それ以外のことは考えないようにしている。  車は青山通りを渋谷のほうへ向かっている。道の左右に続く店々のショーウインドウにも、春の夜のときめきが潜んでいる。それを眺めていると、遠野が軽く口ずさむ。 「ラアーラ、ララ、ラアー……」  遠野がお気に入りの「サマー・タイム・イン・ベニス」のメロディーのようである。  黙ってきいていると、遠野の手が伸びてきて修子の指先に触れる。  ワインと食後のブランディのせいか、少し酔っているのかもしれない。修子も体が火照《ほて》っていて少し気怠《けだる》くなっている。  修子のマンションは地下鉄の用賀の駅から歩いて五分ほどのところにある。女性なので、夜遅く帰っても怖くないところをと思って求めたのだが、駅に近いわりには静かである。  マンションは五階建てで、入ってすぐ右手に小さなロビーがあり、その向かい側のエレベーターに乗って五階でおりる。部屋はその左端の五〇一号室である。  修子は鍵をあけて先に入ると明りをつけ、遠野のためにスリッパを揃える。部屋は二DKで、入るとすぐキッチンのついた十畳ほどの洋間があり、その奥に六畳の寝室がある。 「散らかっていて、ご免なさい」  修子が急いで、テーブルの上にあった本と郵便物を片側に寄せ、ベランダに干してあった洗濯物をなかへ入れる。  遠野は自分では体を動かさぬくせに、意外に綺麗好きなところがある。とくに縫いぐるみや飾りものなどでごてごて飾るのが嫌いらしく、一度グラビアで見た女性タレントの部屋の賑々しさをしきりにけなしていたことがある。  遠野の好みに合わせたわけでもないが、修子は掃除が好きで、少しでも汚れたところがあると落着かない。  部屋を綺麗にしておく要諦《ようてい》は、余計なものをどんどん捨てていくことだと遠野はいうが、これが意外に難しい。もっとも修子は女のわりには執着しないほうで、このあたりは生来のあっさりした性格と無縁ではないかもしれない。 「ここはいつきても綺麗に片付いていて、気持がいい」  今夜もご機嫌で遠野はすぐ服を脱ぎ、ネクタイをはずす。  そんな遠野のために、修子はパジャマを備えてある。淡いベージュの上下で、大柄な遠野のためにLLサイズにしてみたのだが、さすがに少し大きかったらしく袖が長くて着ると道化師のようになる。だが遠野は気にすることもなく黙って着る。 「なにか、飲みますか」 「そうだな、少しさっぱりしたものがいいけど」 「じゃあ、グレープフルーツジュースにしましょうか」  修子はキッチンに行きかけて指輪をはずすと、サイドボードの上にあるクリスタルのバスケットのなかへ入れる。 「なるほど、そういうようにつかうのか」  遠野がつぶやくので振り返ると、いま指輪を入れたバスケットを眺めている。 「それは、宝石入れなの?」 「なににつかってもいいんですけど、このほうが綺麗でしょう」  修子の勤めている会社はクリスタル製品を輸入しているが、世界のトップブランドなので、いずれもかなり高価である。ワイングラス一個でも、一万円から二、三万もするものもある。もっとも修子は社員なので、それより三、四割は安く買うことができる。  それでも考えた末、まずブランディグラスから買いはじめ、少し前にようやくバスケット形のクリスタルを買ったのである。用途はいろいろで、初めはそこに椿や紫陽花《あじさい》の花びらを置いて楽しんだが、このごろは指輪やネックレスなど宝石類を入れておく。なに気なく無雑作に放り込むだけだが、クリスタル独特のダイヤカットが外からの光りを受けてさまざまな色に輝く。 「クリスタルのなかに、真珠の指輪が一個というのがいい」 「スィンプル・イズ・ザ・ベスト、でしょう」 「うちでも、今度、贈答用にそれをつかおうかな」 「ぜひお願いします、大量なら多少お安くさせていただきます」  修子は営業部員の顔になって、冷蔵庫からジュースを取り出してグラスに注ぐ。 「フルボトルのワイン二本は、少し飲みすぎよ」 「君が、もう少し飲んでくれると思った」  遠野がジュースを飲んでいるあいだに寝室に入って着替えをする。  このところ愛用しているアイボリーのシルクのパンツスーツを着てリビングルームに戻ると、遠野は道化師のパジャマのままテレビを見ている。  夜のニュースショウだが、ジュースはすでに飲んで空である。 「もう一杯、あげましょうか」  修子がきくと、遠野が奥の寝室の方を指さす。 「休んでもいいかな」  ワインのせいで遠野は少し酔ったのかもしれない。 「どうぞ」  彼が寝室に消えてから、修子はメイルボックスに入っていた二通の手紙に目をとおし、洗濯ものをたたんでいると、遠野が呼んでいる。 「おうい……」  二度呼ばれて行くと、遠野はパジャマ姿のまま、大の字にベッドに仰向けになっている。 「休むなら、きちんと休んだほうがいいわ」  掛布の端をあけようとすると、遠野の腕が伸びてくる。 「駄目よ」  手を払おうとするが、そのまま上体を引かれてベッドに腰を落し、遠野の胸元に引き寄せられる。 「ゴールデンウイークに、一緒に行かない罰だ」 「それは、あなたが悪いのでしょう」  遠野はかまわず抱きしめてくる。 「口紅がつくわよ」  その一瞬だけ遠野は動きをとめたが、すぐその修子の唇を求めてくる。  初めは荒々しく口をふさぎ、その強引さに呆れてなすにまかせていると、頃合いを見計らったように舌を忍ばせてくる。それを数回くり返されるうちに、修子の唇は夕顔が開くようにゆっくりと開き、やがて相手の舌の動きに自らも合わせるようになる。  ここまでくると遠野はもう大丈夫と思うのか、接吻を交しながら、空いているほうの手で胸元を開きはじめる。  修子は目を閉じながら、遠野のペースにはまっていく自分を感じている。いつものことだが、遠野の求め方には無理がなく、そのくせ確信に満ちている。  口惜しいけれど遠野にあうと、まるで解剖される屍体《したい》のように従順になっていく。  修子はその巧みさに、遠野のプレイボーイの面影を感じる。  過去に何人かの女性に触れてきたに違いない。その経験と自信からえた手管が、いま自分の上にくわえられている。正直いって、修子はそのことに馴らされていく自分に反撥しながら、一方でそんな自分に納得してもいる。 「ねえ……」  たゆまぬ遠野の愛撫《あいぶ》と忍耐が、修子の体を和ませ、燃えあがらせていく。着実に追い詰められていく自分を感じながら、修子は小さく訴える。 「いやよ……」  悦《よろこ》びと反撥のあいだをさ迷いながら、修子は最後に、これはいっときの麻薬のようなものだと思いながら、夢の世界へのぼりつめていく。  男は家に帰ると、妻とはあまり関係しないという。修子が勤めている会社の男性達も、結婚して数年も経つと、恋人という感じは消えてただの同居人になるという。 「同居人に欲望をおこせといわれても、無理だよ」  そんなことを平気でいう男もいるし、「妻とは週に一回も関係すればいいほうで、僕なんか月一回で、それもお義理ですよ」と、堂々と白状する男もいる。  もっとも、それらは旅行会や忘年会など、酒の席でのことで、半ば冗談まじりに、半ば照れて、大袈裟《おおげさ》にいっているのかもしれない。  だが結婚して互いに身近にいると、相手への新鮮さや心のときめきが失われることはたしかで、これは妻だけの責任ではなく、夫のほうにも問題はある。  修子の友達にも、結婚して一年もせずに夫に魅力を失ったと嘆いている女性もいる。  はたして遠野はどうなのだろうか。家に帰って、やはり同じように妻を抱くのだろうか。  そのことについて、修子は関心がないわけではないが、改めて尋ねようとまでは思わない。  ただ前に一度、遠野がなに気なく「家に帰っても、眠るだけだよ」と、いったことがある。それで修子しか愛していないことをいいたかったのかもしれないが、修子自身はそのことにさほど拘泥《こだわ》ってはいない。  もし遠野が家に帰って、妻を抱きたければ抱いてもいい。それはあまり楽しい想像ではないが、自分の知らぬ別の世界でのできごとで、修子にそこまで問い詰める権利はない。  それに、その種のことは詮索しなくても、おのずから男の態度でわかることである。  修子が、遠野を好ましく思う理由の一つは、家庭の匂いを感じさせないことである。妻と二人の子供がいることは知っているが、修子と逢っているときの遠野からは、父であり夫である姿は想像できない。  修子にとって、遠野は常に恋人であり、情人《アマン》である。それ以外の遠野は、修子にとって無縁な存在であり、想像の対象にはなりえない。  多くの女性は、好きな人と愛を重ねるとますます好きになり、もうその人からはどんなことがあっても離れまいと思うようである。  だが修子は充実した愛を得られたらそのことだけで満足し、その実感だけを胸のなかにしまいこんでおく。事実、今夜、修子に与えられた愛はおざなりなものでなく、まさしく、燃えさかる恋の匂いのする愛であった。  遠野が目覚めたのは、それから二時間ほど経ってからだった。 「何時かな……」  大きな山が動くように遠野が寝返りを打ったので、修子も仮眠から醒めたようである。 「そろそろ、一時ですよ」  修子がナイトテーブルの上のスタンドをつけると、遠野はゆっくりと仰向けになり、天井を見上げている。  無言の男と脚を触れ合いながら、修子は、遠野がそろそろ帰ろうとしていることを感じていた。  ほぼ週に一度のわりで、遠野は修子のところに泊っていくが、そのときには初めから、「今夜はゆっくりしよう」と一人言のようにいう。多くは金曜か土曜の夜で、休みの前日である。  何度か逢っているうちに、それが泊っていくサインだとわかるようになった。  それにかぎらず、修子は遠野の考えていることが手にとるようにわかる。  いまも、遠野は帰ろうとしながら、すぐにはいいだしかねているようである。  大胆なようで、遠野は意外に繊細なところがあり、修子の気持を傷つけないように、さまざまな気配りをしてくれる。  修子はそれに感謝しながら、ときにその気配りを重荷に思うこともある。  帰りたければ、「帰る」とはっきりいってくれたほうがいい。  正直いって、修子はそんなことで恨みはしないし、怒りもしない。帰らねばならぬ遠野を拘束してまで、自分のところにとどめておこうとは思わない。  無言のまま天井をみつめている遠野に、修子のほうから声をかける。 「起きましょうか」  遠野は軽く一つ伸びをする。 「こんな時間とは、知らなかった」 「とても気持よさそうに休んでいたので、起こさなかったのです」 「でも、修も休んでいたろう」 「うとうとと、三十分くらい眠ったかしら」  初めのころは、遠野が眠っていても、修子は起きていたが、いまは遠野が眠ると、誘われるように休んでしまう。 「起きようか……」  遠野はそういってから、思い出したように修子を軽く抱き寄せた。 「好きだよ」  低い声が耳元で響くが、修子はすでに醒めていた。  反応がないので不安になったのか、遠野がさらにつぶやく。 「このまま、眠りたい……」  修子は答えず、目の前の男の喉仏《のどぼとけ》を見ていた。  眠りたいといっても、遠野が帰ることはわかっている。彼自身も、帰らなければならないと思いながら、起きてすぐには帰る気にはなれないのであろう。  修子は、遠野のそういう戸惑っているところが嫌いではない。見方によっては優柔不断とも、いい加減ともとれるが、それが男の優しさといえなくもない。 「さあ起きましょう」  修子は今夜、遠野と逢えたことで満足していた。  年に一度の誕生日だから、遠野の会社の社員や友人などが、お祝いをしようといってくれたかもしれない。あるいは家で家族の人々が帰りを待っていたかもしれない。それを振りきって、夕方から深夜まで自分と二人だけで過ごしてくれたことだけで修子は充分である。  遠野をベッドにおいたまま、修子は先に起きてリビングルームの明りをつける。  休む前、遠野がジュースを飲んだグラスがテーブルの上におかれたままになっている。  それを片付けていると遠野が起きてきた。  ワイシャツを着てズボンをはいているが、髪はボサボサでネクタイを締めていない。いかにも、いま起きてきたといわんばかりの顔である。 「さあ、きちんと顔を洗ってネクタイを直して……」  修子は洗面台をあけて湯をとってやるが、遠野はまだ深夜に帰ることに拘泥《こだわ》っているようである。 「いいんだ、どうせ夜中だから」 「でも、途中で誰かに会うかもしれないでしょう」  遠野は仕方なさそうに髪をとかしてネクタイを締める。 「なにか、飲みますか」 「冷たい麦茶があるだろうか」  修子が冷蔵庫から出してグラスに注《つ》ぐと、遠野は一気に飲み干す。 「うまい、これで完全に目が覚めた」 「車は、どうしますか?」 「まだ早いから、表の通りに出たら拾えるだろう」  遠野は決心したように立上り、出口に行きかけて振り返る。 「明日は、どうしている?」 「普通どおり、会社に出ています」  遠野はうなずくと、自分の胸元を指さした。 「明日から、このタイタックをしていく」 「寝|呆《ぼ》けて失《な》くさないようにね」 「大丈夫だよ」  そのまま出口で靴をはき、ドアに手をかけてから、遠野がまた振り返った。 「なに?」  修子が首を傾《かし》げると、遠野は少し照れたように笑ってから修子の額に接吻をした。 「じゃあ……」  ようやく安心したように遠野はドアを開け、廊下に出てからもう一度手を振った。 「お休みなさい」  修子は軽くうなずくと、遠野がドアを閉めるのを待って内側から鍵をかけた。  部屋に一人になって、修子は髪を掻き上げ、それから一つ伸びをした。  なにか大きな嵐が去って、ようやく自分の時間が戻ってきたようである。  修子はバスキャップをかぶり、浴槽に湯を張って体を沈めた。  北陸育ちの母の血を受けて、修子の肌は白い。若いころ、その白さが恥ずかしくて、小麦色の肌に憧れたこともあった。  だが遠野は、「修の白い肌を見ていると、欲しくなる」といい、「よく見ると、白い肌がいろいろな色に変る」ともいった。そんなところまで見られていたのかと、修子は顔を赤くしたが、その肌が湯のなかで息づいている。  不思議なことだが、遠野の愛を受けるようになってから、修子の肌は瑞々《みずみず》しさを増したようである。それも二十代の後半から艶《なま》めいてきたことが、奇妙で不思議でもある。  修子は丹念に体を洗ってから、髪をシャンプーした。再び湯につかり、充分あたたまってから鏡に向かう。両の眼尻に小皺《こじわ》が一本ずつ出ているが、それは焦っても仕方がない。お世辞か慰めか、遠野は「少し皺があるほうがいい」といってくれたが、いまはそれを素直に信じることにする。  バスルームを出て乳液をつけ、ナイトクリームを塗り、髪をブロウして、修子はようやく、今日一日が終ったことを実感する。  深夜の二時近くだが、これからはもう誰にも邪魔されない自分だけの時間である。  修子はソファに横向きに坐ると、思いきり脚を投げ出す。  小さい頃、バレエをやったことがあるが、そのときに右の拇指《おやゆび》の爪を潰《つぶ》して円くなっている。そこがいまでも気になるが、一人では隠すこともない。  喉の乾きを覚えて、冷蔵庫からビールを出し、テーブルの上のラジオカセットをFENに合わせる。外国放送は英語の勉強にもなるが、音楽も多い。それを聴きながら、再びソファに横になる。  好きな人に抱かれたあと湯につかり、ビールを飲みながら音楽を聴いている。もうこの部屋は、自分だけの天国で、誰も侵入してくる者はない。  修子はこんな気儘に、暢《の》んびり過ごす時間が気に入っている。どんなに愛《いと》しい男性がいても、一人で寛《くつろ》ぐ時間だけは失いたくない。自分が自分に戻る時間を大切にしたい。  女が一人で生活して三十も過ぎてくると、自分なりの生活のパターンが身についてくる。どんなに好きな人ができても、これだけは崩したくないという生活のリズムができてくる。  修子が結婚にいま一つのり気になれないのは、そんな我儘《わがまま》な部分が残っているからかもしれない。  グラスを飲み干してさらにビールを注ぎ、音楽を聴いていると電話のベルが鳴った。  コードを長くしているので、腕だけ伸ばして受話器をとると遠野の声だった。 「いま戻って、部屋にいる」  遠野は自宅の電話とは別に、書斎に直通の電話をもっていてそこからかけているらしい。 「まだ、起きていたのか……」 「お風呂に入って、ビールを飲んでいたわ」 「眠くないのか?」  深夜のせいか、遠野の声は少しくぐもってきこえる。 「変なときに眠ったから、かえって目が冴えて……」 「じゃあ、一緒に起きている」 「どうして、休んだほうがいいわ」 「修一人、起こしておくわけにいかない」  そこで、遠野は急に声を潜める。 「愛している……」  突然いわれて修子は戸惑う。 「きこえた?」 「きこえたわ」 「頼りないな」  またしばらく沈黙があってから、遠野が一つ空咳《からぜき》をした。 「じゃあ、切るよ」 「お休みなさい」  修子は受話器をおくと、いまの余韻を打消すように再びラジオを高くして、ビールを飲む。  旅  路  ゴールデンウイークの五月三日に、修子は安部眞佐子と小泉絵里の二人と羽田で落合って、青森へ向かった。三人はともに大学時代の同級生で、眞佐子は丸の内口にある商事会社に勤めているが、いまだに独身である。絵里は赤坂にあるテレビ局のディレクターで、同じ局の男性と五年前に結婚したが、去年別れてしまった。  結局、修子も含めて、三人はいずれも独身である。  大学時代の友人の大半は結婚して、初めのうちこそときたま会ったり、彼女等の家に呼ばれて行ったこともあったが、いつのまにか疎遠になり、気がつくと独身の友達とだけ親しくなっている。このあたりは類は友を呼ぶというのか、自然の成り行きらしい。  残念なことだが、女の場合、既婚か未婚かによって、話題や関心のあり方が違ってしまう。  しかし同じ独身といっても、その実態は三者三様である。  たとえば眞佐子だが、彼女は大学を卒《お》えたときからいままで、一貫して結婚を望んできた。しかし理想が高すぎたのか、縁がなかったというべきか、いまだに独身である。それでも、いわゆる結婚願望派で、三人のなかでは最も真っ当なお嬢さま、といえるかもしれない。顔立ちも色白でおっとりとして、良家の嫁におさまれば、いかにも似合いそうである。  彼女に較べると、絵里はやや色黒だがシャープな顔立ちで、いかにも働く女性といった感じである。五歳の男の子までいるのに一年前に離婚したが、幸い経済力もあるせいか、離婚したあとも明るく前向きに生きている。  この二人に較べると、修子はほぼ中間かもしれない。三十二歳まで独身できて、妻子ある遠野と結ばれているが、といって結婚を否定しているわけではない。適当な人がいてチャンスがあれば、結婚してもいいとは思う。  だが、とくに焦って相手を求めるほどの積極的な気持はない。要するに、結婚はしてもいいし、できなくてもかまわない。結婚懐疑派というより結婚という形に拘泥《こだわ》らない。その意味では自由派とでもいうべきかもしれない。  修子がそんな気持になったのは、母の生き方と無縁ではなさそうである。  修子の母は、いまも新潟に住んでいて健在だが、海産物問屋をしていた父は、修子が高校生のときに、他の女性を好きになって家を出てしまった。それ以来、母は父からの仕送りで生活には困らなかったが、淋しい生活を送ってきた。  結局、母の一生は修子と二人の男の子の子育てに追われただけであった。しかも長男が結婚したあと、嫁と折合いが悪くなり、六十半ばに達したいまは別れて一人で暮している。  修子の子供のころは父と母は仲睦《なかむつ》まじかったのに、気がつくと別居同然で、あれだけ可愛がって育てた息子とも一緒に住んでいない。  そんな母の姿を見ていると、結婚とはなんなのかと考えこんでしまう。少なくとも、結婚さえしてしまえば安心、というような気持にはなれない。  なまじっか結婚などして相手に頼るより、自分なりの生きていく道を失いたくない、母を見て感じてきたそんな思いが、眞佐子のように素直に結婚に憧れる気になれない原因かもしれない。  女が三人集れば姦《かしま》しいというが、まさにその言葉どおり、三人は修学旅行にでも行くような浮き浮きした気分で羽田を発《た》った。  例によって、絵里はピンクのジャケットに同色のジョッパーズという派手な服装に、円いつば広の帽子をかぶって、赤坂ファッションがそのまま東北に飛び出てきた感じである。眞佐子は白のブラウスに白のパンツと一応お嬢さまスタイルだが、胸元には大きなフリルがついている。  そのなかで、修子は濃紺のブルゾンスーツに白いTシャツをのぞかせて、三人のなかでは最も落着いた服装である。  ゴールデンウイークの青森は新緑にはまだ間《ま》があって、街路樹も裸木のままである。  眞佐子の実家は青森から南西に二十キロほど下った黒石にある。ここの造り酒屋だときいていたが、空港に降り立つと、店で働いている若い青年が迎えに来ていた。  まだ昼を少し過ぎたばかりなので、三人はその青年の車で青森の街を見ることにした。 「初めに港にいってみましょう」  眞佐子の意見で、車は街を抜けて港に出る。  青函連絡船がなくなって淋しくなったというが、その閑散とした港がかえって旅情をそそる。 「やっぱり、北の海は男性的で素敵ね」 「はるばる来た、という感じね」  絵里と修子が感想をいいながら眺めていると、眞佐子が海の彼方《かなた》を指さす。 「もっと晴れると、この方角に北海道が見えるんだけど」 「あの先が津軽海峡でしょう」 「わたし、ここへ来るといつも啄木の歌を思い出すの。“船に酔《え》ひてやさしくなれるいもうとの眼見《めみ》ゆ津軽の海を思へば”っていうの」 「へえ、眞佐子も結構ロマンチストなのね」 「そうよ、東北人は外見はもっそりしていても、本当は大変なロマンチストなのよ」  三人でお喋りをしながら、修子は先程から、迎えに来てくれた青年が一人だけ離れて、車の横で突っ立っているのが気になっていた。 「あの人、退屈じゃないかしら?」 「いいのよ、彼はとっつきが悪いけど、別に機嫌が悪いわけじゃないから」  そういえば青年は最初に会ったとき、「どうも……」といったきり、一言も発していない。 「まさか、眞佐子を好きなわけじゃないでしょうね」 「冗談はやめてよ、わたしはもう家を捨てた人ですから」 「あなた、恰好いいこというわね」  絵里はそこで講義をはじめる。 「前になにかの本で読んだけど、全国の県人|気質《かたぎ》のなかで、“初めての人に会うのは気が重い”と答えたのは、青森県人が一番多いんですって」 「それは、こちらの人はナイーブだからよ」 「他に“年上の人には自分を抑えて従う”と答えた人も、青森が一位だったわ」 「わかってるわ、どうせわたしは保守的だといいたいのでしょう」 「そうじゃなくて、無愛想だけど根はいい人だ、という意味よ」 「いいえ、青森人はじょっぱりなのです。要するに融通のきかない頑固者ってわけなの」 「そうかなあ、眞佐子を見ていると、そんな気はしないけど」 「でも頑固な分だけ、進取的なのよ」 「それで、何度もお見合いをするわけね」  そこで大笑いになって、三人はまた車に戻る。  晴れているが、風は冷たく、途中、桜が満開のところだけ春が訪れている。  三人とも青年がいるせいか、車のなかでは口を慎む。  三十分ほど走って着いた眞佐子の実家は、黒い板塀が角まで張り巡らされ、入口は冠木門《かぶきもん》で、さすがに地方の造り酒屋らしい豪壮さである。 「そうか、あなたはここのお嬢さまだったのね」  絵里は改めて感心したように、眞佐子を見直す。 「お嬢さまに、あまり失礼なことをいってはいけないなあ」 「もう、いい加減にしてよ」  玄関に眞佐子の母と兄嫁らが迎えに出てくる。修子と絵里はその二人に挨拶したあと、二階の座敷に案内された。 「少し狭いけど、この部屋に一緒でいいかしら」 「狭いどころか、広すぎるわ」  部屋は十畳は充分にあり、窓ぎわに手摺《てすり》がついている。 「これだけの家が、東京にあったら凄いわね」  絵里がいうのに、修子がたしなめる。 「なんでも東京におきかえて考えるのが、東京人の欠点よ」  お茶とお菓子をご馳走になってしばらく休んでから、三人はまた先程の青年の案内で、市内にある盛美園へ行く。ここは京都の公卿《くぎよう》がつくらせた枯山水の庭園が有名で、園内には御宝殿や御霊《みたま》屋など貴重な建物がある、津軽一の名園である。 「なんだか、東北の小京都といった感じね」 「眞佐子の顔の、少しおっとりしている理由がわかったわ」 「どうせ、津軽|呆《ぼ》けだといいたいのでしょう」 「そうじゃなくて、お公家《くげ》さんの血を引いているのかもしれないわ」 「やっぱり、あなたはよく見ているわ」  たちまち眞佐子は機嫌をよくして青年に写真を撮らせる。  庭園のあと黒石温泉郷を見て帰ると六時であった。  眞佐子の家では、家族全員が一緒に食べるようだが、それでは落着かないだろうということで、二階の部屋に別膳をつくってくれた。そこで食事をしようとしていると眞佐子の父が現れた。かなり上背のある人で、グレイの紬《つむぎ》に兵児《へこ》帯を締めている。 「いらっしゃい」  眞佐子の父は敷居の前で立ったまま、修子と絵里に頭を下げる。 「いつも、眞佐子がお世話になっています」  二人は慌てて坐り直した。 「この度は勝手におしかけてきて、お世話になります」 「こんな田舎でなにもありませんが、どうぞゆっくりしていって下さい」  両手を帯に当てたまま、眞佐子の父はそれだけいうと静かに頭を下げて去っていく。  のっしのっしとした跫音《あしおと》が廊下の彼方に消えたところで、絵里が大きくうなずく。 「眞佐子が結婚しない理由がわかったわ、あなたファザコンなのでしょう」 「そんなことないわ」 「あんな立派なお父さまがいたら、東京のヒョロヒョロした男がいやになるの、わかるなあ」 「そんなふうに、決めつけないでよ」  眞佐子が抗議するが、絵里はいま父親が立っていた方角を見てうっとりしている。  食卓にはひらめ、まぐろ、あわびなどの刺身とともに、蟹《かに》ときゅうりの酢のもの、蕨《わらび》や蕗《ふき》などが入った山菜の煮物から帆立のフライまで、テーブルからはみ出るほど並べられている。  さらに造り酒屋だけに、吟醸酒から一、二級酒、冷酒まで、さまざまな酒が揃っている。 「こんな豪勢な食事をするのは、久し振りだわ」  酒好きの絵里は目を輝かせて、まず冷酒から口をつける。 「うん、旨《うま》い,修子もやってみない」  修子もウイスキーよりは清酒のほうが好ましい。一口飲むと、こくのある香りが舌に滲《し》みる。 「眞佐子も少し飲んだら」  どういうわけか、酒屋の娘なのに眞佐子はアルコールに弱くてすぐ赤くなる。 「今夜は帰らなくていいんだから、安心して飲みましょうよ」  絵里はもう自分の家にいるような気分になって飲みだす。  そのまま酔ううちに、自然にまた結婚や恋愛の話になっていく。 「あなた、あんな素敵なお父さまがいるのなら、結婚することないじゃない」  絵里はまだ、眞佐子の父親に拘泥《こだわ》っている。 「無口で渋くって、しかも頼り甲斐がありそうで、わたし、眞佐子のお父さまに惚れちゃいそう」 「ちょっとちょっと、冗談じゃないわよ」  修子は慌ててブレーキをかける。 「でも、好きな人は遠くから思っているだけのほうがいいのよね、一緒にならないほうが」 「そうかなあ、わたしはそうは思わないなあ」  すでに赤い顔になった眞佐子が反論する。 「好きな人とは、やはり結婚してこそ、本当の愛が貫けるわ」 「眞佐子はまだ子供だから、そんな夢みたいなことをいってるのよ」 「あなたのように離婚してなくて、悪うございました」 「あのね、結婚して一緒に棲むということは、寝呆けた顔もヒステリーのときの顔もみんな見せるということなの」 「みんな見せても、本当の愛があればいいでしょう」 「ところがそうはいかないんだなあ、結婚はきれいごとじゃなくて現実の生活だから、家で毎日素顔をつき合わせていると、夫と妻というより、ただの共同生活者になっちまうわけよ」 「そりゃ、夫婦だから当然でしょう」 「そこが問題なの。ただの共同生活者ということは、男と女でなくなることだから、気どることも恋いこがれることもない」 「そこは二人で努力しなきゃ……」 「これだから、いくら説明しても無駄だわ」  絵里は呆あきれたというように両手を拡げると、修子に助けを求める。 「ねえ、修子、このロマンチストのお嬢さまに、なんとかいってやってよ」 「修子もわたしと同じ意見よ、愛さえあればなんとかなるわよね」  二人に同意を求められて、修子は苦笑する。  たしかに愛しているということは大きいが、それだけで、すべてがうまくいくとも思えない。 「どちらでも、いいんじゃないかしら」 「そんないい加減なこといわないで、はっきりしてよ」 「結婚したければすればいいし、したくない人はしなくてもいいし」 「それじゃ、答えになってないわ」 「修子はもともと醒めているのよ……」  絵里がいったとき、眞佐子の兄嫁が顔を出した。 「片桐さん、階下《した》に、お電話がきてますが」 「誰かしら……」  修子は首を傾《かし》げながら兄嫁のあとを従《つ》いていく。  電話は階段をおりた先の板の間にある。そこで受話器を耳に当てると遠野からだった。 「変りないか?」 「ええ、元気だけど、なにか……」  出かける前に、修子は遠野に、眞佐子の家の電話番号を教えてきた。 「やっぱり、青森にいるんだな」 「嘘をいっていると思ったのですか」 「そんなことはないが、一寸、気になったものだから。声をきいて安心した、明後日《あさつて》、帰るのだろう」 「夕方、六時ごろになります」 「羽田に迎えに行こうか」 「絵里も眞佐子もいるから、大丈夫よ」 「じゃあ、すぐマンションに行く、いいだろう」  遠野はそこで少し間をおいてからいった。 「早く、逢いたい」 「嬉しいわ」 「じゃあ、わかったな」 「はい、承知いたしました」  眞佐子の兄嫁が近付いてきたので、修子は他人行儀な言葉をつかって受話器をおいた。  修子が電話を終えて部屋へ戻ると、絵里が待っていたようにきいた。 「誰から?」  二人とも、修子が遠野と際《つ》き合っていることは知っている。 「彼からでしょう」  当てられてうなずくと、絵里が詰めよる。 「淋しくて、旅先まで電話をよこしたってわけね」 「そんなんじゃないわ」 「いいなあ、わたしもやっぱり彼氏をつくろうかな」 「あら、絵里だっているじゃない」  眞佐子がいうとおり、絵里は最近、取材で知り合った若いカメラマンに好意を寄せている。 「駄目よ彼は、見た目はいいけど落着きがなくて。やっぱり彼氏は年上で、頼りになるほうがいいなあ」 「じゃあ、修子にでも頼んでみたら」 「ねえ、修子、誰かいい人、いない?」  絵里がきくと眞佐子が茶化す。 「でも、わたし達より年上となると、みな結婚しているでしょう」 「そんなの平気よ、べつに結婚するわけじゃないんだから」 「そうかなあ、わたしはやっぱり、妻子もちはいやだなあ」 「そういうこといってるから、いつまでたっても子供なのよ」 「じゃあ、お聞きしますけど、あなた達は妻子ある人と際き合って、罪の意識は感じないわけ?」  酒の酔いも手伝ってか、今夜の眞佐子は威勢がいい。 「感じるも感じないも、なにも相手を奪《と》ろう、というわけじゃないでしょう」 「でも、その人の奥さんや家族は悲しんでるわ」 「そんなことは向こうの事情で、こちらの知ったことじゃないわ」 「それは無責任よ、それじゃ泥棒猫みたいなもんじゃない」 「ちょっと、ちょっと……」  絵里が口をたしなめるように、眞佐子を睨《にら》む。眞佐子も気が付いたのか、修子に向かって軽く頭を下げる。 「ご免なさい、べつに、あなたがそうだといってるわけじゃないの」 「いいのよ……」  修子は苦笑しながらうなずく。  眞佐子のいうことは正論で、誰も文句のつけようがない。だが人を好きだということは理屈ではない。道理ではいけないとわかっていながら、おさえきれないときもある。  したがって、そこから先は、人それぞれの良識と感性の問題になる。  修子は遠野を愛しているが、それは自分と逢っているときの遠野だけである。自分から離れて会社へ行ったり、家庭に戻ったときの遠野まで、自分の|掌《てのひら》のなかにとどめておこうとは思わない。  このあたりが、修子の遠野に対する愛の良識であり、限界である。  しかし、それは修子が勝手にそう思いこんでいるだけで、まわりの人々まで納得するとはかぎらない。知らない人のなかには眞佐子のように、泥棒猫と思う人もいるかもしれない。 「たしかに、彼がべつの女《ひと》のご主人であることは、間違いないわ」 「修子が、そんなことをいいだしては駄目よ」  絵里が盃を持ったまま身をのり出す。 「泥棒猫といわれても、こちらが好んでなったわけじゃないでしょう。近づいてきたのは向こうだし、そうさせた裏には、彼の奥さんの責任もあるわけだから」 「じゃあ、全部、向こうの責任だってわけ?」 「そんなこといってないわ。ただこちらだけでなく、向こうにも責任がある。要するに男と女の問題は、一方がいい悪いってことじゃなくて、どっちもどっちだってことよ」 「だから、初めから妻子ある人を、相手にしなければいいのよ」 「そんなことは、わかっていることなの」  絵里は、話しても仕方がないというように溜息をつく。 「あんたも一度、妻子ある人を好きになってみるといいんだわ」 「結構です。わたし、そういう人は好きにならないといったでしょう」 「はいはい、あなたは立派な家柄の素敵なお坊っちゃまと、ご結婚なさいませ」 「また、わたしを馬鹿にしてるのね」 「そうじゃなくて、あなたのような古い家のお嬢さんは、きちんとした結婚をすべきだわ」  たしかに実直そうな眞佐子の父や母を見ていると、彼女だけはまっとうな結婚をして欲しいと思う。 「要するに、わたしを、経験不足といいたいのでしょう」 「男女の話って、人によっていろいろ段階があって、見方も考え方も違うのよね」  絵里がやや自棄《やけ》っぱちにいうが、このあたりが第一夜の結論のようである。  翌日、三人は遅い朝食を終えてから、眞佐子の運転で弘前へ向かった。  黒石から弘前までは、十キロ少しで、夜なら車を飛ばすと十分で行ける。  だが連休と桜の見頃が重なって、三十分以上かかってしまった。おまけに城のまわりは車を停められず、ようやく見付けた駐車場は城からかなり離れている。 「弘前の桜の唯一つの欠点は、ゴールデンウイークに満開になるってことなの」  眞佐子が嘆くとおり、市内だけでなく東北各地、さらには、修子達のように東京からおしかけてくる客もいる。 「でもおかげで、わたし達一緒に会社を休んで見にこられるわけでしょう」 「それにしても、今日はとくべつだわ」  ゴールデンウイーク後半の中日《なかび》にくわえて晴天とあって、城へ向かう道は人であふれている。  弘前城は慶長十六年(一六一一)に、二代目津軽藩主|信牧《のぶひら》が完成したもので、天守閣をはじめ、辰巳櫓《たつみやぐら》、丑寅《うしとら》櫓、追手門、亀甲《きつこう》門など、往時の風格をそのまま残している数少ない城である。  表の通りから来て真先に目につくのが追手門である。城門にしては一層目の屋根が高く堂々として、左右の漆喰《しつくい》壁に並ぶ銃眼とともに気品と厳しさを備えている。  この門を過ぎると桜に囲まれた砂利道になり、それを踏みしめていくと南大門を経て天守閣を望める広場に出る。 「うわあ、素敵」  三人は歓声とともに、満開の桜のうえに君臨する天守閣を見上げる。  どういうわけか修子は城を見ると、美しいとか重厚という感じを越えて、なにか全身を揺さぶられるような高ぶりを覚える。  恥ずかしいが、それは男性に抱かれ、激しく責められている感覚に近い。なにか性的衝動に近い艶《なま》めかしさを城は備えている。 「ねえ……」  修子は絵里にいいかけてやめた。  この城に感じる艶めかしさは、男性経験の豊富な絵里になら、わかってもらえそうだが、白昼にいうべきことではないようである。 「こういう、お城みたいな男性って、いないかしら」  修子が別のいい方をすると、眞佐子が聞き返す。 「お城が男性ですって?」 「だって堂々として飾りっ気がなくて、男らしいでしょう」  見上げながら、修子は遠野を思い出していた。あの人もお城のように堂々としているが、ときに気弱になるときがある。一見毅然としているようで、意外な脆《もろ》さを秘めているようである。 「男より、お城に惚れたほうが間違いないわよ」 「でも、男ならいつまでも風雪に耐えて、毅然としていて欲しいわ」  修子はつぶやきながら、いま何故、こんなことをいいだしたのか不思議だった。  下乗橋を渡り、石垣に沿って登ると本丸に出る。ここまでくると四方の眺望が一気に展《ひら》ける。 「あれが岩木山よ」  眞佐子が指さす方向にまだ白く雪をかぶった岩木山が見える。満開の桜と緑の老松と雪をかぶった山が重なり合って、津軽はいままさに春|爛漫《らんまん》である。 「いいなあ、こんな大きな自然のなかで生きてゆけたら……」  絵里がつぶやきながら、空に向かって深呼吸をする。 「もう、東京のちまちましたところに帰るのがいやになってしまったわ。眞佐子、どうしてあなた東京に出てきたの」  絵里がきくと、眞佐子は急に冷ややかないい方になる。 「それなら、あなたが此処《ここ》に住んでみたら」 「いられるものなら、本当にいたいわ」 「平気よ、家のいまつかっているお部屋を提供するし食事も大丈夫よ。それならあまりお金もかからないでしょう」 「でも、仕事があるわ」 「それそれ、そこが曲者《くせもの》なの。東京の人は田舎にくるとすぐ、こんな素晴らしい自然があって羨《うらや》ましいといいながら、いざ住みなさいといわれると、みな仕事があるからといって帰っていく。本気で住む気なんかないくせに、一時、田舎の気分に浸って持ち上げるだけなの」  珍しく眞佐子が気色ばんでいうので、修子と絵里はぽかんとして聞いていた。 「要するに、東京の人々にとって、田舎はただの気晴らしにくる、遊び場にすぎないのよ」 「そんなこといわれても、観光にきたんだから仕方がないでしょう」 「観光は観光で結構ですけど、それなら、こんなところで住みたいなんて、気楽にいわないで欲しいわ」  二人が黙っているので、眞佐子は少し言葉をやわらげた。 「まあ、いまではわたしも東京に馴れて、あなた達と同じ考えだけど、ここに住んでいる人はみなそれぞれに大変なのよ」  たしかに、物見|遊山《ゆさん》で桜を見にくる人と、そこに住んでいる人とでは、その土地に対する思い入れが違うのは当然かもしれない。 「少し、写真を撮りましょうよ」  気分を変えるように絵里がいって、三人は改めてあたりを見廻す。  まず岩木山をバックに交互に撮り、それから通りがかりの若い男性に、三人一緒のところを撮ってもらう。  礼をいってカメラを受け取ると、写真を撮ってくれた青年が話しかけてくる。 「東京から、来たんですか」 「そうよ、あなた達は?」  男は二人とも北海道の学生で函館からきたらしい。 「やっぱり、東京の人だと思いました。初め見たときからセンスがよくて素敵だから……」 「嬉しいことをいって下さるわ」  おだてられて、三人はたちまち上機嫌になる。 「今度は、僕達のカメラに入ってくれませんか」 「こんな、おばさんと一緒でいいの」 「光栄です」  今度は五人が交互に撮り合い、最後に絵里が名刺を出す。 「ここに送って頂戴」 「へえ、テレビのディレクターですか」  男は名刺と絵里を見較べる。 「僕達も卒業したら、テレビ局に入りたいんです」 「頑張りなさい、あなた達なら大丈夫よ」  絵里はすっかり姐御《あねご》の気分になって、青年の手を握ってやる。  本丸から観光館の横を通り、西の濠端《ほりばた》にいくと、道の両側の桜が花のトンネルをつくっている。 「これが散りはじめると、まさに花吹雪よ」  一部、早い花が散りはじめているが、まだひとひら、ふたひら、といった感じである。  みな、花の美しさに歓声をあげながら、人々の顔は桜色に輝いている。 「全部で桜は何本くらいあるのかしら」 「約五千本、ここは東北一よ」  眞佐子が胸を張るが、さすがにこれだけの花の名所はそうあるものではない。  三人はトンネルを抜けて濠を渡り、いまも残る武家屋敷の前の枝垂《しだ》れ桜を見て車に戻った。 「このあとは、お寺をまわります」 「少し休みましょうよ」  絵里は車の中で煙草に火をつける。 「本当に、桜を満喫したって感じね」 「なにか、少し疲れたわ」  あまりに咲きすぎる桜は、見る者を疲れさせるようである。 「桜は一生懸命、咲きすぎるのよ」 「少し手を抜いてもいいのに、それができないのね」  絵里が煙を吐いて車の窓を開ける。 「桜を見ていると、なにか怖い感じがしない。ほら、真剣に迫ってくる男のように」 「そう、そう……」  絵里が大きくうなずく。 「ああいうの、いやあね。とくにこのごろの若い男って、そういう傾向があるでしょう。ちょっと際《つ》き合っただけで、すぐ結婚してくれとか一緒になろうとか……」 「素敵な人にいわれるんなら、いいけど」 「素敵な人でも、あまりべとべとされるといやだわ」 「その点、修子の彼氏はいいわよね」  突然いわれて、修子が面食らっていると、絵里が続ける。 「彼氏は大人だから、万事わかって大きく包んでくれるでしょう。なんだか、わたしも愛人になりたくなった」 「悪戯《ふざ》けないで……」 「この前ある雑誌に、フランスのクレッソン首相はミッテラン大統領のメトレスと出ていて、恰好いいと思ったわ」 「なあに、そのメトレスって?」  眞佐子がきくと、絵里が待っていたように答える。 「フランス語で、愛人ってことよ」 「それはアマンというんじゃないの」 「違う、アマンは男のこと、女性に可愛がられている若い男のことよ」  三人とも大学は英文科だが、絵里は別のルートから、知識を仕入れてきたようである。 「日本でいう愛人は女性のことだから、メトレスというの」 「クレッソン首相が大統領の愛人だって、それ本当?」 「本当でも嘘でも、首相がメトレスだなんて洒落てると思わない」 「でも、凄いわねえ」  女性の首相が大統領の愛人だと書くほうも書くほうだが、それで平然としているほうも大変なものである。 「じゃあ、ボウボワールはサルトルのメトレスだったわけね」 「そうそう、そのとおり」  それでは、わたしは遠野のメトレスか。修子がそこまで思ったとき、絵里がつぶやく。 「首相が愛人なんだから、これは立派なものよ」 「完全に自立してるわね」 「自立も自立、こんな頼りになる愛人はいないわ」  そんな愛人もいるのかと、修子は驚くが、はっきりとそう書かれたら、修子はじっとしていられないような気がする。 「でもこれからは、わたしは誰々のメトレスよ、と堂々という人もでてくるかもしれないわ」  絵里はそういってから、修子のほうを探るように見る。 「どうお、修子」  いきなりきかれて、修子は少し間をおいて答える。 「わたしはそこまで自信がないけど」 「でも、メトレスという感じは悪くないでしょう」 「それはそうだけど……」 「わたしも、メトレスになってみたい」 「そんな無責任なこと……」  絵里は少し遊び心が過ぎているようでもある。 「しかし、いやならあなただってやめるでしょう。それなのに結婚する気もなくて一人でいるわけだから……」 「いまの状態のほうが、わたしに向いてるからよ」 「それじゃ、やっぱり、いいわけじゃない」 「そうじゃなくて、なんとなく、一人でいるほうが合ってるみたいなの」 「そのまま、年齢《とし》をとっても淋しくない?」  突然、運転席から眞佐子がきいてくる。 「淋しいかもしれないけど、仕方がないでしょう」  絵里が替りに答えてくれる。 「それで、すむの。子供のいない老後って、孤独でしょう」 「でも、子供がいても孤独でしょう」 「そんなことないわ。やっぱり子供がいたら賑やかだし、多いほうが安心だわ」  修子が黙っていると、絵里が車の灰皿で煙草をもみ消した。 「さあ、それから先は夜のお楽しみにとっておいて、そろそろ出かけましょうか」  どうやら絵里は今夜もお酒を飲みながら、女の生き方をめぐって議論をするつもりらしい。  満開の桜を見たあと、三人は誓願寺から革秀寺、長勝寺、最勝院の五重塔などを見て廻った。  いずれも津軽藩主に関わりの深い寺院で、国や県の重要文化財に指定されている。さらに沢山の寺院が並ぶ禅林街や亀甲《かめのこう》町の豪壮な商家あとなどを見る。 「たしかに、ここはみちのくの小京都ね」  絵里がいうとおり、歴史の重みを伝える建物がしっかりと守られている。 「まだ、行っていないお寺があるのよ」 「でも、これくらいでいいわね」  いかに小京都とはいえ、寺院はいささか食傷気味である。かわりに旧偕行社や外人宣教師館、旧国立五十九銀行本店など、明治の名残りをとどめる建物を見学する。 「弘前って、こんな素敵な町だと思わなかったわ」  絵里が正直に告白すると、眞佐子が皮肉る。 「せいぜい、リンゴがとれる田舎町くらいに思っていたのでしょう」 「そのリンゴって、いつ穫れるの?」 「秋にきまっているじゃない。もうじきこのあたり一帯、リンゴの花であふれるのよ」 「リンゴの花って、白いんだったっけ?」 「見渡すかぎり真白い花でうずまって、その上を初夏のそよ風が流れて……」  修子は昔きいた、「リンゴ追分」という歌を思い出した。そのおおらかなメロディーは、野面《のづら》一帯、純白の花でおおわれる、津軽の初夏の風物詩なのかもしれない。 「そうそう、ここまで来たのだからリンゴジュースを飲まなくては」  思い出した眞佐子はリンゴジュースの工場まで行き、リンゴ百パーセントというジュースを飲ませてくれる。 「どう、東京で飲むのとは違うでしょう」  たしかに自然の味わいが濃いが、それはまわりの爽やかな空気のせいもあるのかもしれない。 「そろそろ、戻りましょうか」  黒石を出たのは昼前だったが、花見を楽しみ、寺院や旧《ふる》い建物を訪ね、ジュースを飲んでいるうちに、日は暮れかけたようである。  東京では見られぬ大きな夕陽が、津軽の野の果てに沈みかけている。 「やっぱり、少し肌寒いわね」  絵里がいうのにうなずきながら、修子はふと遠野のことを思った。  あの人はいまごろどうしているだろうか。今日は箱根でゴルフをするといっていたから、この時間ではもう終って、風呂にでも入っているかもしれない。遠く離れているのに、急に彼を身近に感じたことに修子は戸惑ったが、それは津軽の夕暮れの寂しさのせいかもしれない。 「さあ、真直ぐ帰るわよ」  津軽娘の眞佐子は疲れた気配も見せず、ハンドルを握る。  今夜も眞佐子の家では沢山の料理を用意して待っていてくれた。刺身や山菜の煮ものなどとともに、少し冷えるというので鳥鍋が準備されている。  食事はやはり二階の広間でとることになったが、眞佐子の母がきて鍋をつくってくれる。 「なんもありませんけど、うんと食べて下さい」  眞佐子は標準語だが、眞佐子の母の言葉にはところどころ津軽弁が顔を出す。文字だけを追うと粗野にきこえるが、そのなかに素朴なあたたかさが滲《にじ》んでいる。とくに初めに会ったとき、「よぐきたねし」といって迎えてくれたが、その一言をきいただけで気持が和《なご》んだ。  空腹の三人は一斉に鍋をつつき出したが、眞佐子の母がいるので、酒を控えていると、彼女のほうからいいだした。 「寒いはんで、お酒を飲んだほうがあったまるでしょう」  さすがに造り酒屋の女将《おかみ》さんだけあって、ものわかりがいい。  鍋とともに酒を飲むうちに、三人はたちまちリラックスしてしまった。例によって友達の消息や噂話をしていると、眞佐子の母がぽつりとつぶやく。 「眞佐子も早く嫁さいってくれればいいんですけど、ずっと一人で困ったもんです」  途端に、眞佐子が母の肘をつつく。 「お母さん、一人なのはわたしだけじゃないのよ」  叱られて、眞佐子の母は慌てて頭を下げる。 「ご免なさいねえ、勝手なことをいって、したばってここは田舎なもので、東京のようにはいかないんですよ」 「どうせわたしは家を出た者ですから、気にしなければいいでしょう」 「そうしゃべるけど、みんな心配してるんだよ……」 「もう、その話はやめましょう」  東京でもそうだが、田舎ではとくに適齢期を過ぎて一人でいると、いろいろといわれるらしい。それは修子の実家のある新潟でも同様で、三十を過ぎて結婚しないでいると変り者のように思われる。 「お母さん、もういいから、あとはわたし達でするわ」  眞佐子にけむたがられて、眞佐子の母は腰をかがめて退《さが》っていく。  三人だけになって、みなは同時に溜息をつく。 「眞佐子が結婚に憧れるわけ、わかったわ」 「いっときますけど、わたしだって結婚するだけなら、相手は沢山いるのよ」 「それはお互いさまだけど、あんなにお母さんに心配されては、気が重いわね」 「だから家に帰るのが億劫《おつくう》になるの。大体、田舎の人はわたしのことを心配しているといいながら、それがどんなに相手を傷つけているのか、わからないのよ」  いままで田舎を自慢していたのに、いつのまにか田舎嫌いになる。このあたり、眞佐子は故郷を愛しながら一方で憎悪する、いわゆる二律相反のアンビヴァレントな心情に揺れているようである。 「それはね、田舎だけでなく、日本の社会全体の問題よ。とにかく他人のことにお節介をやきすぎるんだわ」 「そうだ、そうだ」  絵里の発言に、眞佐子と修子が手を叩き、それに力を得て絵里が続ける。 「どうして女の子だけ、二十五、六になったらお嫁にゆかなければならないのよ。三十だって四十だって、他人に迷惑をかけなければ一人でいても平気でしょう」 「要するに男が保守的なのよ。東京だって適齢期になって一人でいると、“そろそろ嫁にいかないの”なんてきくでしょう」 「あれは一種の脅迫だわ。そうやって女を職場から追い出そうって魂胆だから」 「でも、その点では女も同罪よ。適齢期をこえた女性がいると、陰であれこれいうでしょう」 「大体、女にだけ適齢期なんてのがあること自体、おかしいわ」 「そのとおり」  こういう話題になると、三人の意見は直ちに一致する。 「適齢期なんて差別語は絶対許せないわ。絵里、この言葉の追放運動をテレビでもやってよ」 「そうね、そのキャンペーンは面白そうだわ」 「とにかく、われわれは団結して頑張らなくちゃ駄目だわ」 「でも、そういう眞佐子が、一番先に裏切りそうね」 「変なこといわないで」 「じゃあ聞きますけど、眞佐子はいつまでも一人でいるって、断言できる?」 「そんな、先のことまではわからないわ」 「それじゃ、やっぱり当てにならないじゃない」 「でも、適齢期という差別語をなくすることには賛成よ」 「やっぱり、独身を貫くという意味では、眞佐子より修子のほうが信用できるわね」  絵里が盃を干して、修子を見る。 「あなたは、結婚自体を認めてないのよね」 「別に、否定しているわけじゃないわ」 「でも、いまのところは結婚する気はないのでしょう。結婚しようと迫ってくる人がいても、相手にしないでしょう」  修子は答えぬまま、岡部要介のことを頭に浮かべてみる。  岡部は取引先の商事会社に勤める三十三歳の青年だが、もう二年ほど前から、修子へ好意を寄せている。  一度だけ酔いにまかせて、「結婚して下さい」といわれたことがあるが、修子は冗談にまぎらして聞き流した。それ以来、結婚のことはいわなくなったが、いまでも修子がその気になったら受け入れてくれるかもしれない。 「やっぱり修子の場合は、彼氏ががっちりついているからね」  眞佐子が勝手に解説するが、修子は必ずしも、遠野がいるから一人でいるわけではない。それより、いまのところは一人でいるほうが自分に合っているから、そうしているにすぎない。だが、そのあたりの気持を、うまく眞佐子に説明するのは難しそうである。 「あんないい人がいたら安心よ。わたしも修子の立場ならメトレスになって一人でいるわ」  絵里が助け舟を出してくれるが、修子の考えとは少し違うようである。 「いくら彼がいたって、安心なんてことはないわ」 「だって彼は大人だし、経済力があるでしょう」 「わたしは別に、彼から特別のものをもらってないわ」 「そう、修子はそういうことのできない子よね」 「それに、奥さまじゃないから……」  いかに彼氏に経済力があったところで、それが修子のものになるわけではない。現在の法律では妻はたしかに保護されているが、それ以外の女性は法的になんの保護も受けていない。 「やっぱり、妻の座は大きいわよね」 「国で保障してくれてるわけだから」  眞佐子と絵里が交互にうなずく。 「結婚は、保険みたいなものかもしれないわね」  修子がぽつりというと、二人が笑い出した。 「なによ、その保険って」 「要するに、まさかのときのために、入っておくのよ」  現実に愛人という立場にいる修子の意見だけに、二人は納得したようである。 「じゃあ、結婚するってことは、保険に入るようなものなの」 「それにさえ入っておけば、年齢《とし》をとって病気になっても、面倒を見てもらえるわ」 「そういうとき愛人、じゃなくてメトレスはどうなるの?」 「見捨てられるだけよ」  修子があっさりといったので、二人はきょとんとしている。 「あなた、それでもいいの?」 「いいも悪いも、それを選んだのだから……」 「あなたは、強いわね」  眞佐子は改めて感心したように修子を見る。 「わたしは、それだけ強くなれないなあ」 「もちろん、そういう人は結婚したほうがいいわ」 「でも、修子はどうして、その保険に入る気がおきないの」  真剣な眞佐子に、修子は微笑で答える。 「保険も、入ったら入ったで面倒だし、やめたくなっても簡単にやめにくいでしょう」 「そうそう、そういう問題はあるわ」  すでに結婚という保険に一度入って解約した経験のある絵里が、身をのりだす。 「いいと思ってうっかり入ると、かえって高くつくわ」 「でも保険に入っておけば安心だし、老後の心配もないわけでしょう」 「それはうまくいったときのことで、保険に入りさえすれば、すべて安心ってわけでもないわ。それに保険にもピンからキリまであって、当てになる保険もあるけど、なんの足しにもならないどころか、こちらが借金を背負わされる保険もあるからね」 「それは、貧しい人のところにお嫁にいった場合のこと?」 「はっきりいって、わたしはいまさら、手鍋下げてもって感じで結婚する気はないな。やっぱり結婚するなら、ある程度経済力のある人でないといやだわ」 「そりゃ、あるにこしたことはないけど……」 「それに保険に入るとよさそうだけど、安心しすぎて駄目になることもあるでしょう。妻という座に安住して、ぶくぶく肥って他人の噂話だけするようになったり」  絵里はテレビディレクターだけに、その種の人妻を沢山見ているのかもしれない。 「でも、結婚しても老けずに、ますます美しくなる人もいるでしょう」 「そりゃ、いないわけじゃないけど、がいして緊張感を失って、夫か子育てだけに没頭して、気がつくと、ただのおばさんになってしまう人が多いわ」 「しかし、子育ては大切なことだし、やり甲斐があると思うな」 「もちろんそうだけど、それだけの女にはなりたくないと思わない」  子供がありながら離婚した絵里と、結婚願望派の眞佐子のあいだには、やはり溝があるようである。 「とにかく、全部が全部、いいってわけにはいかないわ」 「結婚という保険の安定をとるか、自由という名の不安定をとるか、というわけね」 「いままでは女性は圧倒的に安定のほうをとってきたけど、最近はそうでもなくなってきたみたいね」 「でも、わたしは修子のように強くないから、やっぱり安定のほうをとるわ」 「わたしは、なにも強くはないのよ。ただ我儘なだけなの」 「いまは家庭に縛られず、一人でいたいってわけね。でもその考えはいずれ変ることもあるでしょう」 「もちろん変るかもしれないけど、変らないかもしれないわ」 「そんな暢気《のんき》なことをいってると、本当にお嫁に行けなくなるわよ」 「脅かすのね」 「脅かすわけじゃないけど、心配してるのよ」 「でも、そうなったら、そうなったで仕方がないわ」 「お見事」  絵里が拳《こぶし》でテーブルの端をどしんと叩く。 「やっぱり、修子は強いのよ」  絵里にいわれて、修子は苦笑しながら、自分はそんなに強いのではなく、強くさせられたのだと、心のなかでつぶやいてみる。  浮  橋  毎朝、修子は八時少し前に家を出る。  瀬田のマンションから赤坂の会社までは小一時間あれば行けるから、定刻の九時よりはかなり早めに着くことになる。  だが修子は時間ぎりぎりに駆けつけるのは好きではないし、それより少し先に着いて自分のまわりだけは、きちんとしておきたい。  会社に着いて、修子がまず手をつけるのは社長室と自分の部屋との掃除である。といっても、おおまかな掃除は、清掃会社のほうでやってくれるので、修子がやるのはテーブルを拭き、書棚や窓ぎわに乾布巾《からぶきん》をかけ、花を飾ることである。  社長室にくる客がときどき「ここはいつも塵《ちり》一つなく、清潔で気持がいいね」と褒《ほ》めてくれる。  自分でいうのも可笑《おか》しいが、掃除だけは自信があるが、その几帳面さは母から受け継いだものである。  一通りテーブルと棚を拭き終ったところで、修子は花を活け、コーヒーを淹《い》れる。もっとも、花は毎週、月曜日の朝に新しいのを買ってきて活けるので、他の日は水を替えるだけである。  飾る花はいろいろだが、社長室にはクリスタルの大きな花瓶がおいてあるので、主に季節の洋花になる。他に社長のテーブルの上に、クリスタルの小さなボウルをおき、そこに牡丹やスイートピーの花などを、水に浮かせておく。  掃除が終ると、修子は資料室に行き、昨夜から今朝にかけて各地から入ってきたファックスやテレックスを調べ、社長に廻すべきものを選んで整理する。さらに主な朝刊に目を通し、会社に関係があるものをチェックし、ときに切り抜く。これらの仕事が一段落した十時過ぎに馬場社長が現れる。 「お早ようございます」  どんなときでも、修子は朝の挨拶だけは明るい声でいうように努めている。  社長は今年五十二歳で、遠野とは三つ違いである。  だが外見や性格はずいぶん違う。  遠野はかなりの長身だが、馬場社長は横幅があって、やや小柄である。  遠野は意外に繊細でナイーブなところがあるが、馬場社長は猪突猛進、ひたすら強引に突きすすむタイプである。もしかすると、その行動の明快さが、本社の幹部にかわれて、外国企業の日本支社長という要職を与えられたのかもしれない。  同業者や取引先の人々には、やり手のマネージャーと思われているようだが、修子には優しい、話のわかる社長である。  この社長のただ一つの欠点は、英語があまり得意でないことである。もちろんある程度の読み書きはできるが、会話が苦手である。  外国企業の日本支社長なのに、英語が苦手で務まるのかと首を傾《かし》げる人もいるが、基本的な意思さえ通じれば、さして問題になることはない。それより日本人をつかうには、日本人のマネージャーのほうがいいということで、二年前にいまのポストに就いた。  むろん社長の語学の足りないところは、修子が補うことになる。  社長が部屋に坐ると、修子はまずコーヒーを運び、それからあらかじめ揃えてあったファックスとテレックスを差し出す。それに社長が一通り目をとおしたころを見計らって、修子は社長の今日一日のスケジュールを説明する。  ロイヤルクリスタルの製品は、ここ数年で急速に日本での需要をのばし、いまや当初の三倍の売上げに達している。製品自体かなり高価なものだが、円高と好景気が幸いして企業の贈答用の需要が多く、これからの中元商戦が一つのヤマ場である。  それでも、国内はまだ東京と大阪が中心で、中京はじめ北海道や九州など、地方にいかに浸透させるかが今後の課題になっている。  現在、東京の本社を中心に、営業関係もいれて二百人の社員がいるが、さらに増員する予定である。  いま伸びざかりの会社だけに、社長のスケジュールは忙しい。  今日はまず十時半から販売促進の会議があり、それから二組ほど来客がある。午後は香港にいるサザランド東洋支配人がきて社長と要談する。そのあと品川のホテルで開かれる関連会社のパーティに行く予定になっている。  修子が社長と同席するのは、サザランド支配人と会うときだけだが、これは二人だけで、他の社員は同席しない。むろん修子が通訳するが、支配人はかつて日本の支社長をしていたので気が楽である。  修子は日本で英語を習ったあと、ロンドンに三年間ほどいたが、支配人に「綺麗な英語だ」と褒められたことがある。サザランドのような、根っからのロンドンっ子に褒められたことは、修子にとって大きな自信になったが、できることならさらに半年、ロンドンに留学して勉強したい。  社長は一通りのスケジュールをきくと、コーヒーを飲みながらテーブルの上の花を眺める。 「これは珍しい、日本の花だね」 「テッセンですけど、結構、クリスタルに合うようです」  最近、修子は趣向を変えて、ときどき和花を買ってくる。今朝も、思いきって茶室などに使うテッセンを買ってきて、首の長い花器に挿してみた。細い枝の面白味を出すために、一部花器の下まで垂らしてみたが、それがクリスタルの面に映って清々しい。 「こういう活け方は、外人にはできないだろうな」 「おかしいですか?」 「いや、そんなことはない。それより今度、和風の花瓶もつくるように本社にいってみようか」  クリスタル製品は、食器はもちろん、花瓶から置きもの、小物入れなど、さまざまなものがつくられている。そのことから考えれば、和風の花器があっても、おかしくはない。 「君はお花ができるのだから、どういうのがいいか少し考えてみてくれ」  社長はそういってから、ふと思い出したようにきく。 「京都のホテルを、頼んでおいてくれたかな」 「はい、土曜の夜、一泊ですね」  社長はその日、大阪に出張して京都に泊ることになっている。 「部屋は、ツインかな」 「そうかと、思いますが」 「ダブルにしておいてくれないか」  社長はそこでまた慌てたようにつけ足した。 「一人だけど、どうせ泊るならダブルのほうが楽だからね」 「承知しました」  秘書という立場上、修子には社長の一挙手一投足が手にとるようにわかる。  最近、社長は赤坂にあるクラブの女性と際《つ》き合っているらしいが、今度の大阪への出張には、その女性を連れていくのかもしれない。  修子がそう感じるのには、いくつかの理由があるが、まずこの数日、岡田と名のる女性から二度ほど電話がきた。社長への電話はすべて修子がいったん受け、それから社長のデスクへ廻すので、誰からきたかすぐわかる。それにいつもは修子にとらせる新幹線の切符を、今回は珍しく社長自身が買うといいだした。そしていま、ツインの部屋をダブルに替えてくれという。  たしかに社長がいうとおり、ダブルのほうが寝心地がいいかもしれないが、そのあと、いい訳がましく理由をいうところが怪しい。  だが、修子はそんなことを追及する気はないし、ましてや他人にいう気なぞない。社長の秘密を守るのが秘書の第一の務めである。  それより、修子が興味があるのは、表面はやり手といわれる分別ざかりの男が、それとはべつの、さまざまな顔を秘めていることである。  男はみんな、ああなのだろうか。  社長を見ながら、修子は遠野のことを考える。  仕事柄、遠野もよく出張するが、これまで、彼がべつの女性と二人で出かけた気配はない。  もちろん、だから安心というわけではないが、その種のことで疑ったことはないし、深く考えたこともない。  はっきりいって、修子は遠野と逢っているときに彼の愛を確認できればいいし、それ以上、彼の行動を探ろうとは思わない。  よく女性のなかには、黙っていると男は図にのるから、うるさくいったほうがいいという人もいるが、騒げばかえって火をかきたてることになりかねない。ともかく、修子はまだ、そういうことで遠野と争ったことはない。  それにしても、男というのは困った生きものである。  社長は、はたから羨《うらや》まれるほどの美しい夫人をもっている。彼女は四十半ばだが上品で、ほとんどの社員が「社長には惜しい……」といっている。  そんな素敵な妻がいながら、密《ひそ》やかに別の女性と旅行する。  社長にかぎらず、オフィス・ラブを楽しんでいる男性は他にもいる。  もちろんそういう男性がいるということは、相手になる女性もいるということだが、遊んでいない男達もそうした不倫に憧れているようである。  しかも困ったことに、遊んでいる男のほうが生き生きとして仕事もよくできる。  会社にも、修子にいい寄ってくる男性はいる。それも独身ならともかく、妻子がいて、表面、実直そうな男性が平然と近づいてくる。修子が独身のせいもあるだろうが、そういう男達を見ていると、男とは一体なんだろうと考えこんでしまう。  どうやら、この生きものは女とはまったく違うらしい。 「性懲《しようこ》りもなく」とも思うが、見方を変えると、それが男の可愛いところなのかもしれない。  いずれにせよ、修子が遠野を愛しながら一歩距離をおき、冷静に見られるのは、そうした男性の実態を別の視点から見ているせいかもしれない。  その日のサザランド東洋支配人と社長の会議は順調にすすんだ。  話の内容は、馬場社長のほうから、日本国内のシェアを広げるための新しい企画を披露し、それにともなう経費の増額を求めたものだが、支配人は全面的に協力することを約束した。  通訳を終えて別れるとき、支配人は修子に「相変らず、チャーミングだ」といってくれた。お世辞かもしれないが、褒められて悪い気はしない。  支配人が去ったあと、修子が少しはずんだ気持でタイプを打っていると、岡部要介から電話がかかってきた。 「今夜ですけど、覚えているでしょうね」  いつものことだが、電話での要介の声は少し怒っているように聞こえる。 「あなたが忘れていないかと思って、確認の電話をしたのです」  岡部要介とは今夜六時に、赤坂のホテルで逢って食事をすることになっていた。 「僕は少し早めに行ってますから、入って右手のコーヒーラウンジですよ」  修子はうなずきながら、一カ月前の遠野の誕生日に同じホテルで食事をしたことを思い出した。もっとも遠野と逢ったのは旧館で、今度は新館である。 「あなたさえよかったら、会社の前まで迎えに行ってもいいんですけど」 「大丈夫です。一人で行けますから」  要介は早生れなので修子より一つ年齢が上の三十三歳である。商事会社としては中堅の大同物産に勤めているが、実家は仙台で大きな家具店をやっているらしい。そんなところの息子が独身のまま、何故、修子のような三十を越えた女を追いかけるのか、不思議な気がするが、本人はかなり真面目である。  二カ月前に逢ったときには、「あなたのような女性が、僕の長年探していた理想です」と、やはり怒ったような口調でいった。それ以来何度か誘われたが、その都度、断っていたので今度も心配になったのかもしれない。 「じゃあ、必ずきて下さい」  もう一度念をおして要介は電話を切ったが、そのあと十分もせずに今度は遠野からかかってきた。 「おや、いまはボスがいないんだな」  電話の声の調子で、遠野はそばに社長がいないのがわかるらしい。 「なにをしている?」 「一寸、タイプを打っていました」  遠野も少し時間があいて、自分の部屋からかけているらしい。 「今夜は、どうしている?」 「どうって……」  修子はキイの上に指をのせたまま、聞き返した。 「久し振りに食事でもと思っていたんだが、また会合が入ってしまってね」  遠野は、いいわけのつもりで電話をよこしたようである。 「そのあと、なるべく早く戻るけど、修は?」 「わたしも少し、遅くなるかもしれません」 「どこかへ行くのか」 「一寸、お食事に……」 「誰と?」  修子は少し間をおいてから答えた。 「お友達です」 「部屋には何時ごろに、帰る?」 「十時までには戻るつもりです」 「じゃあ、同じ頃に合わせよう。それ以上、遅くなることはないだろうな」  自分が遅くなるときは連絡もよこさないくせに、修子が遅くなるときにはいろいろきいてくる。 「相手は女の友達なのだろうな」 「そうよ……」  修子はうなずきながら、案外あっさりと嘘をつける自分に呆れてもいる。  修子が約束の六時に、赤坂のホテルのコーヒーラウンジに行くと、岡部要介はすでに来て待っていた。 「このホテルの旧館のほうに素敵なレストランがあるんですが、そちらに行きませんか」  そのレストランはこの前、遠野と一緒に行ったところだが、修子は初めてのようにうなずいた。  要介は先になってエレベーターに乗り、旧館への通路を経て、二階のレストランへ行く。 「岡部です」  あらかじめ予約してあったらしく、要介が名前を告げる。  マネージャーは丁重に頭を下げてから、修子を見て、「おや……」といった顔をする。 「どうぞ、こちらへ」  そのまま案内されて、やや入口に近い席に向かい合って坐る。  今日の要介は淡いグレイのスーツに臙脂《えんじ》のネクタイを締めて、なかなか渋くまとめている。大学時代はラグビーをやっていたというが、がっしりした肩幅にその名残りが見える。 「ここは、来たことがありますか?」  いきなりきかれて、修子は曖昧《あいまい》に答える。 「大分前に、一寸……」 「都心にあるけどなかなか落着いて、雰囲気がいいので……」 「とても、静かだわ」  まだ時間が早いせいか、レストランには二組の客しかいない。 「なにに、しましょうか」  要介はメニューを見ていたが、やがて一番高価そうなディナーのコースを示す。 「これで、いいですか」 「わたしは、もっと軽いので」 「大丈夫ですよ、食べられなければ残してください」  要介は、さらにワインリストを広げる。 「なにか、ご希望のワインはありますか」 「なんでも、結構ですから……」  修子は安いのでかまわないのに、要介はまた高いのを頼んだようである。  ソムリエはうなずき、それから修子を見て軽く会釈する。  ここへは遠野と何度か来ているので、マネージャーもソムリエも修子を覚えているようである。  べつに遠野と来ていることを知られて困るわけではないが、せっかく要介が案内してくれたところを、あまり知っているように振舞っては悪いような気がする。 「じゃあ、乾盃」  ワインが注《つ》がれたところで要介がグラスを差し出し、それに修子も合わせる。 「どうですか、これはシャトー・ジスクールの七五年ものです」 「飲みやすいわ」 「この年は葡萄が豊作で、最近のものでは一番いいといわれています」  要介はいろいろ説明してくれるが、どこかにわか仕込みの知識といった感じが否《いな》めない。  もしかすると、要介は今日のためにワインのことまで勉強してきたのかもしれない。それを早速披露するところが青年の若さであり、気取りかもしれない。  だが正直いって、修子は遠野といるほうがはるかに気が楽である。  当然のことながら、遠野はそんな説明はなにもしないし、好きなものを暢《の》んびり食べているだけである。むろん遠野と一緒なら、相手の懐具合まで心配することもない。すべて彼のペースに任せておいて安心である。  しかし要介といると、自分が介添役になって、面倒を見てやらなければならないような気になってくる。一流のレストランにきて、高価な食事をご馳走されながら、どこかはらはらさせられるところがある。 「最近は青山のあたりにも、いいレストランができてきて……」  オードブルを食べながら、要介は都内の高級店や料理のことについて話すが、どうやら修子のほうが、その種の店には多く出入りしているようである。  もちろん、それは秘書という立場から社長のお伴をしたり、遠野と一緒に行くからで、修子一人の力ではそう頻繁《ひんぱん》には行けるところではない。  当然のことながら、要介の年齢では高価なところに行く機会は少ないはずだが、ことさらに知っているようなことをいう。  そんな要介を見ていると、同じ年齢なのに稚《おさな》さを感じる。  もともと男と女が同年齢の場合、女のほうがませている場合が多い。それは表面の態度だけでなく、人生の体験においても同様かもしれない。  正直いって、修子はこれまで三人の男性を知っている。最初は学生のときに史学科の助手と親しくなり、二人目はロンドンにいた商社員で、三人目は遠野である。  当然のことながら、三人のなかでは遠野と最も親しく一番影響も受けてきた。遠野と較べると、他の二人の男性はごく軽い存在にすぎない。  むろん男性を多く知っていれば、それだけ人生経験が豊富というわけでもない。  だが妻子ある遠野と際《つ》き合い、愛人という立場に立たされて、修子はいままでとはべつの男女の内側を見たような気がする。  こんな修子と較べると、要介はかなり純情かもしれない。彼は彼なりに遊んでいるのかもしれないが、独身だけに、男と女の深いところまではわかっていないようである。  その証拠に、要介はまだ女性に多くの夢を抱いているらしい。女を信じ、女の美しいところだけを見て、それがすべてと思いこんでいるようなところがある。  要介が修子に求めているのも、そうした夢の部分のようである。 「あなたのような女性が、僕が長年探していた理想です」  そう面と向かっていわれたとき、修子は背筋に冷水を浴びせられたような気がした。 「わたしはあなたが思うほど、美しくも心が優しい女でもないわ。それどころか、大人しい仮面のなかに、独善やふしだらや我儘など、さまざまな悪いところを秘めているのよ」  修子はそういいたい気持をおさえて黙っていた。  だが要介はそういう部分には目をくれようともせず、ひたすら誠実に迫ってくる。  いまもやや上気したような目で修子を見詰めるが、その度に修子は射すくめられたような気がして息苦しくなってしまう。  純粋すぎる人は怖い。修子が要介からのデートの申し込みの度に感じる気の重さは、そういうところに原因があるのかもしれない。  それでもときどき要介と会うのは、その純粋な目差しに見詰められる緊張感が心地いいからである。たまにならそういう青年の一途《いちず》に迫ってくる感じも悪くはない。  しかしいま修子が一番愛しているのは遠野である。彼を信頼し、最も大切に思っていることはまぎれもない事実である。  だがときに、要介の熱い目差しや賞讃の言葉も欲しくなる。  考えてみると、要介は、修子が一時的に|ときめく《ヽヽヽヽ》ための刺戟剤のようでもある。  それで修子は満足だが、刺戟剤にされた要介こそいい迷惑である。そんなことにだけ利用するのは悪いと思うが、要介は修子の本当の気持をまだわかっていないようである。  事実、今夜も要介は、修子が自分を好きだから出てきたのだと思っている節がある。  その証拠に、「僕を、多少は好きですか」と堂々ときいてきた。  ワインの酔いのせいかもしれないが、単なる冗談とも思えない。 「もちろん、嫌いな人とは食事をしないでしょう」  はっきりいって、いま修子は要介を好きではあるが、愛してはいない。好ましい青年とは思っているが、そこから一歩すすんで親しくなろうとは思わない。  修子のなかで、「愛している」と「好き」とはべつものである。  この違いを、要介がどれだけわかっているかは不明である。  何度かワインを注がれているうちに、修子は少し酔ったようである。  メインのビーフククイレが終り、デザートにメロンがでたところでトイレに立つと、目の縁が赤い。 「少し、飲みすぎたわ」  化粧室から戻ってきて両の頬をおさえると、要介が改まった口調でいう。 「どうして、あなたのように美しい女性が独身でいるのですか」  いきなり話題が変って戸惑っていると、要介がさらに続ける。 「あなたが独身でいるなんてもったいない。いま、好きな人はいないのですか」  要介のきき方はいつも突飛である。予告もなしにずばりと核心に触れてくる。 「わたし、当分、結婚はしません」 「しかしいつまでも独りでいるわけにはいかないでしょう」 「とにかく、いまのところは結婚する気はないんです」 「じゃあ、他に好きな人がいるのですね。そういう人がいるから暢《の》んびりかまえているのでしょう」  修子が黙っていると、要介が目を伏せながらいう。 「変なことを、きいてもいいですか」 「なんでしょう?」 「あなたは秘書でしょう。間違っていたら悪いけど、社長と秘書とは親しくなることが多いというけど……」 「まさか……」  修子は食後のデザートのメロンにスプーンをつけたまま苦笑する。  いかにも、要介が考えそうなことだが、修子は社長を好ましく思ってはいても、愛を感じたことはない。社長もそのあたりのことは承知していて、仕事以上に近づくことはない。 「じゃあ、社長とはないと信じていいんですね」 「少し、お酔いになったんじゃありませんか」 「済みません」  要介は素直に謝る。 「しかし、あなたは絶対に好きな人がいるでしょう。いなければ、そんなに悠々としてはいられないはずだけど」 「わたし、悠々としているように見えますか」 「よくはわからないけど……」 「わたし、結婚には向いていないのです」 「そんなことはない。あなたは綺麗好きだし、家庭に入ったらいい奥さんになれる」 「どうして、そんなことがわかるのですか」 「あなたを見ていればわかります。とにかく、美しくて色っぽい」 「そんな……」  修子は大袈裟に驚いてみせたが、それと同じことは会社の男性達にもいわれたことがある。  色っぽいと、自分で意識したことはないが、よくいわれるところをみると、男性達はその種のものを感知する独特の勘があるのかもしれない。 「あなたは、世田谷の瀬田に住んでいるといったでしょう」  要介はそこで言葉を探すように少し間をおいた。 「そこに、本当に一人で住んでいるのですか」 「もちろんよ」 「まさか、誰かと住んでいるわけではないでしょうね」  修子は一瞬ぎくりとした。遠野とは同棲というわけではないが、彼がときどき泊っていくことはたしかである。 「今度一度、部屋に遊びに行ってもいいですか」 「かまいませんけど、遠いし、狭いところですから」 「でも電車に乗れば、ここから一時間もかからないでしょう」 「そのうち、お招きします」 「本当は迷惑なのでしょう」 「そんなことはありませんけど、あなたは会社の近くで、いつでも会えるから……」 「外で会うのもいいけど、あなたの部屋にも行ってみたい」  要介は少し駄々っ子みたいなところがある。それが可愛いときもあるが、ときに鬱陶《うつとう》しいときもある。 「今日、これから、行ってはいけませんか」 「それは無理よ……」  修子は慌ててナプキンで口を拭いた。 「散らかっていて、とてもお見せするようなところじゃないわ」 「でも、一度でいいからあなたの部屋を覗《のぞ》いてみたい」 「駄目よ」  修子は首を横に振りながら、今夜、遠野がくるといっていたことを思い出した。十時か、もう少しあとになるかもしれないが、仕事の関係のパーティに出たあとにくるといっていた。 「じゃあ、お茶を一杯、飲ませてもらったら帰りますから、いいでしょう」 「………」 「失礼なことはしません、お願いです」  要介が深々と頭を下げる。はたから見るとどんな風に見えるのか、修子は気になる。 「さあ、もうそんな話はやめましょう」 「やっぱり、駄目ですか」 「そのうちね」 「じゃあ、かわりに、これから僕と一緒に飲みに行って下さい」  腕時計を見ると八時半だった。  これから飲みに行っては遠野が部屋にくるまでに帰れないかもしれない。  そう思いながら、要介と飲みに行くことを考えていた。  秘書という仕事は比較的孤独である。会社に出ても一般の社員とは離れて、一人だけ社長や重役のそばにいる。  修子は、野球の捕手を見る度に、なんとなく秘書の立場を思い出す。フィールドにはチームメートが散らばっているのに、捕手だけ一人、他のチームに近いところにいて、バッターやアンパイヤーに囲まれている。  秘書も常に社長の近くにいるので経営者側の人間のように思われるが、経営者ではない。いいかえると、どちらつかずの中途半端な存在である。  そのせいか、社の女性達と親しく話すこともあまりない。  むろん昼休みや仕事が終ったあとで、彼女等と話す機会はある。が、仕事の都合で昼食が遅れたり、秘書室で一人で食べることも多いし、たとえ一緒になっても、彼女等のほうで秘書という立場に一目おいているようなところがある。そんな特別扱いがいやで、修子はできるだけみなのなかに入っていくように努めるが、それでもいま一つ入りきれない。  このあたりが秘書の淋しさだが、それで少し助かっているところもある。たとえば遠野からの電話だが、直接秘書室に入ってくるので一般の社員には知られずにすむ。さらに隔離されている分だけ、社内のつまらぬ噂話に巻きこまれることもない。  いま、修子が社内で最も親しくしているのは、広報部の庄野千佳子くらいなものである。彼女は修子の三歳上で、結婚して子供もいるが、広報部の課長をしている。なかなかのやり手で上司の信頼も厚いが、気性がさっぱりしていて女子社員のなかではもっとも気が合う。  彼女を除けば、修子はむしろ男性社員とのほうが話し易いし、彼等も気軽に話しかけてくれる。なかには総務部長のように、「このごろ、また一段と色っぽくなったな」と、素早くお臀《しり》に触っていくワルもいる。  だがそれだけ気軽に話していても、そこから一歩すすんで本気で近付いてくる男性はいない。こんな状態に対して、千佳子は彼女なりの解説をしてみせる。 「あなたほどの女なら、きっとどこかにいい人がいると思いこんでいるのよ。男ってみなプライドが高いから、この女性は難しいと思うと、すぐ諦めてチャレンジしてこないのよ」  そんな風にいわれるといささか残念だが、こちらから「近付いてきて」と、頼むわけにもいかない。  しかしこういう状況下では、向こう見ずな岡部要介の存在は貴重である。社内の男性達が考えたり戸惑っているのに、彼だけはまっしぐらに向かってくる。  もっとも要介の場合は、社外の人間であるだけに気が楽なのかもしれない。 「これから、赤坂に行きましょう、一寸知っているバーがあるのです」  いまも要介は強引に誘ってくる。  久し振りに若い男性と二人だけで食事をしたせいか、もう一軒くらい飲みに行ってみたい気もするが時刻はすでに九時に近い。これからバーへ行くと、マンションに戻るのは十一時近くになって、遠野との約束の時間に遅れてしまう。  もっとも、彼とはっきり、時間の約束までしたわけではない。大体、十時ころにマンションに来るつもりかもしれないが、遠野のことだから、十時半になるか、十一時になるかわからない。  だがもし十時にくると、部屋に入れずに、外で待ちぼうけをくわすことになる。  こんなときのために、修子は何度か、遠野に鍵を渡そうかと思ったことがある。彼が鍵を持っていれば、こちらが多少遅れても、部屋のなかで待つことができる。実際、遠野も「部屋の鍵があると便利だけど……」といったことがある。  だが、修子は苦笑しただけで渡さなかった。  正直いって、修子は遠野に隠さねばならぬことは一つもない。自分のいないあいだに部屋に入られても困ることはない。  それでも遠野に鍵を渡さなかったのは、修子の意志からである。  むろん、遠野を信用していないとか、それほど愛していないといった理由からではない。  どんなに深く結ばれていても、自分の部屋だけは自分のものにしておきたい。そこだけは自分の聖域として残しておきたい。修子が鍵を渡さなかったのは、それだけの理由からで他意はない。  しかし眞佐子などにいわせると、そんな修子の態度を冷たいという。他人ではないのだから、渡すべきではないかという。  だがそれでは、彼と彼女との平凡な関係に堕してしまう。せっかく二人で緊張した愛しい関係を保っているのに、鍵を渡した瞬間から通俗な男女のあり方に変貌してしまう。  たとえ愛していても、二人のあいだに、侵すべからざるものを一つくらいおいておきたい。男女のあいだはほどよい障壁があったほうが、新鮮で爽やかな関係を持続することができる。  こんな修子の気持を、初めは遠野も納得しかねたようである。不満そうに、「君の気持は、よくわからない……」とつぶやいたこともあった。  だがそのうち諦めたのか、それとも理解したのか、鍵を欲しいとはいわなくなった。  鍵はなくても、遠野は部屋に来たいときに自由に入ってこられる。むろんあらかじめ電話をしてからだが、それで二人の関係が崩れることはない。それどころか、ほどよい緊張関係は相変らず保たれている。  しかし正直いって、今夜のような場合はあきらかに不便である。彼が鍵を持っていないばかりに、修子も暢《の》んびりできない。  だが考えてみると、修子は今夜は初めから要介と食事をするだけのつもりであった。それを誘われるままにもう一軒行こうと思うこと自体、修子の予定変更であり、我儘である。その結果、多少のわずらわしさがおきるのは、今夜にかぎったことではない。 「それじゃ、そろそろ行きましょうか」  要介が腰を浮かしかけたのを見て、修子は慌てて首を横に振る。 「やっぱり、ここで失礼します」 「どうしてですか。さっき誘ったときは黙っていたでしょう」 「せっかくですけど、またこの次に誘って下さい」  修子が丁寧に頭を下げると、要介は不貞腐れたように椅子に背を凭《もた》せた。 「誰かが、待っているんですね」 「そんなんじゃありません、ただ一寸、用事を思い出しただけです」 「本当は、僕を避けているのでしょう」 「ご免なさい。またべつの機会にゆっくりお逢いしましょう」  執拗に問い詰められるうちに、修子は若い男の一途さが鬱陶しくなってくる。  修子が瀬田のマンションに戻ると、九時半を少し過ぎていた。  部屋に入ると、修子は指輪とイヤリングをクリスタルのバスケットに入れてから、ピンクのセーターと紺のスカートに着替え、髪にヘアーバンドをつけた。化粧は遠野がくるかもしれないのでそのままにして、湯を沸かして郵便物を見る。  湯が沸いたところでお茶を淹《い》れ、ソファに坐ってゆっくり飲みながらテレビを入れる。  そろそろ十時で、夜のニュースショウが始まる時間である。  外資系企業に勤めているせいもあって、修子は部屋にいるときはできるだけニュース番組を見る。今日一日の大きな事件が大体わかるし、外国のニュースも身近に感じる。  その点ではニュースショウは便利だが、一時間以上も続くせいか一つ一つのニュースが長すぎたり、ニュース以外のものが入ってきて興味を殺《そ》がれることもある。  途中、修子は立上ってバスルームに行き、浴槽に湯を張った。  再びソファに戻ってテレビを見ているうちに、十一時になる。  修子はもう一度、お茶を淹れ直してから遠野のことを思った。  十時ころといったが、やはり少し遅れてくるようである。こんなことなら、要介ともう一軒、飲みにいってもよかったが、いまとなっては仕方がない。  修子はテレビを消し、ジャズのピアノ曲を聴きながらロンドンにいる友人の美奈子に手紙を書きはじめる。  修子がイギリスにいるときに知り合った友達で、二年前にイギリス人と結婚した。どういうわけか、修子の誕生日にはまだ少し間があるのに、バースデーカードを送ってきたので礼状を出すことにする。  会社では社長の替りに英文で何通も手紙を書くのに、いざ私用のとなるとなかなか書けない。それをようやく書き終えて、時計を見ると、十一時半だった。  いったい、あの人はどこへ行ったのだろうか。  いままでも遅れることはあったが、そういうときは必ず電話をよこした。それがないところをみると約束を忘れたのか、それとも余程楽しいことでもあったのか。  仕事の関係のパーティだといっていたから、そのあと銀座にでもくり出したのかもしれないが、それにしても電話の一本くらいよこしてもよさそうなものである。  修子は苛立つ気持をおさえるように、サイドボードの棚からリキュールのボトルを取り出して、グラスに注ぐ。いつもは眠られぬときに、睡眠薬がわりに飲むのだが、今夜はかえって目が冴えてきそうである。  一口飲んで、また音楽に耳を傾ける。  正直いって修子は、遠野を待って苛立つ自分が好きではない。  眞佐子などは、好きな人を待っているときが楽しいというし、その気持もわからぬわけでもないが、待つのはやはり辛い。とくに修子がいやなのは、待っているうちにいろいろな想念にとりつかれ、ついにはその男を怨むようになることである。できることなら男を憎んだり怨みたくはないし、それ以上に、そんな状態に自分を追いこみたくない。  そのまま、二杯目を飲んでいると、電話のベルが鳴った。  修子は受話器を見詰め、ベルが五つ鳴ったところで取ると遠野の声が返ってきた。 「遅れて済まん、もう少し待ってくれないか」  どこかのバーにでもいるのかと思ったが、声以外に物音はしない。 「いま、どこですか」 「一寸ね。……急用があって、家に戻っている」  思いがけない返事に修子が黙っていると、遠野が声を低めていう。 「たいしたことではないんだが、あと一時間以内にはいく」 「でも、十二時を過ぎますよ」 「大丈夫だ。遅くなっても行くから、待っていてくれ」  修子は、テーブルの上のグラスを見たまま答える。 「べつに、無理しなくてもいいわ」 「そうではない、とにかく行く」 「でも……」  修子は皮肉や腹いせにいっているわけではない。パーティに出ていたのに急に家に戻ったところをみると、かなり重要な用事があったに違いない。そんなときに、約束をしているからといってまたわざわざ出てくるまでもない。  いままで修子が少し苛立っていたのは、遠野がこなかったからではなく連絡がなかったからである。本当にくるのかこないのか、わからないまま宙ぶらりんな状態にいる自分がいやで、落着かなかっただけである。 「とにかく、あとでよく話す」  自分の家のせいか、いいにくそうである。 「じゃあ、もし出られるようになったら、電話を下さい」 「そうするから、待っていてくれ」  そのあと、遠野はもう一度、「わかったね」といって電話を切った。  修子は受話器を戻してからもう一口リキュールを飲み、それからバスルームに行って鏡に向かった。  あの人がくると思って、いままで化粧を落さずにいたが、もう洗ってもよさそうである。  修子は髪をゴム輪でうしろに留め、洗面台にお湯をとる。まずクレンジングクリームで顔を拭きとり、フォームで洗い流していくうちに、少しずつ遠野の影が薄れ、素顔の修子が甦ってくる。  そのままぬるま湯で顔を洗い終ったところで、修子はようやく普通の自分に戻ったような気がして水を飲む。  修子は寝つきはいいほうである。床に入ると大抵は二、三十分で眠れるし、疲れているときはソファでテレビを見たまま仮眠《うたたね》することもある。 「君の最大の長所は、寝つきと寝起きのいいところだ……」と、遠野に皮肉まじりにいわれたこともある。  年頃の女性なら、もう少しもの思いなどに耽《ふけ》りながら眠られぬ夜を過ごすほうが、サマになるような気がするが、仕事をもっていてはそんなことをいっていられない。それに寝不足は三十を過ぎた肌には覿面《てきめん》に響くし、明日の仕事にもさしつかえる。  よく眠るのが美しさを保つ秘訣とわり切っているが、今夜だけは少し眠れない。枕元のスタンドの小さな明りだけをつけ、ブラームスのシンフォニイを聴きながら目を閉じるが、ごく自然に遠野のことが頭に浮かぶ。  電話のあと連絡がないが、本当にこれから来られるのか。  家から電話をしているせいか、遠野の話し方はいつになく歯切れが悪かった。まわりに人でもいたのか、小声で落着きがなかった。  修子はまだ、遠野の家を見たことがない。もちろん住所は知っていて、行く気になれば行けないわけではないが避けてきた。  初め、遠野を知ったときから、修子は、彼の家での生活は自分のあずかり知らぬことであり、別の世界のことだと決めてきた。したがって遠野の妻にも会ったことがない。  せいぜい、ときに洩らす遠野の言葉の端から、修子より一廻り年上の、中年の女性を想像するだけで、それ以上のことはなにもわからない。  おかげで、いま遠野のことを考えても、彼の困惑した顔が浮かんでくるだけである。  修子は寝返りをうち、枕元の時計が十二時半を示しているのをたしかめてからスタンドの明りを消す。  眠るとき、修子は明りがないほうがいいが、あとで遠野がくると闇に戸惑うかもしれない。修子はもう一度小さな明りをつけなおし、光りを遮《さえぎ》るようにスタンドの笠を傾けた。  そのまま目を閉じ、息を潜めているうちに軽く眠ったらしい。  漠然とした意識のなかでかすかな音をきき、目を覚ますと入口のチャイムが鳴っている。  修子は慌ててベッドから起き、時計を見た。  午前一時である。  チャイムはいったんとまり、今度はどんどんとドアを叩く音がする。  急いでリビングルームの明りをつけてドアを開けると、待ちかねたように遠野が飛び込んできた。 「眠っていた?」  余程急いできたのか、遠野は額に軽く汗を滲《にじ》ませ髪が少し乱れている。 「水を一杯、くれないか」  修子は冷蔵庫から冷えた麦茶をとり出してグラスに注ぐ。 「うまい」  遠野はそれを一気に飲み干すと、ソファに坐った。 「遅くなってしまった……」 「くる前に電話をくれると、いったでしょう」 「そのつもりだったけど、電話をする時間が惜しくてね」  坐った遠野の上体は軽く揺れて、少しアルコールの匂いがする。 「酔っているんですか」 「たいして、飲んでいない」  遠野は坐ったまま背広を脱ぎ、ネクタイをゆるめる。 「今日は疲れた……」 「なにか、あったのですか」 「あったあった、沢山ありすぎて、なにから説明していいかわからない」  遠野はそこでネクタイを投げ捨てると、一つ大きく溜息をつく。 「ここにきて、ようやくほっとした。もう一杯、水をくれないか」  修子が再び冷蔵庫から麦茶をとり出すと、遠野がつぶやく。 「修は本当にいい女だ、最高だよ」 「急に、どうしたんですか」 「いい女だから、いい女だといっているんだ」 「わたしは、そんないい女じゃありません」 「いや、いいよ。家《うち》の奴にくらべたら問題にならん」  どうやら、遠野は家で妻といさかいをしてきたようである。電話でいいにくそうにしていたのは、そのせいなのであろう。 「どうも、女というのはわからない」 「あなたは、一番よくわかっているんじゃありませんか」 「それがわからない。とにかく、長くいるとろくなことはない」 「………」 「まったく、どうしようもない」  遠野はそういってから、ぽつりとつぶやく。 「子供のやつが警察につかまってね」  思いがけない話に、修子は思わず坐り直す。 「ただ、仲間とバイクを飛ばしていただけらしいんだが……」  遠野には子供が二人いるが、その下の高校生の男の子のことらしい。 「警察からはすぐ帰されたんだが、悪いのはすべて俺のせいだということになってね」  争いの細かいことまではわからないが、それだけで大体の察しがつく。 「とにかく、女は興奮しだすと、いうことが無茶苦茶だ」  遠野のいうこともわかるが、彼の妻にもそれなりのいい分はあるのであろう。いずれにせよ修子が関わり合うべきことではない。 「それで大丈夫なのですか」 「とにかく、大変な夜だった」  遠野はそういうと、寝室へ行こうとする。 「駄目よ」  修子はきっぱりと首を左右に振った。 「今日は、このまま帰ったほうがいいわ」 「喧嘩をして家をとび出してきたのに、いまさら帰れるか」 「だからこそ帰ったほうがいいわ。このまま帰らないと心配されるでしょう」 「心配なんかしない、いままでだって何度も泊ってるじゃないか」  遠野はときどき少年のようになる。これが十七歳も年上の男性かと思うほど駄々をこねる。 「今夜はどんなに遅くなってもくるといったろう。ちゃんとその約束を守ってきたのだ」  たしかに遠野が約束どおりきてくれたことに修子は感謝している。とくに喧嘩をしたあとに出てくるのは、相当の勇気が必要であったに違いない。  しかしだからといって、このまま引き留めて部屋にかくまう気にはなれない。  そこまでしては、二人の争いの渦中に自ら巻きこまれることになりかねない。夫婦の争いは、あくまで夫婦のあいだで解決すべきで、他人が入りこむべき問題ではない。  遠野は好きでも、そのあたりの|けじめ《ヽヽヽ》だけはきちんとしておきたい。 「これから帰っても、むし返すだけだ」  軽く下を向いた遠野の顔は陰になって、中年の男の疲れが滲《にじ》んでいる。 「泊っても、いいだろう」  今度は、哀願するような口調になる。 「ここしか、俺の安らぐところはない」 「じゃあ、少しだけ休んで、それから帰って下さい」 「今日は朝から働きづめで、おまけに警察沙汰で疲れてるんだ、これから眠ったら何時に起きられるかわからない」 「大丈夫です、三時には起こしますから、朝になる前に帰って下さい」 「頑固な奴だ」 「わたしが頑固なのでなく、あなたが勝手なのよ」  修子はそれだけいうと、脱ぎ捨てられたままの遠野の上衣をハンガーに掛ける。  枕元の目覚まし時計の音はさほど高くはない。ゆっくりと木琴でも叩くようにやわらかな音が続く。その少し間の抜けた音をきいていると、修子は自然に目が覚める。音の高さより、そのリズムが頭に馴染んでいるようである。  目覚めたとき、時刻は三時五分すぎだった。  修子は背を向けている遠野の肩をそっと叩いた。 「時間ですよ、起きて下さい」  休む前、二人は軽く抱き合っていたはずである。  遠野は修子の額に接吻をし、パジャマの胸元を開いたが、そこまでで安心したように眠ってしまった。  それにつられて修子も目を閉じたが眠りは浅く、その大半は夢であったような気がする。  どういうわけか、少し離れた位置から遠野が呼んでいる。彼のうしろには妻がいるようだがよく見えず、見知らぬ人が前を行き来する。場所は会社の近くのようでもあり、大分前に遠野と一緒に行った京都の街角のようでもある。奇妙なことに、修子の前にはサザランド支配人が車を寄せて待っている。  そんなとりとめもない夢を見ているうちに、目覚まし時計が鳴りだしたようである。 「起きて下さい」  もう一度、肩を揺らすと、遠野はようやく気が付いたらしく、仰向けのまま二、三度、頭を振ってから目を開いた。 「もう三時ですよ」  遠野は「なあんだ……」というように顔をそむけ、それから一つ欠伸《あくび》をした。 「もう少し、眠る」 「駄目よ、少し休んだら帰る約束だったでしょう」  背を向けた遠野の肩を、修子はもう一度引き戻す。 「いまならまだ暗いから、さあ、起きて」 「放っといてくれ」  今度は遠野は蓑虫《みのむし》のように背を丸くする。 「このまま眠って、明日、会社はどうするのですか」 「ここから出て行く」  修子のところには、遠野の下着はあるが、ワイシャツやネクタイの予備はない。 「昨日のままじゃ、おかしいわ」 「かまわん……」  遠野はうるさいというように、タオルケットを目深に引き寄せる。 「やっぱり起きなきゃ駄目よ。喧嘩をしてきたのでしょう」 「だから、帰らないといっているだろう」 「そんなの卑怯よ」 「どこが、卑怯なんだ」 「だって、奥さまは家にいるのでしょう」  どのような事情にせよ、喧嘩をして自分だけ逃げ出してくるのは狷《ずる》い。  幸い、遠野は修子の部屋という逃げ場があるが、妻のほうには出ていくべき場所がないはずである。いずれにしても、男だけが一方的に逃げてくるのは身勝手というものである。 「お願いですから、今日だけは帰って下さい」  こういうときは、母親のように優しくいったほうが効き目がある。相手は分別ある大人より、ヤンチャ坊主だと思って対応したほうがよさそうである。 「あなたが、きてくれたことは嬉しいけど、今夜は帰ったほうがいいわ」  修子に訓《さと》されて、急に家のことでも思い出したのか、遠野は呆《ぼ》んやり天井を眺めている。 「喧嘩なんかしていないときに、ゆっくり逢いたいわ」 「………」 「さあ、起きて」  そのまま修子はリビングルームに行って明りをつけた。  つい二時間前、遠野が脱いだ背広とズボンが、壁の端のハンガーにぶら下っている。それをおろしてネクタイを伸ばしていると、遠野が起きてきた。 「コーヒーでも呑みますか?」 「いや、濃いお茶がいい」  修子が流しで湯を沸かすと、遠野は諦めたように服を着はじめた。  まだ眠気は覚めぬらしく、気怠《けだる》そうにワイシャツに腕を通している。 「ずっと、起きていたのか?」 「少し眠りました」 「明日、会社は大丈夫か?」  サイドボードの上の時計は、すでに三時半を示している。 「あなたが帰ったら、もう一度、眠ります」 「まだ三時間くらい、あるかな」 「すぐ、眠れたらね」  修子は微笑んでカーテンのかかっている窓を見た。 「車を呼びましょうか」 「出たら、拾えるだろう」  修子が立上ると、遠野も仕方なさそうに立上って出口へ向かったが、沓脱《くつぬ》ぎの前で振り返る。 「帰るぞ……」 「わかったわ」  修子がうなずくと、遠野の上体が近づき、顔を寄せてくる。そのまま短い接吻をして、遠野は体を離す。 「騒がせて、悪かった」 「お休みなさい」  遠野が軽く手をあげ、少しおどけたように片目をつぶる。その顔にうなずくと、ドアが外側から閉まる。  修子はなお廊下を去っていく跫音《あしおと》をきき、それが途切れたところでゆっくりと鍵をかけた。  薄  暑  修子の誕生日は、遠野のそれより三カ月あとの、七月の半ばの土曜日であった。  その日、修子は目覚めるとともに、自分が三十三歳になったことを自覚した。  といっても、顔や姿がとくに変ったわけではない。ただパジャマのまま朝のコーヒーを飲みながら、今日で三十三歳になったとしみじみ思っただけである。  ついにというか、いよいよというか、三十の半ばに近づきはじめたようである。  正直いって三十歳になったときは、自分がそんな年齢《とし》になったことに驚き、かつ呆れた。これから年齢の欄に、「三十歳」と書くことを思っただけで気が滅入った。  だがその衝撃も一年も経つと薄れ、去年あたりまでは、三十代といっても、まだなったばかりだとたかをくくっていたのに、三十三歳ではかぎりなく二十代に近いというより、三十半ばに近い。  コーヒーを飲みながら、修子は先日、向こうの雑誌で読んだ「エイジング・コンプレックス(Aging Complex)」という言葉を思い出した。  男も女もある年齢に達すると、その年齢にコンプレックスを抱くようになるが、女性の場合はまず二十代の後半にそれを感じ、次いで三十代の半ばからまた強く感じはじめるという。もしそうだとすると、修子はこれから本格的なエイジング・コンプレックスに悩まされることになる。そんなこと、年齢をとったら当然だと思いながら、みんなはそれをどう切り抜けていくのか気になる。いずれにせよこれで完全な三十代になってしまった。そう思った途端、修子はこれからの自分にかすかな不安を覚えた。  はたして、このままでいいのだろうか。  はっきりいって二十代の前半はなにがなんだかよくわからぬまま、がむしゃらにすすんできた。大学を卒《お》えてロンドンに出かけたのもこの時代で、仕事よりも目先の好奇心のままに動いていた。  少しは自分の生き方に目標をもち、それに意図的に立ち向かえるようになったのは二十代の後半からで、そのころになっていくらか地に足がついてきた感じである。いまの外国企業の秘書という仕事についたのもこの時期で、ようやく自分の才能を発揮できる仕事にめぐりあえたようである。  これまでの歳月は、現在の地位をうるための必要な期間であったと思えば納得もできる。  だがこのあともいまの仕事を続けていくだけでいいかとなると、問題が残る。  たしかにいまの仕事は女性としてはやり甲斐もあるし、給料も悪くはない。他のOL達からは羨まれるほどのいい条件である。  だが三十半ばに近づいてみると、同じ仕事を続けていくだけでは、少しもの足りない気がしないでもない。生意気をいうようだが、いまの状態からもう一歩踏み出して、なにか自主的なことをやってみたい。  といっても近々に仕事を辞めるとか、新しい仕事を始めるということではない。  そうした仕事のことより、修子の心の内側でなにか一つ、現状から抜け出したいと願っているものがある。それが具体的になにを表すのか、修子自身にもよくわからないが、このままでは現状に馴染むまま日常のくり返しのなかに自分が埋没しそうである。  三十三歳の誕生日をきっかけに、なにかいま一つ熱中できるものを見付けて、自分を大きくしたい。  そんなふうに思うのも、三十代半ばに近付いた年齢と無縁ではないかもしれない。  梅雨の半ばのせいか、空は相変らず低く雲がたちこめ、鈍い朝の明りがベランダをおおっている。グルーミィな朝だが、雨が降らぬならこんな天気も悪くない。むしろ会社が休みの土曜日には、陽が翳《かげ》ったほうが気持は落着く。  修子はしばらくベランダを眺めてから、また視線を部屋に戻した。  正面にテーブルをはさんでソファがあり、その先にサイドボードがある。サイドボードの棚には、ワインやブランディのボトルとともに、さまざまなグラスが並んでいる。サイドボードの棚の上には、エナメル仕上げのティファニーの置時計があり、その横に縦長の花瓶が並び、白いカラーの花が三本挿し込まれている。さらに棚の端には昨夜までつけていた指輪とイヤリングが入ったクリスタルのバスケットが輝いている。  リビングルームは十畳間だが、他にはキッチンへ続くコーナーに二人用の白木の食卓テーブルがおいてあるだけで、あとは入口の近くに電話台があるだけである。  女の友達は、「男の部屋みたい」というが、修子は縫いぐるみや人形などで飾った部屋はあまり好きではない。それらがあるとたしかに女らしいかもしれないが、見方によってはくどくて、雑然とした感じになる。それよりも、部屋の調度はあっさりとして、清潔なほうがいい。壁も、ソファのうしろにバラディエの少女の坐像が一枚かかっているだけで、あとは淡いベージュ一色である。  よく見ると女が生活していることはわかるが、家庭の匂いはしない。  その静かですっきりした部屋のなかでコーヒーを飲みながら、修子は昨夜、母と電話で話したことを思い出した。  いつものことだが、母は修子の誕生日を覚えていてくれて、週末に実家に帰るように電話をよこしたのである。誕生日に、たまに母と二人で過ごすのもいいと思ったが、その日は、遠野と小さな旅行へ出かける約束があった。 「お盆に、まとめて帰るわ」  そう答えて雑談していると、母がなに気なくつぶやいた。 「わたしら、あんたの年頃には子育てで手一杯だったけどね」  修子は、いつもの母の愚痴のようなつもりできいていたが、考えてみると、修子の年齢のとき、母はすでに三人の子供がいたことになる。もっとも、いまでは三人も子供がいる家庭は珍しく、修子の大学時代の友達でも子供がいても一人か二人までである。 「子育て以外に、考えたことはなかったの?」 「考えようにも、子供がいるとそんな暇はなかったから」  母の言葉をききながら、修子は子供がいる友人の顔を思い浮かべてみた。  当然のことながら、彼女らは結婚しているため独身の修子とは話題もあわず、親しく際《つ》き合ってはいない。それでも二カ月前に渋谷で偶然会った友人は子供の手を引きながら、つい数日前に自分の誕生日がきたことも忘れていたと話していた。  その女性の屈託のない表情には、年齢をとったことを憂えている気配はなく、それどころか「早くこの子が学校に行くようになってくれれば」と、目を細めながら子供を見詰めていた。  そういう情景を見ていると、子をもつ母親は年齢をとることがさほど苦痛ではないのかと思う。多分、自分の年齢のことよりは、ひたすら子供が大きくなることを望んでいるようである。  母や女友達の言葉を思い出すうちに、修子はますます自分の生き方がわからなくなってくる。  現在、自分にもっとも合っていると思う仕事をしながら、いま一つ満たされない部分があるのは、やはり結婚をしていないからなのであろうか。結婚して子供をもてば、もう少し生活も充実して年齢をとる焦りも消えるのかもしれない。  考えているうちに、修子はふとワインを飲みたくなった。  どういうわけか、このごろ部屋に一人でいるとワインを飲みたくなることがある。味がどうこうというより、暢《の》んびりと一人でグラスを傾けているのが心地いい。  修子はキッチンの戸棚から昨日の残りのフランスパンをとり出し、薄切りにしてキャビアをのせた。ワインは先日、社長からもらったボージョレの赤で、一つだけあるクリスタルのワイングラスに注ぐ。  独身の楽しさは、朝からこんな時間をもてることである。そのままキャビアをのせたパンの薄切りをつまみに飲むうちに、修子は少し酔ってきた。  なにやら、身内から熱いものがほとばしるような感じとともに、新しい勇気が湧いてくる。 「わたしも、結婚して子供を産もうかしら……」  なに気なくつぶやいてから、修子は慌ててあたりを見廻す。  誰かが近くで囁《ささや》いたように思ったが、むろんまわりには誰もいない。ティファニーの時計も、白いカラーの花もクリスタルのバスケットも、起きたときのまま女一人の部屋のなかで静まり返っている。  修子はさらにワインを飲み、それからいまの言葉をもう一度|反芻《はんすう》してみる。 「結婚して、子供を産もうかしら」  いままでも、そのことを考えないわけではなかった。親しい友達が結婚したり、実家の母に会う度に結婚のことを真剣に考えたが、なにか自分にそぐわぬような気がして振り捨ててきた。とくに遠野と親しくなってからは、それは遠い夢なのだと決めつけてきた。  だが、いまつぶやいてみると、ごく自然に心のなかに響いてくる。とくにそれを望んだり、憧れているわけではないが、結婚することを当然と思いこんでいる自分が、しっかりと自分のなかに居坐っている。 「やっぱり、普通の女の子と同じように……」  修子はこれまで自分のやりたいことを、普通にやってきただけだと思っていた。  だがいま、「普通の女の子と同じように」とつぶやいてみると、いままでの生き方が普通の生活ではなかったように思えてくる。  一体、どちらが本当の自分なのか。  どうやら修子のなかで、普通の女の部分と、そうでない部分とが共存しているようである。  これまでは、結婚や子供を産むことにあまり積極的ではない、普通の女性とはやや違った修子が中心を占めていたが、三十三歳になったのをきっかけに、普通の修子が頭を擡《もた》げてきたのかもしれない。  修子はグラスの中で揺れるワインを見ながら、改めて自分がいま切実に子供を産みたいと思っていることを実感する。  それは頭で考えた結果というより、修子の体のなかから湧き起こってきた自然の欲求で、理屈というより女の本能的な願いのようでもある。 「せっかく、女に生れてきたのだから……」  修子の頭の中にまた母の言葉が甦ってくる。  たしかに女と生れて、子供を産む能力をさずかっている以上、産むのが自然なのかもしれない。それはすでに備わっているものを利用するのだから、誰に非難されることでもない。  でももし産むとしたら、そこまで考えるとごく自然に岡部要介の顔が浮かび上ってくる。  あの人と結婚して、そこまで考えて修子の思考は突然止る。  もし子供を産むとしたら、あの人と結婚してあの人の妻にならなければならない。しかも生れてくる子はあの人の血を半分受け継いでいる。  いま、要介に結婚してくれるように頼んだら、彼は簡単に受け入れてくれそうである。この確信は、修子にいつもある安心と余裕を与えてくれる。  だがその最後の切札を、ここで使っていいのだろうか。それではあまりに安易で身勝手すぎはしまいか。  さらにワインを飲み、グラスのなかの深紅色を眺めていると電話のベルが鳴った。  瞬間、自分の心を見透《みす》かされたような気がして呼吸を整え、それから受話器をとると遠野の声だった。 「寝ていたのか?」 「起きていたわ、どうして」 「なかなか出なかったから……」  遠野はそこで声を少し大きくした。 「誕生日おめでとう。ついにゾロ目になったね」  三十三を、三が二つ続くからゾロ目といっているらしい。 「ところで今日は三時ごろにそちらに行くから、準備をしておいてくれ」  以前から、遠野とは誕生日に箱根へ泊りがけで行く約束になっていた。 「ホテルは土曜日で混んでいたが、湖の見えるいい部屋をとれた。修のマンションを三時に出れば、遅くても五時には着くだろう。まだ明るいから芦ノ湖のスカイラインを廻ってもいい」  遠野はそこで、修子が返事をしないのに気がついたらしい。 「どうしたんだ、誰かきているわけじゃないんだろう」 「一寸、ワインを飲んでいたので」 「とにかく三時に行くから。雨は降らないと思うけど山のなかだから、簡単な雨具くらいは用意したほうがいいかもしれない」  遠野はそれだけいうと、「じゃあ、あとで」といって電話を切った。  修子は再びソファに戻り、飲みかけたグラスを手にした。  偶然だろうが、結婚して子供を産むことを考えているときに、遠野から電話がかかってきた。むろん遠野は、修子がそんなことを考えていたとは知るわけもない。それどころか誕生日に箱根にドライブすることで、修子は満足すると思いこんでいるようである。  実際修子のほうも、遠野からその計画を教えられたときには即座にうなずいた。自分の誕生日のために、箱根まで行ってくれる彼に感謝をしてもいた。  その当の本人が、誕生日の朝になると別の男性と結婚して子供を産むことを考えている。  修子は自分の気持の変りように驚いた。一夜寝て起きただけで昨夜とはまるで別のことを頭に描いている。  だが考えてみると、誕生日毎に気持が揺れるのが年齢《とし》をとった証《あかし》なのかもしれない。  このところ、三十になって少し諦めがつき、仕事にも熱中できて気持も安定していると思っていたが、その安定は見せかけだけだったのかもしれない。いままであまり戸惑うことがなかっただけに、そのゆり戻しが三十三歳の誕生日をきっかけに、表れてきたのかもしれない。  箱根にだけは、すべてを忘れて楽しく行ってこよう。  いずれにせよ、いまの修子の気持の揺れは、遠野に話したところでわかってもらえそうもないし、自分でもうまく説明する自信はない。  約束の午後三時に、遠野は修子のマンションに現れた。  もともと、遠野は時間にあまり正確な男ではない。外で待合わせをしても、十分や二十分は平気で遅れてくるし、家で待っているときは一時間以上遅れてくることもある。  その度にいろいろといいわけをいうが、理由はともかく、本気でくる気さえあれば時間までにこられるはずである。それを毎度のように遅れてくるのは、性格がルーズだからである。  そのことをいうと、「そうでもないんだがなあ……」と首を傾《かし》げながら、たいして悪いことをしたと思っている様子でもない。  もしかすると遠野は、遅れてくるのは優しさのせいだ、といいたいのかもしれない。  修子が一人で待っているのが淋しいだろうと思って、つい無理をして早目の時間をいってしまう。そして結局は遅れて謝ることになる。最近は遠野のそんなやり方に慣れて、修子も二、三十分はサバを読むようになってきた。  もっとも修子は、遠野の時間のルーズさをさほど不快に思っているわけではない。慣れてしまえばあまり気にならないし、ほどほどのルーズさのある男のほうが気は楽である。  そのルーズなはずの男が、約束の時間どおりに現れたのである。 「もうすぐ出られる?」  マンションの入口のインターホンからいきなりきかれて、修子は慌てた。 「一寸、待って下さい。あと十分か二十分……」  遠野は車の中で待っているというので、修子は急いで洋|箪笥《だんす》の前に立った。  箱根への一泊の旅なので、動き易い服にしようと思ったが、遠野から「ホテルのいい部屋がとれた」ときいて気持が変ってしまった。  箱根の山へ行くといっても一流のホテルで夕食をとるのだから、やはりラフな服装はおかしいかもしれない。迷った末、昨夜から考えていた白い麻のコートドレス風のワンピースを選ぶ。これなら細身のシルエットの線がきれいに出るし、タキシード風の衿元にも品格がある。服を着てから、パールの二連のネックレスと白と黒の太めのブレスレットをつけて鏡でたしかめる。  部屋のカーテンを閉めて鍵をかけ、スーツケースとハンドバッグを持って降りていくと、マンションの前に遠野の車が停っていた。 「ご免なさい……」  謝りながら助手席に乗り込むと、遠野がうなずく。 「今日の服はなかなかいい」  もともと遠野は派手なファッションを好まない。女性の服装はフェミニンでシンプルで、エレガントなのが良し、という意見である。自分の会社でつくる広告写真なども、そういう雰囲気の女性を登場させる。  修子はとくに遠野の好みに合わせて選んだわけでなく、どちらかというと地味な自分の顔にはシンプルな服装のほうが似合うと思ったからである。 「じゃあ、行くぞ」  遠野はハンドルを握ってから、思い出したようにいう。 「一緒に遠出をするのは久し振りだ」  たしかに二人で車で出かけるのは、去年の暮、二人で西伊豆まで行って以来である。 「大丈夫でしょうね」 「もう三十年もハンドルを握っているのだ」  修子は、遠野の車には何度も乗っているが、ときに強引に追越しをかけるときがある。年齢に似合わぬ無謀さだが、注意をすると「ベテランなのを知らないのか」といい返される。 「わたしと一緒に死んでは、大変でしょう」 「死んだら、なにもわかりゃしない」  そんな会話を交しているうちに、車は用賀のインターから東名高速に入る。  相変らず梅雨もよいの空だが、土曜のせいか上下車線とも混んでいる。その右端の追越し車線を強引なハンドルさばきで飛ばしていく。 「ハッピー・バースデー」  突然、遠野が顔を近付けてくる。 「もう、ハッピーという年齢じゃないわ」 「しかしまだ若い。女が美しくなるのは三十からだよ」 「そういって下さるのは、あなただけだわ」 「大体、女の二十代というのは誰でも美しい。二十で美しくなければ余程ひどい。三十代からが本当の勝負で、ここから先は際《つ》き合っている男によっても違ってくる」 「よろしく、お願いします」  修子が頭を下げると、遠野がにやりと笑う。 「任しておいてくれ」  修子はうなずきながら、今朝起きがけに要介との結婚を考えていたことを思い出す。  あのときは素直に、結婚して子供を産むことを考えていたのに、いまはそんなことは忘れて、美しい三十代の女になることだけを考えている。自分でも呆れるほど、一日のなかでころころと気持が変る。 「誕生日のプレゼントがあるんだけど、夜の食事のときでいいだろう」 「いつでも結構ですけど、なにを下さるのですか?」 「当ててごらん、一つは当るかもしれない」 「二つも下さるのですか」 「もう一つのほうは、絶対に当らない」 「まさか、お婆さんになる玉手箱じゃないでしょうね」 「お婆さんと、満更、縁がないわけでもない」  遠野の冗談をききながら、いまの修子は素直にスピードを楽しんでいる。  ホテルの部屋は広めのダブルで、壁は淡いベージュで統一され、奥のベランダからは静まり返った湖が見下せる。雲がなければその先に富士の頂きが見えるらしいが、いまは湖をとり囲む緑の斜面まで低く雲が垂れこめている。  案内してくれたボーイが去るのを待って、二人はベランダへ出てみた。  まだ夕暮れには少し間があるが、山の大気が冷たい。  部屋から見える湖は芦ノ湖の湖尻《こじり》に近く、遊覧船もここまでは入らず、鱒でも釣るのか、小舟が二隻、糸のような航跡を残していく。  ベランダの右手は杉の樹立になって山が迫り、左手は湖にそって開け、芝生を散策している人々が見える。曇っているので芦ノ湖を見下すスカイラインを走ることはあきらめたが、雲におおわれた湖もそれなりに風情がある。陽が翳《かげ》り、湖面は灰色に沈んで、湖はいつもより妖しさを増しているようである。  二人はそのままルームサービスでコーヒーをとり、ベランダのテーブルで飲んだ。  姿は見えないが右の山際で郭公《かつこう》の声がし、それにときたま芝生を散策する子供達の声がまじる。 「こういうところで、しばらく暢《の》んびりしていたい」  遠野が山の大気のなかで煙草を喫《す》う。  半月前から、遠野がある大手の電器メーカーのイベントの企画をとるために駆けずり廻っていたことを修子は知っていた。その仕事をとれるか否かは遠野の会社の死活に関わるとかで、この数日の遠野の顔の疲れは、その心労のせいに違いない。  できることなら修子は遠野の仕事を手伝ってやりたいが、そのことを遠野に申し出たことはないし、遠野も修子に頼んだことはない。  互いに助け合いたい気持はあっても、相手の仕事にまでは踏みこまない。仕事の内容を話して意見をきくことはあっても、具体的に手をかすことはない。そのあたりのケジメは、修子が遠野の家庭にタッチしないのと似ているかもしれない。  見方によっては冷たく見えるかもしれないが、助けを相手に求めたときから、二人はかぎりなく甘えそうである。その瞬間から一種の運命共同体になり、どこまでものめりこむかもしれない。そんな状態だけは避けたいという気持が、二人のあいだで仕事の話を少なくさせている原因かもしれない。 「忙しいのに、わたしのために、こんなところまできてもらって、悪かったわ」 「そんなことはない。修の誕生日を祝うというのは口実で、本当はここにきて、休みたかったのだ」 「でも今日は土曜だから、家でも休めたでしょう」 「東京を離れて、修と一緒だから憩《やす》まるのだ」  修子はふと、遠野と自分がいつになく近付いているのを感じる。最近のどの時間よりも、いまは互いの気持を思いやり、かばい合っている。  そんな優しさに、修子は和《なご》みながら少し怖いとも思う。  夕食はホテルを離れて、小高い丘の上にある洋館のステーキ専門店に行くことにした。  土曜日のせいでホテルのダイニングルームは混んでいたので、この選択は正しかったようである。  夕方、少し雨がぱらついて道路も草も濡れていたが、二人が洋館に着いたときは雨はすでにやんでいた。しかし相変らず雲は低く、山裾から霧がわいてくるのが、夜目でもわかる。  丘の上のレストランは湖畔の夜景を楽しむためにつくられたのだろうが、流れる霧にさえぎられて、湖はもちろん、周りに建ち並ぶホテルも和風の建物もよく見えない。  だがかわりに眼下の誘蛾燈やホテルの明りが霧にぼやけて、晴れた夜とは別の風情がある。  修子は遠野と一緒に、キャビアのカナッペとビーフコンソメを頼み、肉はフィレにする。  シャンペンは少しお腹が張るが、遠野はお祝いだといって一本抜く。 「おめでとう」  グラスを合わせ、目を交しながら、修子は改めて安らぎを覚える。  東京を離れて、二人だけで霧のなかにいるせいか、ここだけはまるで別天地のようである。  修子はこんなロマンチックなレストランで、遠野と二人だけで誕生日を迎えられたことを感謝した。  三十三歳という年齢は、さまざまな憂鬱をもたらすが、夜霧につつまれて食事をしたことだけは、楽しい思い出として残りそうである。 「連れてきていただいて、ありがとう」  修子が改めて頭を下げると、遠野が白い包みをテーブルの上においた。 「約束のプレゼントだ、開けてごらん」  修子は一瞬、遠野を見、それからこわれものにでも触れるようにゆっくりと開く。  ピンクのリボンを解き、白い包装紙を除《の》けると半円形に盛り上ったケースが出てくる。横に小さな留金があり、それを開けると輪状に時計がおさめられている。 「うわあ、素敵……」  思わずつぶやき、時計を手にとってみる。  小さな円形の文字盤は淡いシルバーで、まわりの粒ダイヤが豪華さをそえている。さらにバンドについた黒いシルクサテンが品よく愛らしい。 「つけていいですか」  遠野がうなずくのを見て、修子はブレスレットをはずし、かわりに腕に巻いてみた。 「ねえ、今日の服にぴったりでしょう」  修子が時計をはめた腕をそびやかすと、遠野は満足そうにうなずいた。 「今日、修の服を見たときから似合うと思った」 「このサテンのついたのが欲しかったんです、どうしてわかったのですか」 「前に一緒に時計屋の前を通ったとき、立止ってそれを眺めていた」  そんなことがあったような気もするが、それを忘れずに覚えていてくれたことが嬉しい。 「ありがとう、いつまでも大切にします」 「本当は、“三十三歳の誕生日に”と、彫り込もうかと思った」 「そんな意地悪はしないでください」  修子は改めて幸せを全身に感じて、遠野とグラスを重ねた。 「実は、もう一つプレゼントがある」 「もう、これだけいただいたら充分です」 「いや、本当はこちらのほうがメインなのだ……」  遠野はジャケットの内ポケットから、白い封筒のようなものを取り出した。 「これを、ずっと保管しておいてくれ」 「保管って?」 「大事なものだから、失《な》くさないで欲しい」  修子が封筒を手にして開くと、なかから通帳のようなものと印鑑がでてきた。よく見ると表に「片桐修子」と修子の名前が記され、判も「片桐」と彫られている。 「なんでしょうか」 「預金通帳さ……」  不思議に思いながら開くと数字が記され、よく見ると百万円になっている。  修子はそれを再び数えなおしてから、慌てて押し返した。 「これは、わたしのものではありません」 「いや、修のものだよ。僕がこれまで修のために積み立ててきた」 「………」 「これからも、僕が毎月、この通帳に二十万ずつ入れてあげる。修はこれを銀行へ持っていって記帳してもらえばいい」  修子には、遠野のいう意味がわからなかった。勝手に百万円、修子名義で積み立てて、さらにこれから毎月、二十万ずつ通帳に振り込んでくれるとはどういうことなのか。 「どうして、そんなことを……」 「とにかく、お金はあるにこしたことはない」 「でも、変です」 「変ではない。前から、修のためにお金を積み立ててやろうと思っていた」 「わたし、お金はあります。いまのお給料で充分やっていけます」 「これは、いまつかうために渡すわけではない。将来、ずっと先にね……」  いわれて、修子はこれからのことを考えた。やがて三十五歳から四十歳になり、さらに五十歳になる。そのときのためということは、修子の老後のため、ということなのか。  考えるうちに、修子の脳裏に要介の顔が浮かんでくる。  年齢をとったとき、あの人と暮しているか、それとも一人でいるのか。いずれにしても、遠野と一緒にいることはなさそうである。  そこまで考えて、修子はきっぱりと首を左右に振った。 「わたし、これをいただく理由はありません」 「どうして?」 「だって、わたしはわたしで、勝手な女ですから」 「べつに、そんなに深刻に考えることはない。これはただ僕の修への感謝の気持の一つにすぎない。まあ、強いていえば修が一人でいるための保険とでも思ってくれればいい」 「保険?」 「これでもあれば、少しは心強いだろう」 「それじゃ……」  修子はいいかけてやめた。遠野は毎月、自分に二十万円ずつ振り込むことによって、一人の女の将来を縛ろうというのだろうか。 「とにかく、これはいただけません」  修子は通帳を押し返しながら霧の中のロマンチックな夜から、急に現実に引き戻されたような気がして、夜霧に閉ざされた窓を見た。  そのまま二人のあいだに預金通帳と印鑑がおかれ、それをはさんで一組の男女が黙りこくっている。知らない人が見たら、お金をめぐって二人が争っていると思うかもしれない。あるいは、一方が他方にお金を返している図と見えなくもない。  やがて、遠野が意を決したようにいう。 「とにかく、とっておいてくれ、不満があるならあとできこう」  だが修子はゆっくりと首を左右に振った。  遠野からお金をもらうことが不満で逆らっているのではない。彼がこれまで自分のために百万円を積み立て、これからも月々二十万ずつ振り込んでくれるという申し出には充分感謝している。それだけ自分のことを心配していてくれていたのだと知っただけで嬉しい。  だからといって、このまま素直に受け取るわけにはいかない。  正直いって遠野から通帳を見せられたとき、修子は好意とはべつの、ある違和感を覚えた。うまく説明できないが、なにか違う、という感じを捨てきれない。  たしかに修子は遠野を愛しているが、彼から金銭的な援助を受けたいと思ったことはない。食事をご馳走になったり、プレゼントを貰うのはともかく、月々いくらという形で、お金を受け取りたくない。それも愛の証しといえばいえなくはないが、それでは、過去にいくらもあった男と女の平凡な関係に堕ちてしまう。そうした古いつながりを断ち切ったところで、修子は遠野との愛を育てていきたいと思ってきた。  それが現実に月々いくらという形で示されると、なにか自分がそれで束縛されたような気持になる。経済的にこれだけ世話になっているから、これだけ尽す、といった男女の関係にだけはなりたくない。その気持の底には、好きな人からお金はもらいたくないという、プライドがあることも否めない。遠野と際《つ》き合っているのは、ただ彼が好きだからで、お金とは無関係である。その気持を、この人はどうしてわかってくれないのだろうか。 「本当に、わたしのことなら心配いりません……」  修子が通帳をおし返すと、遠野はシャンペンの残りを飲んでからいった。 「別に、そんなに深刻に考えなくてもいい。これはただ僕が勝手に渡すのだから修は黙って納めてくれればいいんだ」  男には男の面子があり、いったん出したものを引き取るわけにはいかないのかもしれないが、修子にも修子の意地がある。 「わたし、お金を欲しいなどといったことはありません」 「そんなことは、わかっている」 「じゃあ、やめて下さい」 「余計なことは考えず、とにかくバッグにしまいなさい」 「いただけません」  修子がきっぱりというと、遠野は呆れたというようにつぶやいた。 「強情なやつだ」 「………」  ボーイがオードブルを並べはじめて、遠野はさすがにテーブルの上に通帳を置いたままでは、恰好が悪いと思ったようである。  仕方なさそうに通帳と印鑑をジャケットの内ポケットに納めると、溜息をついた。 「どうしようもない……」  修子は答えず窓を見た。  遠野はどう思っているのか知らないが、自分はもともと不器用で、融通のきかない女である。遠野もそのことは充分承知のうえで、際き合ってきたはずである。それをいまさら、ものわかりがよくなれ、といわれても難しい。  黙りこんでいる二人のあいだに、ソムリエが赤ワインのボトルを持ってくる。遠野が決めたのでよくわからないが、高価なものに違いない。ソムリエが注ぐと、遠野は試飲もせずにうなずいた。 「そのまま注いでくれ」  自分が出した通帳をつっ返されたことで、遠野は少し不機嫌になっているのかもしれない。  せっかくの夕食が、修子の拒否で気まずいものになりそうだが、修子としても自分の考えを曲げてまで、受け取るわけにはいかない。  二人とも無言のままスープを飲む。  外は相変らず霧が深いが、少し風がでてきたようである。庭の明りに照らされた一隅で、山裾から湖の方へ霧が流れていくのがわかる。  会話のない食事をしながら、修子は要介のことを思った。  もし彼と一緒に箱根に来ていたら、こんなことにならなかったかもしれない。もっとも、要介の経済力では湖が見えるデラックスな部屋に泊り、岡の上の素敵な洋館で食事をとるのは難しい。  要介と一緒なら、せいぜい普通のツインの部屋に泊って、家族連れで混み合うダイニングルームで決ったコースの食事をとるのが精一杯であろう。遠野と一緒のときのような贅沢《ぜいたく》はできないが、かわりに通帳など出されて、気まずくなることはない。それどころか楽しい食事のあと、彼ならきっぱりといいだすに違いない。 「修子さん、僕と結婚して下さい」  自惚《うぬぼ》れているわけではないが、要介はその言葉をもう何度もいいかけてやめている。これまでのデートでも、それに準ずる言葉は何度も口にしている。箱根に一緒に行くといえば、彼はますます勇気を出して申し込むに違いない。  お金の入った通帳こそ出さないが、要介には、堂々と結婚を申し込む爽やかさがある。 「結婚して欲しい」という一言ほど、女にとって心地いい台詞《せりふ》はない。相手の男への好き嫌いは別として、その言葉はいつも女を夢の境地に誘いこむ魔力がある。  考えようによっては、お金のかわりに若い男は、結婚という武器で女に迫ってくるともいえる。目先の百万や二百万のお金より、結婚という現実は何倍もの安定と憩《やす》らぎを与えてくれそうである。それは見方によっては一生の保証をかちとったといえなくもない。  遠野も男なら通帳など出さず、「結婚して欲しい」といってみたらどうだろう。たとえいまは不可能としても、それに近い言葉をいってくれたほうが、どれほど嬉しいかしれない。  霧を見ながらとりとめもなく考えていると、遠野が尋ねる。 「なにを、考えている?」  修子は慌てて窓から顔を戻して微笑む。 「別に、なにも……」 「俺に文句があるのならいってくれ。はっきりいったほうがすっきりするだろう」  瞬間、鉄板の上の肉に火がつき、夜の窓に炎が広がる。シェフが肉の上にブランディをかけて火をつけたのである。  激しく肉の焼ける音がし、やがて火がしずまるのを待って遠野がいった。 「いま、誰か他に、好きな人でもいるのか?」  修子は火の消えた窓を見ながらつぶやく。 「いないわ……」  遠野は、素早く修子の心の中を察したのかもしれない。  だがそこからさらに一歩すすんで、追及してくるわけではなさそうである。きわどいところで黙るのは遠野の賢さなのか、それともずるさなのか、そのまま沈黙を続けていると、二人の前にステーキが運ばれてきた。  まだ湯気がでて、肉がたぎっている。修子はワインを一口飲み、それから遠野が食べはじめるのを待って、ナイフとフォークを持った。  ともに過ごす一夜のなかにも、さまざまな感情の行き交うときがある。  食事のあと、二人は丘の上のレストランからホテルのバーに移ってさらに飲んだ。修子はブランディの水割りで遠野はスコッチだった。  土曜日の夜でバーには二人連れが多かったが、遠野と修子はそれらを見ながら、会話はやはりはずまなかった。はっきりいって修子は遠野に甘えるきっかけを失い、遠野も修子に冗談をいうタイミングを失したようである。  はたから見ると、ぎこちない二人連れに見えるかもしれないが、表立ってとくにいい争ったり、喧嘩をしているわけではない。ただお金の入っている通帳を遠野が渡そうとして、それを修子が拒否しただけである。不思議なことに、ブランディを飲み、軽く酔いがまわるうちに、修子はそれが些細なことに思えてきた。  この気持は、もしかすると遠野のほうも、同じだったのかもしれない。互いに近寄りたいと思いながら、歩みよるきっかけがないままずるずると時間を過ごしてしまった。こんなとき修子から「ご免なさい」と一言でもいえば、わだかまりは消えると思いながら、どういうわけか言葉が出ない。  そのまま一時間ほどバーにいて、そのあと部屋へ戻ったが、普段の親しさに戻るきっかけをつかめぬまま遠野は先にベッドに横になってテレビを眺め、修子はバスルームに入った。  湯につかるうちに気持が落着き、バスルームから出てきてみると遠野はすでに眠っていた。  どうやら仲直りをするタイミングを失したようである。修子は少し後悔したが、いまさら起こすわけにもいかない。  こんな二人のわだかまりが消えたのは、深夜に遠野が目覚めて修子を求めてきてからである。  それは突然、なんの前触れもなく台風のように襲いかかってきた。  もっとも遠野はときどき、そんな形で修子を求めてくるときがある。最近は修子もそれに慣れて、相手のなすに任せて受け入れる。  だがいつもに較べて、遠野の求め方はせわしなく激しかった。  せっかく箱根まできたのに、二人のあいだが離れてしまった。その心残りを吹き飛ばすかのように強引である。  初め修子は逆らったが、途中からはその荒々しさに逆らう気力を失い、途中からはその激しさに半ば呆れ、感嘆してもいた。  嵐が通りすぎたあと、修子の体はなお燃えながら波に揺られていた。そこまで体を揺さぶられると、もはや考えることも悩むことも面倒になる。  遠野もさすがに疲れたらしい。  そのまま、二人はぐっすりと寝込み、目覚めると八時だった。  修子はベランダの外の鳥の声で眠りから醒めたが、遠野も朝の気配を察したらしい。 「何時かな」 「もう、八時ですよ」  遠野が尋ねて修子が答える。その受け答えが自然にいつもの二人の会話に戻っていた。 「晴れているのかな」 「曇ってるようですけど、昨日よりは大分明るいわ」  修子がパジャマを着てベランダのカーテンを開けると、窓に区切られた湖面がやわらかい朝の光りを浴びて輝いている。 「今日は、何時までに帰るんですか?」 「別に、決めていない」  遠野はそこで、床のなかから手招きした。 「一寸……」  いわれるままに修子が近付くと、いきなり遠野の腕が伸びてきて抱きしめられた。 「駄目よ、見られるわ……」 「平気だ、誰も見やしない」  湖面には小舟が一隻浮いていたが、ベランダよりかなり低い位置にある。そのまま遠野は修子を上からおさえつけ、軽く接吻をして離した。 「昨日の罰だ……」  乱れた襟元を直していると、遠野がつぶやく。 「なにも悪いことはしてないわ」  乱暴な朝の挨拶だったが、これで二人の関係はいつもの親しさに戻ったようである。  修子はバスルームで髪を洗い、ドライヤーをかけながらハミングした。  鏡の前の洗面台の上には、昨夜、遠野からもらった黒いサテンのついた時計がおいてある。修子はそれを見ながら、改めて昨夜、遠野がさし出した預金通帳のことを思い出した。  あれはやはり受け取ることはできなかったが、遠野の自分への思いがこもっていたことはたしかである。  いまはまだ若く、仕事もできるから問題はないが、年齢《とし》をとったら、いずれお金は必要になる。そのときのために積み立てておこうというのは、年輩の遠野だから思いつくことのできるアイデアであり、優しさかもしれない。それを単に、お金で縛ろうとしているとか、お金で愛情をすり替えようとしていると決めつけるのは、少し酷かもしれない。  むろんこれを渡すから、今後、他の男性と際《つ》き合ったり、結婚してはいけない、などといってはいない。実際、遠野はそんなことをいうほど無粋な男ではない。  もし修子がどうしても結婚したいといえば、遠野は自由にしてくれるに違いない。多少は残念がり、口惜しがるかもしれないが、表立って邪魔だてするようなことはない。それだけの度量の広さと良識を備えている男性だから、いままで際き合ってきたともいえる。  考えてみると、遠野は修子に対して形で現せる絆《きずな》をもちたかったのかもしれない。月々二十万は、遠野にとってもかなりの負担に違いないが、その負担を背負うことで愛を実感する。女のほうも、とくにお金を欲しくなくても、男が月々これだけのものを渡してくれるということで、彼の愛を確認することができる。  はたして遠野がそこまで考えたか、よくわからないが、通帳を渡すことで自分と一体感をもちたいと思ったことだけはたしかかもしれない。  考えるうちに、修子は自分の独りよがりが、つまらぬ誤解を生みだしたような気がしてきた。  同じ断るにしても、もう少し優しく断ることはできなかったのか。あれではただ、一人で生きる女の身勝手さと我儘が顔を出しただけではないか。  今度こそ謝ろうかと、ベッドのほうを振り向くと、遠野が起きだしたところだった。浴衣を着てスリッパをはくと、ベランダに近いソファに坐って修子を呼ぶ。 「おい、晴れてきそうだから、スカイラインを廻ってみようか」 「いますぐですか」 「ゆっくり、食事をしてからさ」 「賛成」  修子は答えながら、素直になっている自分が不思議で可笑《おか》しかった。  箱根からの帰り、芦ノ湖を見下すスカイラインを廻ったので、東京へ着くと午後五時を少し過ぎていた。  朝方、晴れかけていた梅雨空は午後になって再び雲が広がり、蒸し暑さが戻っていた。 「少し、寄っていこうかな」  用賀のインターを降りたところで遠野がつぶやいたが、修子は黙っていた。 「これから、なにか用事があるのか?」 「ありませんけど、今日は帰ったほうがいいわ」  このまま遠野を部屋にいれると、またずるずると一緒に過ごして甘えたくなるかもしれない。  だが遠野は土曜から家を空けたままである。自分から「少し……」といっているところをみると、一、二時間休んでいくつもりなのかもしれない。あまり時間もないのに立ち寄っていこうとするところが、遠野の優しさであり、困ったところでもある。  用賀のインターから修子のマンションまでは十分もかからない。車がマンションの前に着いたところで、遠野がもう一度つぶやいた。 「寄らないほうが、いいかな」  今度は、修子は笑顔でうなずいた。 「箱根、とても楽しかったわ、ありがとう」  遠野はハンドルに片手をのせたまま別のことをいった。 「あれは、本当にいいのか?」 「あれって……」  修子は通帳のことだと気がついたが、知らぬふりを装った。 「よかったら、おいていく」 「昨夜、いったとおりよ」  遠野は車の前方を見たまま、溜息をついた。 「わかった、今夜はずっと部屋にいるのだろう」 「もちろん、どこにも出かけません」 「じゃあ、あとで電話をする」 「気をつけてね」  遠野はようやく納得したようにハンドルを握ると、修子に軽く目配せした。  そのまま車は動き出し、最初の信号を左へ曲って消えていく。  いつものことだが、車を見送りながら、修子はある憩《やす》らぎと淋しさを覚える。むろん憩らぎは、一人になった解放感であり、淋しさは、遠野が自分から去っていった孤独である。  もしかすると去っていった遠野も、同じような思いを味わっているのかもしれない。  修子は気をとり直してマンションの入口のドアを押してなかへ入り、郵便受けを見た。数枚のダイレクトメールや広告のチラシとともに、荷物が届いている旨のメモ用紙が入っている。  それを持って管理人室に行くと、五十半ばを過ぎた管理人が蘭の鉢植えを持ってきた。 「昨日の午後、届いたんですが……」  修子は礼をいい、鉢を抱えてエレベーターにのってから、花に添えられたカードを開いてみた。 「お誕生日、おめでとうございます。岡部要介」  花をみた瞬間、あるいはと思ったが、やはり要介からであった。  前に一度、住所をきかれて教えたことがあったが、それを覚えていたようである。  それにしても見事な蘭である。両腕をまわしてようやく抱えられる鉢に、十数個の胡蝶《こちよう》蘭が淡いピンクの花を咲かせている。  管理人が昨日の午後に届いたというところをみると、修子が箱根に出かけた直後に違いない。そのまままる一日、管理人の部屋で放置されていたことになる。 「ご免なさいね」  修子は花に謝りながら、要介にすまないことをしたような気がしてきた。  こんな花が待っているのなら、もっと早く帰るべきだった。  だが正直いって、誠実ではあるがいささか無粋な要介が、花を贈ってくれるとは思っていなかった。それに胡蝶蘭は優雅すぎて、猪突猛進タイプの彼にそぐわない。  花を抱えて鍵を開けると、部屋はカーテンで閉じられたまま熱気がこもっている。  独身の侘《わび》しさは、部屋に戻っても外出したときのまま変化のないことである。修子の会社には、その侘しさがいやで結婚したという女性もいる。  だが今日は美しい花と一緒だから気がまぎれる。  修子は蘭の鉢をいったん電話台のわきに置き、それからベランダの手前に置き換えてみた。  花の位置が高いので、奥のほうが落着きそうである。  修子はジーンズと白い綿シャツに着替えてからベランダを開き、部屋の空気を入れ換えた。  相変らず梅雨空だが、新しい空気を呑みこんだ部屋は蘭の花を得て生き返ったようである。  修子は手帖で要介の部屋の電話番号をたしかめてから、かけてみる。  だが呼出音だけで、返事がない。  日曜日だからどこかに出かけたのであろうか。  ベランダの手前におかれた花を見ながら、修子は改めて要介のことを思った。  この前から要介は、修子の誕生日には二人だけで食事をしたいといっていた。むろん遠野との約束があったので断ったが、それでも誕生日を忘れずに花を贈ってくれたのは嬉しい。しかもかなり高価そうな蘭の花である。  いささか見栄っぱりの要介のやりそうなことだが、相当の出費であったに違いない。 「こんな無理をしなくてもよかったのに」  花につぶやきながら見とれていると、電話が鳴った。  要介からかと思って受話器をとると、遠野だった。 「どうしている?」 「どうって、コーヒーを飲んでいました……」 「やっぱり、修のところに寄ればよかった」  遠野の声は少し元気がない。 「いま、お家でしょう」 「家だけど、帰ってみると誰もいなかった。みんな出かけたらしい」  自嘲気味にか、遠野は軽く苦笑したようである。 「これから、飯でも食いに行こうか?」  一度帰った久が原の自宅から、遠野はまた出てくるつもりらしい。 「夕食はまだだろう」 「………」  せっかく帰ったのに、家族がいなくては淋しいだろうが、それは遠野の事情で、修子とは関係のないことである。 「日曜日だけど、寿司屋くらいならやっているだろう」 「でも、まだお腹はすいてないわ」 「じゃあ、これからそっちに行こうかな」  修子は答えず花を見ていた。もしこの胡蝶蘭が若い男性から送られてきたと知ったら、遠野は嫉妬するのか、それとも無視するだろうか。 「いいだろう?」  もう一度きかれて、修子は首を横に振った。 「駄目よ」 「どうして……」 「今日は、一人で休みたいの」 「冷たいな……」  遠野が冗談めかしていったのに、修子は、「ご免なさい」といって受話器をおいた。  暮れるとともにまた雨が降ってきたようである。といっても細く忍びやかな雨音はしない。  修子は再びベランダを開けて掃除機をかけたあと、バスルームで湯を浴びた。ゆっくり温まってパジャマに着替えると、旅の疲れがでたのか少し眠くなった。そのまま小一時間ほど、ソファで仮眠したようである。  目覚めたとき、つけたままのテレビは八時台のドラマをやっていた。  修子はしばらくそれを見てから、空腹を覚えて流しに立った。  昨日から出かけていたので、冷蔵庫には卵と鶏肉が少し残っているだけである。  それで饂飩《うどん》をつくることにして湯を沸かし、ダシをとってから醤油と味醂《みりん》でツユをつくった。そのあと鶏肉を電子レンジで解凍していると、また電話のベルが鳴った。  ガスをとめて出てみると、絵里だった。 「あなた、昨日からどこへ行っていたの?」  いきなり問い詰められて、修子はなにか悪いことをしてきたような気になった。 「一寸、箱根のほうに……」 「彼氏と一緒でしょう、いいご身分ね」  絵里はそういってから、急に甲高《かんだか》い声になった。 「ビッグニュースよ、眞佐子が結婚するのよ」 「本当……」  修子は一瞬、冗談をいわれているような気がした。 「一カ月前にお見合いしたといったでしょう。その人と、ついに婚約したの」  たしかに一カ月ほど前に、眞佐子は歯科医と見合いをしたはずだが、また例によって、見合いだけで終るのだと思っていた。 「でも、ずいぶん急ね。絵里はどうして知ったの?」 「昨日、彼女のほうから報告してきたのよ。それですぐあなたに報《しら》せようと思ったら、いないじゃない」  大学の仲間のなかでは絵里が一番才女であったが、結婚に関する好奇心はみな同じである。 「じゃあ、やっぱり歯医者さんと」 「そうなの、この前、するといってたでしょう」 「でも一カ月で決めるなんて、余程気に入ったのね」 「それがよくわからないの。歯医者さんといっても相手は四十歳で、しかも子供がいるのよ」 「じゃあ、再婚じゃない」 「もちろん、前の奥さんは病気で亡くなったらしいけど、四歳の女の子が一人いるんだって」  もともと、眞佐子は仲間三人のなかでは最も晩手《おくて》で、男性には臆病すぎるほど慎重であった。実家も青森の旧家で、保守的な家庭に育ってきたはずである。そんなお嬢さんが四十歳の子供連れの男性と結婚するとは意外である。 「どうして、そんなことになったの?」 「それがよくわからないんだけど、お父さんの代から品川のほうで開業していて、相当の資産家らしいわよ」 「じゃあ、お金が目当てってわけ」 「そんなわけでもないんだろうけど、眞佐子は東京に住みたがっていたでしょう……」  たとえ東京に住めるといっても、それだけで子連れの中年男と結婚するとは思えない。 「それで、本人はなんていってるの?」 「やはり、再婚で子供がいることが気になってるみたいだけど、結構、楽しそうに喋るのよ」 「惚《のろ》けるの?」 「とにかく、相当、熱心に口説かれたみたいよ」 「そりゃ、眞佐子は独身だもん」 「“君を世界一の幸せな妻にする”っていわれたんですって」 「キザねえ」  婚約や結婚の度に、女の友達が豹変するのを、修子はもう何度となく見ている。かつては仕事だけに熱中していた女性が、恋人ができた途端に仕事のことなぞ見向きもしなくなった例もある。また男嫌いのはずの堅い女性が、彼氏の惚け話ばかりするようになった例もある。  いずれも一概に悪いとはいえないが、少しは毅然と筋を通してもらいたいと思うこともある。  いま、絵里の話をきいたところでは、眞佐子も豹変しそうな予感がする。 「青森の、お母さん達は許したのかしら」 「見合いのうえでの婚約だから、もちろん承知なのでしょう」  ゴールデンウイークに遊びにいったときに会った感じでは、眞佐子の両親は古風で律義な人のように見えた。 「眞佐子も焦ったのかなあ……」 「でも、われわれの年齢では、子連れの中年でも文句はいえないわ」  絵里にいわれて、修子は改めて自分の年齢を考える。  たしかに、三十三歳に対して四十歳では、さほど年齢が離れているわけではない。 「眞佐子も、そろそろこのあたりが年貢の納めどきと思ったんじゃない」  絵里の説明はいささかストレートだが説得力がある。  若いころは、ひたすら好きな人と一緒になることだけを夢みているが、現実の結婚はさまざまな妥協の結果のようである。それはいままで結婚してきた、いろいろな友達の例を見ればよくわかる。むろん愛があるにこしたことはないが、さほどなくても結婚生活は続けていけるものらしい。眞佐子もそういう女性と同じだと思いたくないが、多少の打算はあったのかもしれない。 「で、式はいつなの?」 「相手のほうは、いますぐでもいいっていうんですって。でもやはり秋ごろになるらしいわよ」  修子は、眞佐子の嫁ぐ姿を想像したが、まだはっきりイメージとしてわいてこない。 「じゃあ、眞佐子に電話をしてみようかな」 「彼女、きっと、喜ぶわよ」  絵里はそういってからいい直した。 「でも、放っといたほうがいいかもね。いま電話をすると、惚《のろ》けられた挙句に、早く結婚しなさいなんて、説教されるかもしれないわよ」  電子レンジが鳴ったので、修子はあとでまた電話することにして受話器をおいた。  そのままキッチンに駆けていくと、レンジのなかの鶏肉が解けている。  修子はそれを取り出して俎板《まないた》の上で刻み、改めて湯を沸かした。饂飩のツユはすでにできているので、あとは麺を熱湯にとおせばいいだけである。  一段落したところで修子は手を拭き、ベランダのほうを振り返った。  かすかに湯が沸きたつ音がする部屋のなかで、胡蝶蘭だけが場違いのように咲き誇っている。  その気品のある花の姿を見ながら、修子は自分一人だけ取り残されていくような淋しさを覚えた。  陽  光  長梅雨が明けて、修子の体調はようやく恢復《かいふく》したようである。  といっても梅雨のあいだ、病気であったり、体調をこわしたわけではない。ただどことなく気持がぴりっとしないまま、日を過ごしてしまったという感じである。  修子はときどきこの種の無気力さにとらわれるときがある。それは生理の変調によることもあるが、それとは無関係に精神的な不安定さにもとづくこともある。もっとも梅雨の季節は、みな大なり小なり、この種の無気力感にとらわれるのかもしれない。  だが、今年の場合は長梅雨の鬱陶しさにくわえて、眞佐子の婚約という事実が、修子の気持に多少影響を与えたようである。  絵里からそのことをきかされたのは、梅雨の半ばの箱根から帰ってきた夜だった。  初めそれをきいたとき、修子は即座に信じかねたが、そのあと本人と会い、直接きかされては信じないわけにいかない。  しかも話しながら眞佐子の顔には自然に笑いが洩れ、「あの人……」という言葉を連発する。婚約した喜びを一人でおさえきれぬようだが、それをきかされるうちに修子は次第に落着かなくなってきた。  たしかに親友の婚約はおめでたいことだが、こうあけすけに惚《のろ》けられると、きいているほうがしらけてしまう。たしかに天真爛漫で正直なところが眞佐子のよさでもあるが、独身の修子にはいささか応えた。  すべてがそのせいというわけでもないが、それ以来、少し気が滅入ったことはたしかである。  もっとも、だからといって婚約した眞佐子を羨《うらや》ましいと思ったわけではない。  眞佐子が結婚するからといって、自分まで慌ててすることはない。眞佐子は眞佐子で、自分は自分である。それはよく承知していながら、ついに彼女も嫁いでしまうという淋しさにとらわれたことはたしかである。  これで絵里と眞佐子と自分と、三人の親友のなかで、正式に結婚していないのは修子だけである。結婚が人生において絶対に必要なこととは思わないが、自分だけが一人前にならぬまま、取り残されていくような不安がある。  梅雨の半ばから末まで続いた気持の落ちこみは、この不安と無関係ではなさそうである。  揺れる修子の気持がいくらか納まったのは、梅雨も終りに近い七月の半ば過ぎに、絵里と眞佐子と、青山のレストランで食事をしてからである。  三人で会ってゆっくり食事をするのは、ゴールデンウイークに東北に行って以来だが、ここでも眞佐子の婚約のことが話題の中心になった。  例によって、眞佐子は幸せ一杯の風情をかくさなかったが、途中から、彼との約束があるといって帰ってしまった。  いままで眞佐子が最後まで残ることがあっても、先に帰ることなぞ一度もなかった。取り残された二人は呆気《あつけ》にとられたまま、改めて事態が変ったのを痛感した。 「これでどうやら、われわれ三人の友情もヒビ割れね」  絵里は自棄《やけ》気味に、ウイスキーの水割りを飲みはじめた。 「女って、好きな人ができると、どうしてあんなに簡単に友情を捨ててしまうのかなあ」  たしかに眞佐子は初心《うぶ》だったが、一旦好きな人ができると、ひたすら尽すタイプかもしれない。 「彼女は結婚したら、仕事をやめるのね」 「ご主人が歯医者さんで、四歳の子供がいるんだから仕方がないでしょう」 「わたしはもし結婚しても、仕事を捨てる気にはなれないわ」  修子がいうと、絵里がわが意を得たようにうなずく。 「もちろんよ。わたしが前の夫とあっさりと別れられたのも、仕事があってきちんと収入があったからよ」  絵里はすでに離婚経験者だが、その別れ方が爽やかであったところが自慢の一つでもある。 「でも年輩の男性は、結婚する以上は、家庭に入るように要求するでしょう」 「どんな理由があれ、家庭に入ってしまったらおしまいよ。専業主婦ほど、無知で独りよがりなのはないわ」 「結婚しても、素敵な人もいるけれど……」 「それは稀よ」  テレビのディレクターとして多くの主婦と接しているせいか、絵里の主婦批判は手厳しい。 「毎日、子供だけ相手にして家に閉じこもっていたら、そうなるのも仕方ないんじゃない」 「わたしは絶対にいやだわ。やっぱり家にいると気が楽だから精神的にも緊張しないし、体もぶくぶく肥るでしょう。眞佐子もいまにそんなふうになるわ」  ウイスキーが廻ってきたのか、絵里の言葉は辛辣である。 「いくらお金があってご主人が優しくても、それに甘えていたら、家事しかわからない女になってしまうわ」 「でも、眞佐子はいま、それがお望みなのでしょう」 「それはそれでかまわないけど、独身のわれわれの前で、あんなに惚《のろ》けなくてもいいと思わない」  それは修子も同感で、今日の眞佐子は、いままでの堅くて控えめだった彼女とは別人のようなはしゃぎようであった。 「わたしはべつに、眞佐子に妬《や》いているわけじゃないのよ」  少しいいすぎたと思ったのか、絵里はいい直す。 「わたし、眞佐子にだけは、もう少し素敵な結婚をして欲しかった」  そこから先は、互いの結婚観を披露しあうことになる。  絵里も修子も、結婚を絶対に必要なものと思っていない点では同じである。ただ絵里が結婚に失敗して、いささか懲《こ》りた結果であるのに対して、修子は結婚に対しては白紙である。いい相手がいればしてもいいし、いなければしなくてもいい。そのあたりは流動的に考えている。 「要するに、自分を殺してまで、結婚をする気はないというわけね」  絵里にきかれて、修子はうなずく。 「お互い、それぞれの生き方っていうかライフスタイルがあるでしょう。この年齢《とし》まできたら、それを壊したくないから、それを認めてくれる人が現れるまで待つより仕方がないわ」 「でも、それはかなり我儘な意見よ」 「そうなると、結局、一人でいるよりないわね」  いささか淋しいけど、そのあたりは覚悟をしているつもりである。 「いっそ、眞佐子のように、何も彼《か》も忘れて首ったけになれるといいんだけど……」  正直いって、修子は眞佐子を羨ましいと思う。それは今度婚約したからというより、相手のことにそれほど惚れこめる性格に対してである。 「あなたは、もともと醒めてたから、眞佐子みたいになるのは無理よ」  修子はそれと同じことを遠野にもいわれたことがあった。もっとも遠野は非難したわけでなく、性格として指摘しただけであったが。 「眞佐子のようになれると、楽だろうなあ」 「でも、好きな人ができると、女はどうしてあんなに視野が狭くなって、独りよがりになるのかなあ」  絵里の嘆きをきいて、修子は、ひたすら夫に従うだけだった母のことを思い出した。 「考えようによっては、彼氏しか見えないときが女の一番幸せなときなのかもしれないわ」 「じゃあ、われわれのように、何人もの男性が素敵に見えるときは不幸ってわけ?」 「何人も?」 「あなたは、そうじゃないの?」  いきなりきかれて修子が戸惑っていると、絵里が追討ちをかけてきた。 「ところで修子、誰かと結婚する気はないの?」 「………」 「Tさんとか、もちろん他でもいいけど……」  絵里は遠野のことを承知で、あえてTと頭文字で呼ぶ。 「彼とは、そんなつもりじゃないわ」 「あなたほどの女なら、他に寄ってくる男が沢山いるでしょう」  修子は遠野と要介の他に、社長を介して知った独身の医師や、大使館のパーティで知り合った輸入会社のオーナーなどの男友達を思い出したが、いずれも結婚の対象として考えたことはない。 「われわれの年齢になると、これと思う人はみな奥さんがいて難しいわね」 「自分の生き方を変えてまで、一緒になりたいと思う相手はいないでしょう」 「それに、わたし自身が臆病なのかなあ」 「結婚というのは、生れも育ちも違う人間が一生一緒にいることだから、そりゃ大変よ」 「とにかく、眞佐子のように素直になれるといいなあ」  最後は結局、眞佐子のことに話が戻るが、久しぶりに絵里と思いのたけを喋ったので、気持はいくらかすっきりしたようである。  梅雨明けとともに、猛暑が一気に寄せてきたが、それとともに修子の会社は忙しくなってくる。  お中元の贈答用にクリスタル製品の需要が増えたとともに、家庭でワインやブランディを飲む人が増えて、グラスの売りあげも伸びてきたからである。営業担当者は各デパートや小売店からの注文に追われて、休日も休めないと悲鳴をあげている。  一般の需要が伸びるとともに、修子のところへくるテレックスやファックスの量も増え、来客も多くなる。  おかげで、いつもは五時半に終る勤務が、六時から、ときには七時、八時になることもある。  修子が遠野と食事をする約束をしたのは、そんな忙しいなかの一日であった。  遅れると悪いので少し時間をずらして七時に、銀座の七味亭というレストランで逢うはずだったが、夕方五時に、遠野のほうからキャンセルの電話がかかってきた。 「せっかくだけど、大阪から重要な客がきて、際《つ》き合わなければならなくなったんだ」  遠野の予定の変更には馴れているので、修子はあっさりとうなずいた。 「いいわよ、また別の機会で」 「食事のあと、少し飲むことになるかもしれないが、十二時迄には戻る」  仕事がら、遠野はいろいろな人と食事をするようだが、接待のあとは決って酔って、修子の部屋にきても眠るだけである。正直いって修子はそんな遠野がもの足りないが、疲れ果てて眠る顔を見ると少し可哀想になる。 「修の横で休むとき、一番安心する」という遠野の言葉は、満更、誇張ではないようである。  夕食の約束がなくなったので、修子が暢《の》んびり残った仕事を片付けていると、広報課長の庄野千佳子が現れた。 「今晩、あいている?」  千佳子はこれから食事をしたあと、「ベナ」という銀座のクラブに行ってママに会う予定だという。 「あの話、ようやくうまくいきそうで、これから店を見せてもらうの」  あの話というのは、クラブにボトルのかわりにデカンタをおく件である。  最近は日本でもクリスタルのグラスが出廻ってきたが、一般の人々にはいま一つ馴染みがない。とくにグラスは中年男性のあいだに浸透させなければ販路が開けない。  この方法を千佳子にきかれて、修子は銀座のクラブにグラスを一時的に貸して、クリスタルの美しさを知ってもらったらどうだろうと提案した。  千佳子は直ちにその案に関心を示したが、グラスはつかう度に洗い、割れる心配があるというので陽の目は見なかった。だがかわりにデカンタなら滅多に洗わないし、テーブルの上においておくだけで美しいので、いいだろうということになった。  しかし貸すとなると高価なものなので、落着いた雰囲気の、しかも客筋のいいクラブでなければ難しい。そのことで遠野にきくと、「ベナ」がいいということで、千佳子に紹介したのである。 「そもそもあなたが考えたことだから、一緒に行って」  そういわれると、修子としても断るわけにいかない。  六時に連れ立って会社を出て、赤坂の溜池に近いレストランで食事をし、「ベナ」へ行くと八時半だった。  丁度、ママが出てきたところだったが、店にはまだ一組の客しかなく閑散としている。この種の高級クラブは九時過ぎから混み出すようである。ママは早速、デカンタをおく棚を見せてくれて、最初は特別の客にかぎって、つかってみたいという。 「もちろん、遠野さんにも、つかっていただくわ」  ママは三十七、八らしいが細身の美人で、着物を着ているせいか修子よりはずいぶん年上のように見える。 「このごろ、遠野さん、ちっともいらっしゃらないのよ」  修子は前に一度会っただけだが、ママは覚えていたらしく、そんなことまで話す。 「うちのほうとしては、こういう事情でお願いしたいのですが……」  仕事熱心な千佳子は店のマネージャーに貸し出しの約束事項を説明して了解をとる。 「少し、飲んでいらっしゃいませんか」  仕事の話が終ってからママがすすめてくれるが、女二人では落着かないし、客が入りだしたので遠慮する。  ママはエレベーターの前まで送ってきて、「お二人とも素敵ね。あなた達のような方がうちにもいると助かるのですけど」と愛想をいってくれる。  お世辞にしても、銀座のママに美しいといわれて悪い気はしない。  二人は急に元気がでて、新橋に近い小さなカウンターだけのバーに寄ることにした。 「ベナ」の高級さとは月とスッポンだが、千佳子の行きつけの店で安心である。そこで一時間ほど飲んで瀬田のマンションに着くと十一時半だった。  遠野は十二時迄に戻るといっていたが、当てにはできない。  修子は少し酔っていたのですぐパジャマに着替え、冷たい水を飲んでソファに休んだ。  そのまま呆《ぼ》んやりしていると、クラブの華やかな嬌声が甦ってくる。  あの人は、まだあんなところで飲んでいるのだろうか。  それにしても男はどうしてそんなところで大金を費《つか》うのか、修子には理解できないが、遠野にいわせると、すべて仕事を円滑に運ぶためだということになる。  それも接待なのか、とりとめもなく考えながら、酔いを醒ましていると、電話のベルが鳴った。 「もし、もし……」  受話器をとったが返事がなく、そのまま二度くり返したところで一方的に切れる。  このごろときたま無言の電話がかかってくる。初めはただの悪戯《いたずら》電話かと思っていたが、いまのは受話器の向こうで、息を潜めているような感じであった。  誰かがこちらのことを窺《うかが》っているのか。不気味になってサイドボードの上にある置時計を見ると十二時である。  遠野が帰ってきたのは、それから小一時間経った午前一時近くだった。  入口のチャイムを鳴らし、ドアをどんどんと叩く。その乱暴な調子で酔っているのがわかった。  修子は休もうかと思いながら、ソファに横になって深夜テレビを見ていた。  急いでドアを開けると、思ったとおり遠野は酔って前のめりに入りこんでくる。 「危ないわ……」  驚いたことに、酔っているのに両腕に鉢を抱えている。 「ほら、お土産だ」  鉢は胡蝶《こちよう》蘭で、白とピンクの花が遠野の顔をおおうほどに咲き誇っている。  修子はそれを受けとり、足元の覚束ない遠野の手をとって迎え入れる。 「大丈夫ですか」 「大丈夫にきまっている。その花、凄いだろう」  よろけながら、遠野は自分の持ってきた花を自慢する。 「どうしたんですか、こんな立派なお花を」 「買ってきたんだよ、この前のやつよりいいだろう」  どうやら、遠野は誕生日に要介から贈られてきた花のことを覚えていて、それより素敵な花を買ってきたらしい。  もっとも、遠野は要介からの花を見ても無関心だった。初めに一言、「どうしたのだ」ときいたが、「お友達からいただいたのよ」と答えたらそのまま黙っていた。  だが実際は花のことを気にしていたようである。岡部要介という若い男から贈られたことは知らないにしても、男性からきたことは気付いていたのかもしれない。  要介から贈られた胡蝶蘭が枯れたころを見計らって、新しいのを買ってきたところが可笑《おか》しい。しかも前のよりいいだろうと威張るところが、子供のようである。  修子はこんな遠野が気に入っている。すでに五十に近いのに少年のように突っ張ってみせる。その年齢と似合わぬ稚さが初々しい。 「凄く、重かったんだぞ」  たとえ車とはいえ、鉢を抱えたまま帰ってくるのは大変だったに違いない。修子は感謝をこめて|恭《うやうや》しく頭を下げる。 「わたしのために、わざわざ買ってきて下さるなんて嬉しいわ」 「誰にあげるのかって、クラブの女性に冷やかされたよ」 「じゃあ、銀座で買ったんですか」 「帰ろうと思ったら、花屋があったから……」  たしかに銀座には何軒か花屋があって、深夜まで開いている。修子も一度見たことがあるが、店の開店祝いやホステスの誕生祝いに贈るようである。 「銀座のお花なら、高かったでしょう」 「今夜は、思いっきり金をつかってやった」  修子はソファに坐った遠野から、上着を受けとる。 「大阪の三光電器の話が今日、正式に決った。契約もとり交したからもう大丈夫だ」  以前から、遠野の会社では三光電器の創立五十周年を記念したイベントの仕事をとろうと努めていたが、それが決ったのでご機嫌らしい。豪華な花を買ってきたのもそのせいかもしれない。 「凄いわねえ」  修子とは直接関係ないが、遠野の会社が大きい仕事をとれたことはやはり嬉しい。 「修の、おかげだ」 「わたしは、なにもしてないわ」 「いや、俺が諦めそうになったとき、絶対、諦めては駄目だといってくれた」  たしかにそんなことをいった覚えがあるが、広告業界の競争の激しさも知らずに勝手なことをいっただけである。 「ビールはないか?」 「もう、ずいぶん飲んでるでしょう」 「とにかく、乾盃だけでもしたいんだ」  修子が冷蔵庫からビールを取り出してグラスに注ぐと、遠野が姿勢を正した。 「修子と、新しい仕事のために乾盃」 「あなたと、新しい仕事のためでしょう」 「いや、まず修子だ」  こんな機嫌のいい遠野を見るのは久しぶりである。やはり念願の仕事をとれたことが気持を明るくさせているようである。  ソファに並んで坐りながら乾盃を終えると、遠野が膝をぽんと叩いた。 「これで、うちの会社も少しは大きい顔ができる」  多くの業者が犇《ひし》めきあうなかで、そんな簡単に伸びられるとも思えないが、今度の仕事をとれるか否かが会社の浮沈をかけた問題であったようである。 「この一カ月、本当にご苦労さま」 「俺の苦労は、修子にしかわからない……」  この仕事にとりかかってから、遠野は少し痩せて顔に疲れが滲《にじ》んでいた。とくに誕生日のお祝いで箱根に行ったころが、一番難しいときであったようである。 「こんな苦労を、うちの奴はわからない」  遠野が突然、妻のことをいいだしたので修子は黙った。 「あいつは、俺の仕事にはまったく関心がない」 「それは、あなたが話さないからでしょう」 「いや、違う」  グラスを持ったまま、遠野の上体が揺れている。 「もう、ずっと前から、駄目だ」  まだ初夏のころ、遠野が部屋にくるといって、こられなかったときがあった。結局、最後にはきたが、そのとき遠野の家庭では息子のことをめぐってトラブルがあったようである。 「最近は、お互いにあまり話すこともない」  遠野がこんなに率直に、家庭や妻のことを話すのは珍しい。 「向こうは向こうで勝手にやっている」 「でも、それはあなたが勝手なことをするからでしょう」 「それはそうだが、俺だけ悪いわけでもない」  黙っていると遠野はさらに喋りそうなので修子は立上ったが、遠野はなおも続ける。 「俺達は夫婦といっても、別居しているようなものだ」  以前、遠野は、自分達は恋愛結婚だといったことがあるが、かつては愛し合って子供までつくった夫婦が、いまは他人のように口をきかないということが修子には理解できない。さらに不思議なのは、そんな二人が同じ家に住んでいるという事実である。 「わからないわ……」 「俺もわからない」  もし遠野のいうことが本当だとすれば、結婚ほど当てにならないものはない。どんなに愛し合って身近にいても、崩れるときは崩れてしまうものなのか。それを現実に見たり聞かされると、結婚に対してますます臆病になってしまう。 「くだらないことを、いってしまった」  遠野はビールを飲み干すと、思い出したように花を見た。 「友がみな、我れより偉く見ゆる日よ、花を買いきて妻と親しむ」  誰の歌なのか、きいたことがあるような気がしていると、遠野が説明する。 「啄木の歌だけど、いい歌だろう」 「でも、胡蝶蘭では少し豪華すぎるんじゃありませんか」 「たしかに、この歌の花はカトレアか、せいぜい薔薇《ばら》か菊くらいが似合うかもしれない」 「それに、あなたはいま、お友達から偉く見られているのでしょう」 「そんなことはない……」  遠野は挫折したわけでなく、逆にこれから大きな仕事をしようとしている。そんな男にこの歌は適《ふさわ》しくないが、男はときにこんな歌を口ずさみたくなるのかもしれない。 「それに……」  修子は、わたしはあなたの妻ではないといいかけてやめた。それはたしかな事実だが、そこまでいっては、遠野を責めているようにとられかねない。 「今度の仕事が一段落したら、二人でゆっくり外国旅行にでも行こうか」 「二人だけで行けるのですか?」 「今度は、ヨーロッパに行ってみたいな」  遠野とは二年前にハワイへ行っているが、ヨーロッパなら、久しぶりに修子が勤めている会社のロンドンの本社にも行けそうである。 「十月の半ばころはどうだ」 「早くからわかっていれば大丈夫よ」 「じゃあ、早速考えよう。新婚旅行は早いにこしたことはない」 「新婚旅行?」  遠野はすぐ照れたようにつけ足した。 「そうなると、いいと思ってね」 「冗談はやめて下さい」 「怒ることはないだろう」 「………」 「さあ、寝よう」  遠野は面倒と思ったのかワイシャツを脱ぎはじめたが、修子はいまの一言に拘泥《こだわ》っていた。  ただの冗談なのか、あるいは遠野一流の優しさなのか、いずれにしても女を迷わせる言葉を簡単に口に出して欲しくない。 「そろそろ二時になるぞ、明日起きられないと大変だ」  遠野は大きな欠伸《あくび》をすると、先に寝室に消えていく。 「修も、早く休め」  寝室から呼んでいるが、修子はまだあと片付けがある。  まず蘭の花をベランダの手前に移し、テーブルの上にあるグラスを流しに運び、ソファの上を整える。そのあとドアの鍵をたしかめてから明りを消し、寝室へ行くと遠野は枕元のスタンドを点《つ》けたままベッドに入っている。 「気持がいい、横になるのが一番だ」  そのまま片手を伸ばして、修子のパジャマを脱がせようとする。 「だめよ……」  修子は伸びてきた手を軽く払うとベッドから離れて髪からピンを抜く。 「暗くするわ」 「そのままでいい」  かまわず明りを消し、ピンを鏡台において再びベッドへ近づく。 「早く、入ってくれ」  遠野は今度は哀願するように、自分からブランケットを持ち上げる。  それを闇のなかでたしかめながら、ベッドに下半身を忍ばせた途端、電話のベルが鳴った。  修子はしばらく鳴り続ける電話を見てからそろそろと受話器をとる。 「もし、もし……」  一度きいても返事がない。そのまま三度くり返したとき、かちゃりと音がして電話が切れた。  仕方なく修子が受話器を戻すと、遠野がきいた。 「どうしたんだ」 「なにも、いわないけど、今晩、これで二度めよ」 「誰かの、悪戯《いたずら》だろう」 「誰かって?」 「このごろは、暇な人間が多いから……」  いままでは修子もそう思っていたが、こう頻繁にくるとただの悪戯とは思えない。 「気持が悪いわ……」  一瞬、修子は遠野の妻のことを思ったが、そこまで疑うのは行き過ぎかもしれない。 「今度きたら、黙っていればいい」  うなずいて修子がベッドに入りかけるとまたベルが鳴った。  修子は闇のなかで五回鳴るのを数えてから受話器をとった。 「もし、もし……」  探るようにつぶやくと、今度は男の声が返ってきた。 「修子さんですね、僕、要介です」  修子は慌てて受話器を耳におし当てて、横で寝ている遠野を振り返った。 「なんだか今夜は眠れなくて、……もしかして貴女が起きているかと思ってかけてみたのです」  遠野には聞こえていないのか、仰向けに目を閉じたまま動かない。修子はさらに強く受話器を耳におしあてた。 「深夜に悪いと思ったけど、急に声を聞きたくなったのです」 「あのう……」  修子はベッドの端に体を移動しながらきく。 「いま、初めてお電話をくれたのですか?」 「もちろん、いま初めてです。なにかありましたか?」  どうやら、声のない電話と要介とは無関係のようである。 「こんな時間に、貴女の声を聞けるとは思いませんでした。なにをしていたんですか」 「別に……」 「じゃあ、もうベッドに入っていたんですか?」 「………」 「変な話だけど、どんな姿で休んでいるのか想像していたんです。パジャマかネグリジェか、色は白かピンクか……」  大胆なことをいうところをみると、要介も少し酔っているのかもしれない。 「いま、一人ですか」  修子が黙っていると、さらにきいてくる。 「側に、誰かいるのですか……」 「………」 「いるんですね」 「いいえ……」 「じゃあ、ぼくを愛しているといって下さい。愛していると……」 「………」 「いえないんですか」  さらに声が大きくなったところで、修子は黙って受話器をおいた。  要介とは、修子の誕生日のあとにもう一度会っている。例によって赤坂にあるテレビ局の近くのレストランで食事をしたあと、六本木のバーへ飲みに行ったのである。  丁度、眞佐子の婚約の話をきいたあとだったので、修子の気持はいささか揺れていた。いつもなら多少飲んでも醒めているのが、その日にかぎって酔って、結婚とか男性についていろいろ喋ってしまった。  といっても、直接、要介について話したわけでなく、遠野や別れた絵里の夫のことなどを念頭において、男性のいい加減さや浮気っぽさをなじっただけである。それに要介がうなずき、賛成してくれるので、つい調子にのって、最後には要介とカラオケバーへ行き肩を組んでデュエットまでしてしまった。  修子としては酔いにまかせて歌っただけだが、要介はかなり親近感を抱いたようである。  それ以来、会社だけでなく自宅にも電話をよこすようになった。  修子は一人住まいだから電話をくれてもかまわないが、今夜のように深夜いきなりかけてこられるのは困る。しかも酔っているとはいえ、「愛している」と叫べというのは無茶すぎる。  もともと要介には向こうみずなところがあるが、根は真面目な好青年である。実際そうだからこそ電話番号を教え、デートもしてきたのである。  だが男はいろいろな顔を持っているらしく、素面《しらふ》のときは一途で誠実と思ったものが、酒の力をかりると我儘で強引な男にさま変りする。  声のない電話に続く深夜の押しつけがましい要介の電話で、修子はいささか気が滅入った。  すでに午前二時で、早く休まなければと思いながら、かえって目が覚めてくる。そのまま闇のなかで息を潜ませていると遠野がきいた。 「誰から?」  やはり、遠野はいまの電話を気にしていたようである。 「一寸、お友達です……」 「もう、いいのか?」 「どうせ、酔っているんです」  受話器を強く耳におし当てたから、要介の声がきこえたとは思えないが、受け答えの様子から、男からだと察したのかもしれない。  だが遠野はそれ以上は尋ねず、軽く寝返りをうって背を向けた。  これまで、遠野は嫉妬ということをあらわにしたことはなかった。修子が自分が勤めている会社の社長や男性社員の話をしても、黙ってきいているだけで、それにとくべつのコメントはくわえない。大学時代の男友達をまじえて軽井沢に行くといったときも、簡単に許してくれた。男性が一緒だからといって、修子の行動を制約するようなことはない。  もちろんその裏には、浮気なぞしないという信頼と、自分を好きなはずだという自信があったからに違いない。  修子はそんな遠野に憧れながら、ときに憎らしいと思うこともあった。たまにはこちらのもてるところも見せて、少し慌てさせてやりたい。  だが、この一、二年で、遠野の態度は少し変ったようである。  相変らず、修子の周辺の男に関心は示さないが、たまになに気なく尋ねることがある。会社の仲間と食事をして遅く帰ったときなぞ、「女の友達か……」ときいたり、外人に誘われた話などをすると聞き耳をたてる。表面は無関心を装っているようで、心の底では結構気にしているのかもしれない。  その一つの例が今日の蘭の花である。銀座に花屋があったから買ってきたといいながら、その裏には、要介から贈られてきた花のことが頭にあったに違いない。  嫉妬なぞしないように見せて、その実、細かく観察しているようである。ただ要介のようにストレートに出さず、やわらかくオブラートで包んでいるだけかもしれない。  このあたりは年齢《とし》の功というべきか、あるいは中年の男の巧みさなのかもしれない。  寝室の闇のなかでとりとめもなく考えていると、遠野がまた尋ねる。 「なにを、考えている?」  静かになったと思ったが、遠野はまだ眠っていなかったようである。 「なにも……」  遠野は軽く溜息をついたようだが、やがてゆっくりと向きをかえると両手を伸ばしてきた。  それを避けるように身を退《ひ》くと、遠野はさらに近づきうしろから抱きしめられた。 「好きだぞ……」  修子はその言葉を右の耳の真上できいた。耳朶《じだ》をすっぽりとおおわれて、まるで耳から熱湯が注ぎ込まれたようである。くすぐったさに修子が身をよじると、遠野はさらに強く抱きしめ、肩口からのしかかってくる。  七十キロと四十五キロでは、到底、抗すべくもない。修子は遠野の胸の広さを全身で感じながら、辛うじて呼吸をする。  その位置でしばらく抱きしめられ、とらえられた獲物が正気を失ってぐったりするのを待ちかまえたように、今度は胸元を開いてくる。  酔っているのに、遠野が求めてくるのは珍しい。やはり今夜は気分が亢《たか》ぶっているのか、それとも先程の電話が刺戟になったのか。  初めは勝手と思ったのに、抱かれているうちに修子も燃えてきて、いっそ身も心もずたずたに切り苛《さいな》まれたいとも思う。  このあたりは遠野の計算どおりかもしれない。  だが遠野が勢いがよかったのはそこまでで、そのあと結ばれはしたが、すぐ酔いと疲れに抗しかねるように力を失い、やがて腕だけで軽く抱いているだけになり、果てはその腕も解いて眠ってしまう。  男の気の向くままに煽られたあと解放されて、修子は軽い不満を覚えたが、遠野の鼾《いびき》をきくと、それをなじる気力もなくなる。 「なんて身勝手な……」と思うが、しかしそんな遠野に、修子のほうも馴染んでいる。  鼾とともに燃え残っていた修子の体も鎮まり、遠野の横に休んでいるということだけで気持が和んでくる。  もうずいぶん長いあいだ、修子は遠野の鼾をきいているようである。それはときに大きくて荒々しく、工場の中にいるような錯覚にとらわれることもあるし、低くて忍びやかで、少女の寝息のようにきこえるときもある。  だがいずれにしても、修子にとって遠野の鼾は苦痛ではない。心地よい子守歌というほどではないが、心を和ませるBGM的な要素はある。  いったい、この鼾をききはじめて何年になるのか。  次第に見えてきた闇のなかで、修子は五年という歳月を思い出す。 「早い」というのが実感だが、この間、自分の生き方についてあまり疑うことはなかった。 「もしかすると……」  修子は心のなかでつぶやく。 「いま、この人の鼾が不思議でないように、一人で生きてきたことも不思議に思わなかったのかもしれない」  つい少し前まで、修子はその考えに満足し、納得していた。  見知らぬ人が遠野の鼾をきいたら、驚き呆れ、顔を顰《しか》めると同じように、三十三歳にもなって独身でいる女は、顰蹙《ひんしゆく》をかう存在なのかもしれない。  だが、遠野の鼾が苦痛でないように、三十を越えて一人でいることも、修子にとってはさほど苦痛ではない。これまで一人できたことに違和感を覚えなかったのは、好きな男性の鼾に嫌悪を覚えなかったのと同じ程度のことなのかもしれない。  多くの人々は独身でいることを女の生き方とか人生観と結びつけて考えるようだが、修子はそれでなにも問題がなかったから、続けてきたにすぎない。  修子はそのことを眞佐子にいって、笑われたことがある。 「そんな勝手なことをいっても、世間では通用しないわよ」  それをいわれたとき、眞佐子が急に大人びて見えた。恋の経験も少なく、堅いのだけが取り柄のように思っていた眞佐子が、意外にしっかりと社会というものをとらえている。その眞佐子に較べても、修子の世間への目は甘すぎるのかもしれない。 「彼氏の鼾が好きだから独身でいる、などといっても、誰も本気にしないわよ」  修子が感じている独身の気楽さは、日中、大勢の人の前でいうとたちまち色|褪《あ》せ、オールドミスの勝手ないいぶんとしかきこえないようである。  だがいま深夜のベッドで現実に遠野の鼾をきいていると、嘘ではなく、たしかに気持が和み、安心できる。とやかくいっても居心地がいいから独身でいるので、これは別に遠野のためでも結婚を避けているためでもない。  夜、一人でいるときには修子は素直にそう思う。  だがこの考えが通用するのは夜のあいだだけで、昼間、明るい光りの下に出るとたちまちリアリティを失い、独りよがりの考えと受けとられてしまう。  口惜しいけれど昼間の社会では、女が三十を越えて独身でいることは異常ということになるようである。それは四十を越えて独身でいる男とか、妻子や夫があって浮気している男女とか、会社を休んでいるサラリーマンなどと同じように、社会の枠組みから外れた困り者として烙印をおされるのと同じである。  たとえ本人がそれでかまわないといったところで、世間は認めてはくれない。  眞佐子が慌てて婚約したのも、社内の若い女性が血眼になって彼氏を探しているのも、そうした社会の枠組みから外れたくないためかもしれない。  そこまで考えて、修子は田舎にいる母の言葉を思い出す。 「早くお前もお嫁にいって、母さんを安心させておくれ」  修子はその言葉にきき飽きて、今年の正月は一日早めて引揚げてきたし、今度のお盆も帰らないでおこうかと思っている。  母には会いたいが、結婚しろといわれるのが嫌で帰らない。  この母に、「彼氏の鼾と同じように、一人で生きていくことに馴染んだわ」などといったら、仰天するに違いない。  とやかくいっても、母は昼の考えで生きている人で、修子の夜の思いまではわからない。いや、母だけでなく、修子のまわりにいる社員の大半も、そして要介も同じかもしれない。 「誰もわかってはくれない……」  心の中でつぶやくうちに、修子は次第に孤独の殻に入っていく。  いま、遠野の横にいて鼾をきいているあいだはいいが、朝がきて鼾がやみ、遠野が去っていくと、修子の理屈は通用しなくなる。  このごろ目覚めるのが怖いと思うことがあるが、それはまた昼の世界に入っていくことへの怯《おび》えのかもしれない。  修子はブランケットを顔の位置まで引上げて目を閉じた。  明日の勤めがあるのだから休まなければと思いながら、妙に目が冴えて眠れない。  だが遠野は相変らず、軽い鼾をたてて眠っている。大体、酔いが深くなるにつれて鼾も高くなるのが通例である。鼾に引かれるように修子は横向きになり、上体をまるめて遠野の胸元へ近づいていく。遠野の体には、煙草と汗が滲《にじ》んだような男の匂いがあるが、それを探るように顔を近づけていく。  不思議なことに、鼾は離れてきくより身近できいたほうが苦にならない。肌と肌を接してきくと、それが彼の呼吸であり、生きている証しであることに気がつく。  そのまま鼾のなかで目を閉じていると、また電話のベルが鳴った。  修子は遠野の胸元からゆっくりと顔を離し、ベルの音を数えた。  三回、四回と、ベッドのわきのテーブルの上で鳴り続ける。  あの無言電話なのか、それとも要介なのか。遠野のほうを窺うが、起きる気配はない。  八度目が鳴ったところで、修子はベッドから上体を起こして受話器をとった。  おそるおそる耳に当てたが、無言である。  そのまま、相手の反応を待ったが声はなく、二、三十秒経ったところで、受話器を置く音がして、電話が切れた。  静まり返った部屋に、切れたあとの単調な音だけが響き、それをたしかめてから受話器を戻し、あたりを見廻した。闇に馴れた目には、窓の位置から箪笥の高さと鏡台の幅までわかるが、変った様子はどこにもない。遠野の鼾もいままでどおり続いている。  そのことに安堵《あんど》してから、修子は小さく叫んだ。 「あっ……」  無言の電話の主は、遠野の鼾をきかなかったろうか。受話器とはかなり離れていたので大丈夫とは思うが、きこえなかったという保証はない。 「もしかして……」  修子はそこまで考えて、もう一度、電話を振り返る。もし遠野の妻がかけたとしたら、いまの鼾で、夫が側に寝ていることに気がつかなかったろうか。 「まさか……」  修子は思わず身を竦《すく》めた。電話の主が遠野の妻だという証拠はないし、それ以上に、遠野の妻がここの電話番号を知っているわけはない。むろん修子は遠野の妻に会ったことも話したこともない。  なにも知らぬ人が、深夜に何度もかけてくるわけはない。  だが否定すると、すぐあとからべつの疑問もわいてくる。  もし遠野の妻が本気で、修子の部屋を探そうとしたら簡単にわかってしまう。興信所にでも頼めば、住所はおろか電話番号までわかるはずである。  突然、遠野の妻を身近に感じて修子は息苦しくなった。  いままでは、遠野の妻は自分とは無縁の、生涯会うことも話すこともない人だと思っていた。たとえ遠野と深い関係になっても、それは自分と二人だけのときで、それ以外の彼とは無関係である。むろん彼を妻から奪おうなどと考えたこともない。二人でいるとき以外の遠野と距離をおくことで、修子は彼の妻とも無縁でいられると思いこんでいた。  だが考えてみると、それも修子の夜の思いと同じように、独りよがりだったのかもしれない。  修子がなんと弁解しようと、昼になれば遠野は妻子ある人であり、遠野の妻はまさしく彼の妻である。そして修子が争う気はなくても、遠野の妻が憎めば彼女の敵にされてしまう。 「いやだ……」  闇の中で修子の目はさらに冴えてくるが、遠野は相変らず軽い鼾をたてながら心地よげに眠っている。  眠れないとき、修子はリキュールを一杯飲む。小さな食後酒のグラスの底に注ぐだけだから、ほんの一口である。それでも飲むとすぐ体が熱くなり、そのまま気怠《けだる》くなって眠りに落ちる。  その夜も最後はリキュールの力を借りて眠ったが、午前三時を過ぎていたので、翌朝目覚めたのは七時を過ぎていた。  まわりを見ると遠野の姿はなく、リビングルームへのドアが開いたままになっている。  慌てて起きて、髪を掻き上げながら部屋を覗くと、遠野はパジャマのままソファに坐って新聞を読んでいた。 「ご免なさい、寝坊して、なにも知らなかったわ」 「ようやく、お目覚めだな」  遠野は新聞から目を離さずにつぶやく。 「だって昨夜は遅かったんですもん、一緒に起こしてくれるとよかったのに」 「もう少し待って、起きなかったら起こそうと思っていた」  かなり酔って帰ってきても、遠野は朝はきちんと起きる。自分では年齢《とし》のせいだというが、酔いが残っていないところをみると、もともと芯が強いのかもしれない。 「大変、あと三十分しかないわ」  修子がこんなに寝坊したのは珍しい。 「いますぐ準備をしますから、なにかお茶でも飲みますか?」 「いや、自分でやるからいい」  遠野は自分で冷蔵庫から麦茶をとり出してグラスに注ぐ。修子はそれを見届けてから寝室へ戻り、鏡台に向かう。  修子の朝の準備はさほど時間がかからない。顔はファンデーションを塗り、頭はセミレングスの髪を梳《と》かすだけですむ。余裕のあるときは髪を洗ってブロウするが、今日は初めからあきらめる。顔ができ上ったところで少し迷ってから、胸に刺繍《ししゆう》のあるブラウスに、シルバーグレイのスーツを着て、同色の輪型のイヤリングをつける。 「そろそろ、車を呼ぼうか?」  リビングルームから、遠野がきく。 「君を送って、まっすぐ会社へ行く」  修子の会社は赤坂だが、遠野の会社はその先の八重洲口なので通り途《みち》である。 「今日は楽だわ」  車で行くとなると、満員電車でもまれなくてすむ。  遠野は早速、電話で車を頼んでいる。自宅から出るときは会社の車らしいが、修子の部屋から出るときはタクシーを呼ぶ。 「十分くらいかかるらしいが、いいだろう」 「わたしはかまいませんが、このままじゃお腹が空くでしょう」 「大丈夫だ。どうせ覚悟をしていたから」 「そんな、意地悪はいわないで……」  遠野が泊った朝、修子はトーストとハムエッグくらいの簡単な朝食をつくるが、今日は間に合いそうもない。 「いま、コーヒーを淹《い》れます」 「いや、いい」  遠野が立上ってネクタイを結びはじめたとき、電話のベルが鳴った。  修子がキッチンから戻って受話器をとると、また返事がない。 「なにもいわないわ……」  修子が告げたが遠野は答えずネクタイを結び、背広を着る。修子は出しかけたコーヒー豆を戸棚におさめてベランダに立った。今日も曇り空だが、暑そうである。プランターに水をやり、洗濯物のないのをたしかめてから、カーテンを引く。 「行こうか……」  遠野は小さな書類バッグだけ持ち、修子はハンドバッグとビニールのゴミ袋を一つ持っている。知らない人が見たら、少し年齢が離れているが、共稼ぎ夫婦の出勤と思うかもしれない。  そのままエレベーターに乗り、二人だけになったところで、修子は思いきっていってみる。 「あの無言の電話、まさか奥さまではないでしょうね」 「奥さんて?」 「あなたのよ」  遠野は信じられぬというように、大きく首を横に振った。 「まさか、どうしてうちのがかけてくるんだ」 「わからないけど、あなたのことが気になって……」 「しかし、ここの住所も電話番号も知らないだろう。大体、修と際《つ》き合っていることさえ知らないんだから」 「そんなこと、調べる気になればすぐわかるわ。興信所にでも頼めば簡単よ」 「まさか、うちのはそんなことはしない。第一、そんな才覚なんかありゃしない」 「勝手に、決めつけるもんじゃないわ」 「彼女は俺にはなんの関心ももっていない。どこに行って何時に帰ろうが知らん顔だ」 「そんな……」  修子がいいかけたときエレベーターが一階についてドアが開いた。そのままマンションの裏手のゴミ捨て場の方に行きかけると遠野がいった。 「先に行って車で待っている」  遠野はマンションの前の歩道柵《ガードレール》をまたいで、待っていたタクシーに乗る。  修子はビニール袋をゴミ捨て場におきながら、遠野の妻のことを口にしたのを後悔した。  なにもいわなければ爽やかな気持で会社へ行けたのに、余計なことであったかもしれない。  ゴミを捨てて朝の微風のなかに立っていると、遠野の乗ったタクシーが近づいてきた。  修子が横に坐ると、遠野は美味しそうに煙草をふかす。その暢気《のんき》な態度を見ているうちに修子はまた少し意地悪をいいたくなる。 「でも本当に注意したほうがいいわ。奥さまがなにも気付かないなんて……」 「たしかに多少は気付いてはいるだろうが、それが修だとはかぎらないだろう」 「じゃあ、他にも誰かいるのですか」 「まさか、そんなことはいっていない」  遠野は落着けというように、修子の膝を叩いた。 「俺が好きなのは、修一人に決ってるじゃないか」  修子は前を窺ったが、運転手はハンドルを握ったまま二人の会話には興味なさそうである。 「とにかく、あなたは暢気すぎるわよ」 「そちらが心配しすぎるんだ」 「じゃあ、あなたが帰らないとき、奥さまはどこに行っていると思っているんですか」 「そりゃ、築地のマンションだろう」  忙しいという口実で、遠野は会社の近くの築地にワンルームのマンションを借りている。修子も数回行ったことがあるが、シングルベッドが一つあるだけの殺風景な部屋だった。 「そこに、あなたがいないときはどうなるの」 「どこかに出かけていると思っているだろう。それに、電話なんかかけてこない」 「急用ってことがあるでしょう」 「そのときは、会社によこす」  遠野は簡単にいうが、深夜、妻が築地のマンションに電話をかけたら、夫が不在なのはすぐわかるはずである。 「それで、よく奥さまは黙っているわね」 「………」 「なにも、仰言《おつしや》らないのですか」  もう一度、修子がきくと、遠野は軽く溜息をついた。 「俺達は、もうそんなことで喧嘩をする時代は過ぎている」 「じゃあ、あなたがなにをなさっても、見逃して黙っているのですか?」 「俺が行方不明になったり死んだりしたら、多少慌てるかもしれない……」  それほど冷えきった夫婦が、なお別れずにいることが修子には不思議である。 「でも、あなたは家に帰るわ」 「そりゃ、郵便物がきているし、着替えもしなければならない」 「それだけに帰るのですか?」 「それくらいだろう、休むときも自分の部屋で一人だし……」 「お子さんは?」 「もう大体、慣れているから……」  ふと、修子は自分が検事にでもなって遠野を問い詰めているような気がした。彼の家庭のことなぞ、自分とは無縁なことだと決めていたのに、これでは自分から介入しているようなものである。  修子は自ら慎むように窓を見た。  車は山手通りを過ぎて渋谷に近づいている。このあと六本木を通って溜池の手前を左に曲ると修子の会社がある。同じ道路の上を走る高速道路は混んでいるようだが、下は比較的|空《す》いていて車が流れている。 「結構、早く着きそうだ」  遠野にいわれて時計を見ると、八時二十分である。このあと赤坂までは二十分くらいで行けそうである。 「充分、間に合うわ」 「しかし、コーヒーを飲む時間はないだろう」 「これからですか」  一度、赤坂のホテルで朝食をとってから会社へ向かったことがあるが、それほどの余裕はなさそうである。 「やはり、お腹が空いたのでしょう」 「そんなことはないが、もう少し一緒にいたい……」  遠野の手が伸びてきて、修子の手を握る。修子もこのまま別れるのは心残りだが、遅刻するわけにいかない。 「あなたは、時間があるのですか?」 「今日の会議は十時半からだ……」 「じゃあ、どこかでお食事をなさったら」 「いや、築地のマンションに行ってみる。ネクタイも取り替えたいし、服も替えたいから」  遠野は白い麻のスーツを着ているが、修子の部屋に一着、グレイのジャケットがおいたままになっている。 「今度、修のマンションのほうに、少し持ってきてもいいかな?」  遠野は築地のマンションにも、多少の着替えをおいてある。 「でも、せっかくお部屋があるのですから、そちらにおいたほうがいいでしょう」 「向こうの部屋は殺風景だし、整理をするのも大変だ」  ワンルームの狭い部屋だが、遠野一人では滅多に掃除をすることもないようである。 「奥さまに、整理してもらったらいかがですか?」 「あそこは俺一人の城だから、やたらに出入りされては迷惑だ」 「わたしも、出入りしないほうがいいでしょう」 「どういう意味だ?」 「向こうは向こうで、どなたか専属の方がいらっしゃるんじゃありませんか」 「妬《や》いているのか?」 「どうして、わたしが妬くの。築地のほうはわたしと関係ないわ」 「そんなことをいわず、たまに来てみたらどうだ」 「あなたのお城には、なるたけ近づかないことにしてるの」 「冷たい奴だ」 「冷たいんじゃないわ」 「じゃあ、なんだ……」 「それは、奥さまの役目よ」 「彼女は絶対こない、大丈夫だ」  車が急停車したので前方を見ると信号が赤に変り、横断歩道をサラリーマンの群れが行き交う。それを見て、修子は改めて出社前であることに気がつく。 「こんな話をしていると、会社に行っても落着かないわ」 「今日は、忙しいのか?」 「十時に、香港から大切なお客さまが見えます」 「会社では、名秘書らしいからな」 「仕事は仕事よ」 「これから会社に行ったら、べらべらと英語を喋って澄ましているのだろう」  修子は肘で遠野を突き返して、姿勢を正した。 「あなただって会社へ行ったら、社長さまでしょう」 「俺が困った社長であることは、みんな知っている」 「三光電器の仕事を、とったじゃありませんか」 「仕事のことでなく、私生活でね」 「社員がそんなことまで、知っているのですか」 「こちらがいったわけではないが、なんとなくわかるらしい。修のことも感じているかもしれない」 「知られているなんて、いやだわ」 「なんとなく、大切な人だと思っているだけさ」  車は六本木の交叉点にさしかかっている。夜、会社が終ったあとはネオンで輝いているが、朝の六本木はどこか色|褪《あ》せている。  その交叉点を抜け、車が下り坂にさしかかったところで遠野が顔を近づけてきた。 「最近、いろいろと考えているんだ……」 「………」 「修と、一緒に棲《す》みたい」  突然、耳元で囁かれて振り返ると、遠野が素知らぬ顔で前方を見ている。  車が坂を下りきって前方に信号が見える。その一つ先を左に曲ったところが修子の会社である。その曲り角まできたところで、遠野が強く修子の手を握った。 「もう少し、待っていてくれ」  修子が黙っていると、車が左に曲って正面に修子の会社のビルが見えてきた。 「そこでいい」  遠野が運転手にいって車が停る。そのまま修子は目だけでうなずいて車を降りた。  燈  火  六時半に修子が会社を出ると、街はすでに夜になりネオンが輝きはじめている。  つい少し前、仕事を終えて机の上を整理していたときは西の方の空が茜色《あかねいろ》に染まっていた。それが帰り支度を整えて外に出てみると、夕暮れの名残りはすでにない。  修子は一瞬、「釣瓶《つるべ》落し」という言葉を思い出した。  気づかぬうちに盛夏が終り、季節は秋に移っているようである。 「釣瓶落しの秋の陽……」  つぶやいてから、修子はその言葉が若い女性に通じなかったことを思い出した。  去年のもう少し遅いころだったが、若い女性社員と歩きながらそれをいうと、彼女は怪訝《けげん》な顔できき返した。 「それ、どういう意味ですか」  彼女はその言葉の意味はもちろん、「釣瓶」自体も知らなかった。  仕方なく、修子は釣瓶の意味から説明した。  あれはまだ小学生になる前だから三十年近く前である。祖母の家の近くに井戸があって、そこに太い紐《ひも》が下り、先端に小さな桶《おけ》がぶら下っていた。井戸から水を汲みあげるとき、その桶に水を満たして引上げる。釣瓶落しは、その桶が井戸の底に一気に落ちていくさまをいう。  秋の夕陽は、そのくらい沈むのが早いという意味である。  大学受験を目指したころ、修子は俳句か短歌で、この言葉に出遇ったような気がする。  そのとき、修子は幼いときに見た井戸と釣瓶を思い出した。いまはすでに祖母は亡いし、井戸も埋めたてられたに違いない。  だが、子供のときに上から覗いた井戸の怖さは、いまも脳裏に焼きついている。深い井戸の底に釣瓶が落ちていくように、秋の陽も見果てぬ暗黒の夜のなかに消えていく。昔の人はこの二つに、共通した怖れと侘《わび》しさを覚えたのかもしれない。  いま外へ出た途端、「釣瓶落し……」という言葉を思い出したことに、修子は満足しながら、少し侘しさも覚えた。  若い人々のあいだでは、死語になっている言葉を知っているということは、自分もそれなりの年齢に達したということかもしれない。  自分ではまだ若いつもりでいても、すでに若い人と通じなくなっている部分がいくつかある。言葉の上でさえこうだから、感覚の上ではさらに開きがあるかもしれない。  だが次の瞬間、そんな言葉を知っている自分を大切にしたいとも思う。  古いといわれても「釣瓶落し」はやはり日本の自然のなかから生れた、味わいのある言葉である。それを知っているからといって恥じることはない。  侘しさと自信とのあいだを行き来しながら、修子が待合わせの六本木の小料理屋に着いたのは、七時少し前だった。  カウンターと、小上りが二つあるだけの小さな店である。暖簾《のれん》を分けてなかへ入ると、要介はすでにきて、カウンターの端で待っていた。 「ご免なさい、遅れて……」 「店を間違えたかと思いました」  これまで、食事というと、要介は決って洋食のレストランを指定する。理由をきいたわけではないが、そのほうがムードがあると思っているのかもしれない。  だが修子は、どちらかというと洋食より和食のほうが好ましい。それで今夜は修子のほうで決めて、そこへ要介に来てもらうことにしたのである。 「なかなか、しゃれたいい店ですね」 「でも、小さいでしょう」 「こんな店は、教えてもらわなければ、なかなかこられない」  修子は鉢巻きをした威勢のいい主人に、今夜のおすすめ品だという|すずき《ヽヽヽ》の刺身と燗酒《かんざけ》を頼む。 「ここには、よくくるんですか」 「たまにね……」  この店は、三年前に遠野に連れられてきたのが初めてである。それ以来、二人でときどき食べにくる。 「やっぱり、こういうところで食べるほうが粋《いき》ですね」  要介は気に入ったらしく、カウンターに片肘ついて酒を飲む。 「ところで、“釣瓶落し”って、知ってますか」  修子がきくと、要介はしばらく考えてから答える。 「それは、陽が沈むのが早いことをいうんじゃありませんか」 「よかった、知っていてくれて……」  さすがは同年代である。修子は安心して盃で乾盃する。  要介と会うのは、修子の誕生日のあと、赤坂で会って以来である。  その直後に、詫びの電話があって食事を誘われたが、修子は忙しいという理由で断った。食事をするくらいの暇がなかったわけではないが、あの深夜の電話は失礼すぎる。それを懲《こ》らしめるには、しばらく無視したほうがいい。  この修子の気持は、要介にも通じたようである。その後も何度か詫びの電話がきて、修子はようやく食事をすることを承諾した。  要介と対していると、修子はときに、自分が女王様になったような錯覚にとらわれるときがある。同じ年齢なのに、相手は修子のいうとおりに従うだけである。もう少し毅然としたらどうかと思うが、それは修子が年上の男性と際《つ》き合いすぎているせいかもしれない。  頼りない人だと思いながら、一方的に慕われる状況も悪くはない。男を手玉にとるというほどでもないが、いいなりになる男がいるということは自尊心を満足させてくれる。  今夜も初めのうちは、要介はひたすら低姿勢であった。改めて深夜の電話の非礼を謝ったあと、会社のことや、最近、出張で行ってきた北海道のことなどを話す。内容がとくに面白いわけではないが、修子の機嫌をとろうとしているのがはっきりとわかる。  だが酒を飲むうちに要介も勇気がでてきたのか、次第に修子の個人的なことに探りを入れてきた。 「あなたは最近、なにが面白いですか」  初めはそんな質問から始まった。 「面白いことといっても、この年齢《とし》になると、子供のときのように、心がときめくようなことはなくなったわ」  要介はいったんうなずいてから、今度はべつの方角から尋ねてくる。 「いま、なにに一番興味をもっていますか?」 「このところ、ずっと、名作といわれた古い映画を見てるわ」 「映画館でですか」 「もちろんビデオでよ。“哀愁”とか“慕情”とか“カサブランカ”とか白黒の映画も悪くないわ」  それらの映画を要介はほとんど知らないようである。しばらく黙りこんでから、最近見た映画の印象などを喋りだす。  だが要介が本当に話したいのは、映画のことではなさそうである。また思い出したように別の質問をする。 「最近、恋愛のほうはどうですか?」 「どうって?」 「好きな人は、いないの?」  深夜に電話をよこして以来、要介はそのことについて尋ねる機会を窺《うかが》っていたようである。  だが逢ってすぐは尋ねず、いま修子が関心を抱いていることなどを聞きながらじわじわと迫ってくる。修子はそんな要介の態度が不満である。男なら、もっとずばりときいてくればいいのに。  だがこのあたりが、若い男に共通する自信のなさであり、優しさなのかもしれない。 「わたしに、好きな人がいると思いますか?」  逆に修子のほうから尋ねながら、少し悪戯《いたずら》心が芽生えてくる。 「よくは、わからないけど……」 「じゃあ、たしかめにきますか?」 「どこへ?」 「わたしの部屋に」 「これから、行ってもいいんですか?」 「気になるのでしたら、どうぞ」  要介は呆気《あつけ》にとられて、修子を見る。  その顔を見ながら、修子は部屋で遠野が待っている姿を想像する。  もし遠野がいるのを知ったら、要介はなんというだろうか。遠野は大人だから、黙って招き入れるかもしれないが、要介は逃げだすかもしれない。 「じゃあ、行きましょうか」  お酒の勢いをかりて、修子は次第に大胆になる。  要介と一緒に車に乗ってから、修子はこれからのことを考える。  昨夜は、遠野は泊らなかったから、部屋に彼のものは散らばっていない。男もののパジャマもジャケットも、箪笥《たんす》のなかに仕舞いこんである。男の名残りを思わせるものは、せいぜい灰皿と煙草くらいだが、それらはときに修子も喫うから、見付かっても問題はない。 「まさか、マンションの前で、“帰れ”というわけじゃないでしょうね」  要介はまだ半信半疑らしい。 「もちろん、お気に召さなければ帰ってもいいわ」 「いや、部屋に入れてもらえるだけで光栄です」 「コーヒーしかないけど」 「そんな、長居はしません」  車がマンションの前に着くと、要介は用心深そうにあたりを見廻してから、修子のあとについてきた。 「大分、ボロのマンションでしょう」 「そんなことはありません」  エレベーターをおりて廊下を行き、部屋の前で新聞を引き抜いてからドアを開ける。 「どうぞ……」  要介は不安そうになかを窺いながら、そろそろと入ってくる。 「少し蒸し暑いわね」  修子は明りをつけ、ベランダを少し開ける。 「そちらのソファはいかがですか」  いわれたとおり、要介はソファに坐ってからうなずく。 「やっぱり、僕が思っていたとおりだ」 「なにがですか?」 「部屋がとても綺麗で、落着いている」 「掃除をするしか、能がないんです」 「僕は初めから、あなたは綺麗好きな人だと思っていました」 「コーヒーで、よろしいですね」  自分の部屋に、遠野以外の男を入れたのは初めてである。ここへくるまで、修子はそのことにあるうしろめたさを感じていたが、いまはさほどでもない。 「テレビをつけましょうか」  スイッチを押すと、南米奥地を探る旅の番組が流れている。要介はそれを見ながら、コーヒーを飲む。 「ここで、毎晩、なにをしているのですか」 「なにをって、いろいろとすることがあるわ」 「この奥に、もう一部屋あるのですか」 「寝室だけど、狭くて……」 「しかし一人じゃ充分じゃありませんか。僕の会社の仲間でも、都内でこんな静かなところに住んでいる人はいませんよ」 「あなたは、蒲田でしょう」 「僕はまだアパート住まいです。汚いところですけど僕のところにも是非きて下さい」  要介はそういってから、自分の部屋の様子やまわりの人々のことを話す。  修子はそれをききながら、再びここに遠野が現れたときのことを想像する。  突然、酔って遠野が帰ってきたら、要介はどんな顔をするだろうか。いやそれ以上に、遠野はなんというだろうか。むろん悪いことをしているわけではないから、いいわけはきく。  考えるうちに、修子はさらに大胆になってくる。  いっそ、二人がぶつかって、睨《にら》み合う情景など見てみたい。  突然、要介が立上った。 「トイレは、向こうですか」 「そのバスルームの左手よ」  そのまま修子がテレビを見ていると、要介が戻ってきた。 「あのう、ウイスキーを一杯だけ、もらえませんか」 「コーヒーだけの約束だったわ」 「でも、一杯だけ……」  前の店でお酒を飲んだはずなのに、要介の顔は少し蒼《あお》ざめている。なにか内側から湧き出てくるものを抑えているといった表情である。  修子はグラスに冷たい水を満たしてテーブルの上においた。 「これが、ウイスキーの替りですか」 「喉が渇きませんか」 「こんなもので、僕の気持は落着きません」  トイレに立ったのを機に、要介の態度は少し変ったようである。どこというわけではないが、急に無口になって不快そうである。 「なにか、具合でも悪いのですか」 「少し、あなたのことをきいてもいいですか?」  要介は水を一気に飲み干すと、検事のような口調になる。 「あなたは、本当にここに一人でいるのですか」 「もちろんよ、どうして?」  要介は自らを落着けるように一つ息をつく。 「あなたは不思議な人ですね、僕にはよくわかりません」 「どうなさったのですか」 「いま、僕ははっきりわかりました。ここには男の人が来ますね」  少し酔っているはずの要介の顔が、蛍光灯の下で蒼ざめて見える。 「僕はわかったのです」  突然、要介は自分でたしかめるようにバスルームのほうを指さした。 「あそこに剃刀《かみそり》がありました」  バスルームの手前に洗面台があり、そこに黒革のケースに入った遠野の剃刀がおいてある。いわれて気が付いたが、トイレに行ったときに要介はそれを見たようである。 「正直にいって下さい」 「………」 「隠しても、わかります」  要介に問い詰められて、修子は急に腹立たしくなってきた。  この部屋になにがあろうと、ここは自分の部屋である。そこに勝手に入ってきて、男ものの剃刀があるからといって、とやかくいわれる理由はない。 「あれは男ものですね」 「ご想像にまかせます」 「やっぱり……」  要介はゆっくりと髪を掻き上げる。 「前から、可笑《おか》しいと思っていました」 「車を呼びましょう」 「僕を追い返すつもりですか」 「今日はもう、帰られたほうがいいわ」 「まだ、話は終っていません」  修子はかまわずタクシー会社に電話をして住所を告げる。 「誤魔化さないで、聞いて下さい」  要介はまだ剃刀のことに拘泥《こだわ》っているようである。 「前から変だと思っていたけど、まさかそんなことをしているとは……」 「あなたは一体、なにをいいたいのですか」 「僕が思っていたとおりだということです。あなたはここで、誰か他の男と一緒に棲んでいる」 「違います」 「だって、あの剃刀が絶対の証拠でしょう」 「たしかに男のものですが、一緒に棲んでいるわけではありません」 「じゃあ、ときどきここにくるわけですか」 「………」 「その人を好きなのですね」 「そんなこと、あなたに答える必要はないわ」  要介は鋭く修子を睨んだが、すぐ呆れたように溜息をつく。 「あなたが、そんな人とは知りませんでした。まさか、そんなふしだらなことをしているとは……」 「ふしだら?」  修子は顔を上げてきき返した。 「なにが、ふしだらなのですか」 「その人と、結婚するのですか?」 「別に……」 「結婚する当てもないのに、際《つ》き合うのはふしだらでしょう」 「そんなことはないわ」 「じゃあ、その人を愛しているのですか?」 「愛してるわ」  思いがけない強いいい方に、要介はたじろいだようである。態勢を立て直すようにテーブルの上にあった水を飲む。 「それなら、何故結婚をしないのですか。相手の人もあなたを好きなのでしょう」 「………」 「好きで、剃刀までおいていく人なら、結婚すべきでしょう」  急に修子は可笑しくなった。まだ若いのに、要介のいうことは意外に古風である。なにやら老人の説教をきいているような理屈っぽさである。 「好きでも、一緒にならない場合もあるわ」 「そんなのは、嘘だ」  修子が笑いかけたのを知ってか、要介はさらに大きな声でいう。 「そんなの、誤魔化しです」 「違うわ」 「わかった。その人は妻子がある人なのでしょう。正直にいって下さい。あなたよりずっと年上で結婚しているのでしょう」  相手の攻撃が強くなればなるほど、修子も次第に開き直ってくる。 「そのとおりよ」 「あなたは、それで満足しているのですか」 「満足よ」 「そんな結婚もできないような、妻子ある男と際き合って楽しいのですか」 「楽しいわ」 「しかし、その人とは将来も結婚できる可能性はないわけでしょう」 「別に、結婚だけがすべてじゃないわ」  要介は結婚ということに拘泥りすぎる。あるいは自分が独身で、いますぐ結婚できることが唯一の強みなので、ことさらにそれを強調するのかもしれない。 「じゃあ、ただ遊んでいるだけなのですね」 「そう思いたければ、思われても結構よ」 「真面目に考えて下さい」  要介の目が怒りで輝いている。 「茶化すのは卑怯です」 「茶化してなんかいないわ」 「じゃあ、何故、その人と結婚しないのですか。もし本当にお互いが好きなら結婚できるはずでしょう。それとも絶対に結婚できない理由でもあるんですか」 「あるんじゃなくて、しないのよ」 「しない?」 「そう、しなくていいの」 「どうして?」 「世の中には、あなたと同じ考えの人ばかりじゃないわ」  要介はなお納得しかねるように考え込んでいる。その戸惑いもわからぬわけではないが、彼のように、なんでも結婚がベストという考えは鬱陶しい。 「さあ、もう下に車がきてるわ」  先程、電話をしたときは五、六分で着くといっていた。 「お帰りになったほうが、いいわ」  促すように、修子が先にドアのほうへ歩き出すと、要介もしぶしぶ立上った。 「タクシーのナンバーは二一五よ。マンションの前に停っているはずです」  要介は返事もせず、沓脱《くつぬ》ぎの前で突っ立っている。 「早く、行ったほうがいいわ」  修子がサンダルをはいてドアを開けようとした途端、いきなりうしろから抱きしめられた。  不意をくらって修子はよろめき、サンダルの片足をはずしたが、要介はかまわずおおいかぶさってくる。 「なにをするの……」  腕を振りほどこうとするが、締めつける力で息が詰まり、次の瞬間、要介の顔が目前に迫ってくる。修子は首を左右に振り、手をばたつかせたが、頬から首にかけてべたべたと要介の唇が触れてくる。 「やめて……」  修子はさらに身を屈《かが》め、要介の腕の輪から抜けだすと、這うようにしてリビングルームへ逃げ出した。そこで呼吸を整え、振り返ると、要介はまだ沓脱ぎの手前の踊り場に突っ立っている。  修子は乱れた髪を整え、開いた胸元を合わせながら叫んだ。 「帰って……」  いくら気持が高ぶったからといって、暴力で手籠《てご》めにしようとするのは勝手すぎる。 「帰って下さい」  要介はなお激情から醒めやらぬように、両手をだらりと下げたままこちらを見ている。  自分で自分のやったことがわかりかねているようである。 「車が待っています」  今度は少し優しくいうと、要介はゆっくりと床の上に落ちていた鞄を拾い上げた。そこでもう一度、虚《うつ》ろな目差しで修子を見ると、黙ってドアを開けて出ていった。  一人になって、修子は改めて身のまわりをたしかめた。  要介の腕の中で逆らったとき、ブラウスの胸のボタンが一つとれ、袖口が破れたようである。さらに顔全体に、唇で触れられたあとのぬめぬめした感触が残っている。  まったく、思いがけない襲撃であった。  これまで要介はいつも紳士的であったから、まさかと思ったが、やはり男はいったん興奮するとなにをやりだすかわからない。見方によっては、それも好意の表れといえなくもないが、それにしても強引で勝手すぎる。  好きならもう少し手順を踏んで、優しく近付いてくれなければ女は受け入れる気持になれない。ましてやいまのように闇討ちでは、許すどころか嫌悪感ばかりが増してしまう。  それにしても他の男性が部屋に出入りしているのを知って挑んでくるとはどういうわけなのか、そんな女はふしだらだといっていながら、抱きついてくる。あれでは、女なら誰でもいいということではないか。それとも他の男性と際き合っていることを知って逆上したのか。 「わからない……」  つぶやきながら、床に落ちているボタンを拾って胸元で合わせていると電話のベルが鳴った。  このところ、無言の電話はいくらか減っていた。  修子が受話器をとったまま黙っていると、男の声が返ってきた。 「もしもし……」  その一言で、遠野とわかる。 「どうしたんだ。なにかあったのか?」 「いえ、なにも……」 「いま銀座だけど、これからまっすぐそちらに行く」 「………」 「いいだろう」  念をおされて、修子は初めて気がついたようにうなずく。 「わかりました」  受話器をおいて、時計をみると十時半である。  これから遠野が部屋にくるまでは小一時間かかる。修子は浴槽に湯をとり、風呂に入った。  要介の感触が全身にべとついたような気がして、とくに念入りに洗う。  風呂から上ってドライヤーで髪を乾かしていると、チャイムが鳴って遠野が現れた。 「お帰りなさい」  修子は久しぶりに懐しい人を見るように、遠野を見上げた。 「どうしたんだ」 「なにが?」 「いつもより優しいから……」  遠野が鞄のなかから、修子の好物の、麹町のレストランでつくっているクッキーを取り出す。 「ありがとう、あのお店に行ってきたんですか?」 「三光電器の担当者達とね。今度二人で行こう」 「はっきり、日を決めて」  修子は急に甘えたい気持になっていた。 「じゃあ来週の半ば、水曜日はどうだ」 「約束したわよ」 「風呂に入ったのか」  遠野が香りをたしかめるように顔を近付けてくる。それとともに修子は自分から彼の胸の中に入っていく。 「シャンプーの匂いがする」  遠野の胸は煙草と汗がまじったような匂いがするが、そのなかに顔をうずめていると自然に気持が和んでくる。 「ねえ、接吻をして」 「今日は、おかしいぞ」  明るすぎるせいか、遠野が照れたように笑い、それから唇の先で軽く触れる。 「今日はどうしたんだ。誰かと浮気でもしてきたのか」 「わたしが、そんなことをするわけがないでしょう」 「そうかな……」 「じゃあ、してもいいの」 「いや、困る……」  今度は深い接吻を交してから、ゆっくりと体を離す。 「怪しい電話はなかったか?」 「今夜は、まだよ」  修子は遠野の脱いだスーツをハンガーに掛け、ナイトガウンを出す。 「お風呂に入りますか」 「いや、いい。それよりビールを一杯欲しい」  修子が冷蔵庫からカンビールを取り出して、グラスに注ぐ。 「うまい、一杯どうだ」 「いただこうかな」  風呂上りのあとで、修子も飲みたかった。 「今夜は、なんとなく色っぽいな」  遠野が改めて修子を見る。その視線から避けるように、修子は残ったビールを一気に飲み干す。 「なにか、生き生きとしている」 「あなたに、逢えたからよ」 「いつだって、逢ってるじゃないか」  遠野は苦笑するが、修子はようやく逢えたような気がしている。 「クッキーは食べないのか」 「もう遅いから、一つだけいただこうかしら」 「俺も一つ食べてみよう」  クッキーの箱をあける修子の頭の中から、要介のことはすでにあとかたもなく消えている。  夜、遅く帰ってきたとき、遠野はそのまま眠ることが多いが、その夜は初めから積極的であった。先に遠野がベッドに入り、修子が横にくるのを待っていたように求めてきた。  むろん修子は素直に受け入れた。  遠野の愛撫は激しくはないが、的確であった。年輪を思わせるようにゆっくりと愛撫を重ねながら、確実に快楽の淵へ導いていく。  修子のどこに触れ、どこを押せばどのような反応が表れるか、すべて承知しているようである。  自分の体でありながら、修子は遠野に翻弄されている自分を感じていた。  自分以上に、遠野はわたしの体を知っている。ときに、修子はそのことに口惜しさを感じながら、一方で安心してもいる。  とやかくいっても、修子の体を目覚めさせてくれたのは遠野である。遠野という探険家によって、修子という大地は拓かれたようである。  それ以前、修子は処女ではなかったが、まだ未開の荒地であった。さまざまの可能性を秘めながら、密林のなかにうずもれていた。それを切り拓き、緑あふれる沃野《よくや》にしたのは遠野である。  今日の開花は、まさに遠野の努力の結晶である。未開の大地に、初めこそ傍若無人にのりこんできたが、それからは汗水垂らしての努力がつづいた。  実際、行為が終ったいまも、遠野は全身に汗を滲《にじ》ませたまま、岸辺に打上げられた藻のように横たわっている。  一時、翻弄されたのは修子であったが、気がつくと遠野のほうが精気を失っている。  修子はそのことに、ある済まなさと愛着を覚える。それほどまで真剣に、自分に愛撫をくわえてくれた男の努力に感謝するとともに、その一途さに感服する。  もっとも遠野自身は、二人の行為をそのようには解釈していないようである。彼はあくまで初めの状況に拘泥《こだわ》り、翻弄したのは自分で自分が緑の大地を制圧したと思いこんでいるらしい。  男がそう思いたいのであれば、そう思えばいい。それで男と女の立場がどうなるわけでもない。  だがいずれであれ、いま、女は新しい水を得たように輝きを増し、男は刀折れ矢尽きたように息を潜めていることはたしかである。  考えてみると、遠野の愛を受ける度に、修子は美しくなってきたようである。二十代の後半から三十代にかけて、修子は着実に女の柔らかさと艶めかしさを増してきた。そのことは、毎朝、鏡に向かうときによくわかる。抱かれて満たされたあとの朝は肌が潤い、化粧ののりがいい。逆に満たされていないときには、かさかさと肌が乾いて艶がない。  修子は、そんなことで変る自分が不思議で不気味である。自分の体がそんな単純な面をもっていることに感心し、呆れる。  いずれにせよ、修子と遠野の関係は、独身の女と妻子ある年上の男、というだけのものではない。その内側には、二人だけが認めあっているさまざまな絆《きずな》がある。  修子はそれに拘泥る気はないが、無視すべきだとも思わない。  なににでも歴史があるように、二人のあいだにも、今日まで続いてきた、それなりの歴史がある。  このごろ結ばれたあと、修子は寝そびれることがある。いままでなら遠野の腕に抱かれたまま、眠りについたのが、気がつくと一人だけ覚めている。  もっとも、体には燃えたあとの気怠《けだる》さとともに、甘い余韻がくすぶっている。すぐにそれを消すのは惜しいと思っているうちに、目が冴えてきて、寝そびれてしまう。  今夜の修子もそれと同じである。  もう少し余韻を楽しんでいたいと思っているうちに遠野は眠り、修子一人、取り残されている。  枕元の小さな明りだけの部屋で、遠野は憎らしいほど小気味よい寝息をたてている。今夜はあまり飲んでいないせいか、鼾《いびき》というほど高くはない。  修子はその寝息をききながら、今日一日のことを回想する。  会社は決算期を迎えて忙しかったが、取り立てていうほどのことはなかった。  ただ社長が昼休みの前に、来客がいなくなったところで修子に尋ねた。 「君は結婚する気はないのかね」  突然だったので、修子は戸惑いながら答えた。 「ないわけでは、ありませんが……」 「実は、僕のよく知っている男から頼まれたんだがね……」  いつもてきぱきと指示する社長には珍しく歯切れが悪い。男はこういうことをいうときは照れるのだろうか。 「いい男がいるんだが、君にどうかと聞かれたものだから……僕もその相手には会ったことはないんだが、写真ぐらい見る気はあるかな」  曖昧《あいまい》ないい方だが断る理由もなさそうなので、修子はうなずいた。 「ありがとうございます」 「じゃあ、今度、写真を持ってきてもらってもいいね」 「わたしのようなお婆さんでもよろしいのですか」 「君に憧れている男性は多い」  社長はそれだけいうと、外人との昼食会に出ていった。  誰であれ、自分を見初《みそ》めてくれる人がいることは感謝すべきかもしれない。このところ、しばらく見合いの話などなかったので少しどぎまぎした。  しかし社長に、「好きな人がいるのか?」ときかれたら、なんと答えたろうか。もちろん、「います」とは答えないが、といって即座に否定するわけにもいかない。曖昧に首を横に振ったかもしれないが、勘のいい人なら察するかもしれない。  いずれにせよ、修子はその話をきいて少し心が華やいだ。まだ写真さえ見たことのない相手なのに、自分を見初めた人がいると思うだけで心が浮き立った。  だが修子はそのことを、要介にも遠野にもいわなかった。初めから要介には関係のないことだし、遠野にいうと、なにか、こちらから迫っているようにとられかねない。そんな話は初めからなかったものと思って、聞き流しておいたほうがよさそうである。  だが要介と食事をしながらも、そのことは、修子の心の中で微妙な影を落していたのかもしれない。  食事をして飲むうちに、修子は次第に気持が大きくなり、要介を自分のマンションにまで連れてきてしまった。初めは軽い気持からだったが、途中から深刻な話になり、最後はあと味の悪い別れ方になってしまった。  彼が帰った直後は、強引に迫られた嫌悪感だけが渦巻いていたが、いま落着いてみると、要介に少し悪いことをしたような気もする。  そのときは強引で身勝手な人と思ったが、そんな状況に追いやったのは、修子の責任でもある。そもそもは悪戯《いたずら》心をおこして部屋に入れたのが間違いの因《もと》であった。  要介とあんな別れ方をしたのも悲しいが、それ以上に、これからいままでのように気軽に会えなくなったことのほうが淋しい。むろん彼と結婚する気なぞなかった、同年代の好ましい友達だと思っていた。その友達と以前のように際き合えなくなったのは残念である。  とりとめもなく考えていると、突然、遠野の寝息が止り、大きな山でも動くように肩口がゆっくりと動いて寝返りをうつ。再び寝息が戻ったところで、修子はうしろから遠野の背に顔を寄せた。  とやかくいっても、この人の横にいるときが最も心が安らぐ。  要介が帰ったあと、遠野を見たとき、修子は父親に会ったような安堵を覚えた。この安心感は、好き嫌いをこえて、一つの慣れのようなものかもしれない。理屈ではなく、肌が馴染み合った果ての|たしかさ《ヽヽヽヽ》とでもいうべきものかもしれない。 「このままわたしはずっと、この人に従《つ》いていくのだろうか……」  闇の中で自分にきいてみるが、寝室には遠野の単調な寝息が続いているだけである。  修子は眠ることにした。このまま寝そびれると、明日、寝不足の顔のまま出勤しなければならなくなる。  修子はベッドを抜け、リキュールを一杯飲んだ。  グラスを流しに戻し、ベッドに戻りかたけとき、また電話のベルが鳴った。  このところ、無言の電話のために修子は夜間も電話をリビングルームのほうにおいたままである。寝室とのドアを閉め直してから受話器をとると女の声だった。 「もしもし、起きてた?」  とびこんできたのは絵里の声だった。 「ご免なさい、こんな深夜に」  いわれて時計を見ると、一時半である。 「いま、話していい?」 「いいわよ」  修子は電話のコードを延ばして、ソファに坐った。 「実はね、今日、悟郎と会ったの」  絵里は夫と別れて、五歳になる男の子を引き取っているが、一年前から辰田悟郎というカメラマンと際き合っていた。絵里より辰田のほうが一歳年下なので、初めから彼のことを「悟郎」と呼んでいる。 「彼が、ぜひ結婚したいっていうのよ」  そんな話かと、修子は拍子抜けしたが、すぐ切るわけにもいかない。 「よかったじゃない、あなたもそれを望んでいたのでしょう」 「ところが条件があるの。結婚はするけど、子供はおいてきて欲しいっていうのよ」  修子は肌寒さを覚えて、パジャマの上にカーディガンを羽織った。 「ひどいと思わない?」  悟郎は絵里好みのすらりとしたハンサムだが、まだ若いだけに、いきなり五歳の男の子の父親になるのは気が重いのかもしれない。 「わたしを本当に好きなら、子供も一緒に引きとるべきでしょう。そんなの、まやかしだと思わない」 「でも、男の人の本心って、そうなんじゃないの」  修子がいうと、絵里の甲高い声が返ってきた。 「なにをいうの……他人《ひと》のことだと思っていい加減なこといわないで」 「別に、そんなつもりでいったんじゃないわ」 「彼は前から、わたしが離婚して子供がいることを知ってるのよ。それを承知で結婚しようといいながら、いまさら、子供はいやだってことはないでしょう」  どうやら絵里は少し酔っているようである。さらによく聞きとれぬことをつぶやいてから断言するようにいう。 「大体、あなたは冷たいのよ。結婚して子供をもったことがないから、他人の子を犬の子でも捨てるように、簡単にいえるのよ」 「あなたにきかれたから、答えただけよ」 「わたしが克彦を離したら、克彦はどうなるのよ」 「でも、前のご主人が、克彦君を欲しいといってるんでしょう」 「あんな男に、克彦を渡せると思う? あんな自分勝手な男に……」  それなら自分で考えたほうがいい。修子が黙っていると、突然泣き声になる。 「とにかく、わたしは克彦を離さないわ。そんな酷《ひど》いことは断じてできない、そうでしょう」 「彼は、克彦君が自分になつかなかったり、新しい子供が生れると面倒だと思ったんじゃないの」 「でも、それが男のつとめでしょう。まだ結婚もしない前から、面倒だなんてひどいわ」 「………」 「とにかく卑怯よ、わたしを、さんざん利用しておきながら……」 「それは、違うんじゃない」  絵里からきいたかぎりでは、初めに悟郎に近付いていったのは絵里のほうである。その後、撮影の仕事などで悟郎は多少、絵里の助けをかりたかもしれないが、それをいまもちだすほうが卑怯である。 「そんなことをいいだしたら、泥仕合になるわ」 「でも、口惜しいからいってやったわ。あなたは、わたしと寝ることだけが目的だったのって……」 「そんな……」  彼とうまくいっているときは惚《のろ》け、うまくいかなくなると寝ることだけが目的だった、などと叫ぶ。絵里ほどの聡明な女も、恋に狂うと、そんなことをいうのかと思うと気が滅入る。 「もっと、落着いて、時間をおいて考えたほうがいいわ」 「こんな状態になって、どうして落着いていられるの」 「だって、まだ結婚の申し込みを受けただけでしょう」 「駄目よ、もう大喧嘩をしてしまったから……」  絵里の声は急に力がなくなる。 「わたし、どうすればいいの……。ねえ、教えて」 「まだ彼を愛しているのでしょう」 「そりゃ……」 「でも、彼は子供をおいてきて欲しいというわけね」 「そんなこと、絶対にできない……」  絵里のすすり泣きが受話器から洩れてくる。順調にいっていると思った二人のあいだにも、問題は潜んでいたようである。 「とにかく、両方とるのは無理ね」 「そんなこといわずに、真剣に考えてよ」 「じゃあ、一つだけ方法があるわ」 「なによ、早くいって」 「いままでどおり、彼と結婚しないで恋人同士でいたら」 「恋人同士?」 「結婚しようとするから、難しくなるのよ」 「あなたって……」  絵里は絶句したようにしばらく黙っていたが、やがてぽつりとつぶやいた。 「なるほどね」 「そうでしょう」 「簡単なことね」 「そうよ、簡単よ」  急にすすり泣きがとまり、考えこんでいるのか受話器の声が途絶える。 「ねえ、わかった?」 「でもそれじゃ、わたし達、永遠に他人よ」 「結婚して憎み合うより、恋人同士で愛し合ってるほうがいいでしょう。あなたが教えてくれた、メトレスよ」  フランス語で愛人のことをメトレスというのだと、教えてくれたのは絵里である。 「あなたは立派に自立しているのだから、そういうことになるでしょう」 「もちろん、わたしは自立してるけど、向こうはただのアマンよ」 「男の愛人のこと?」 「そう、むしろわたしのほうが面倒を見てるわけだから……」  そうとは思っていたが、堂々といいきるところが絵里らしい。 「あなたが羨ましいわ」 「それよりもっと気楽に考えたら」 「気楽にねえ……」  絵里がうなずくのをききながら、他人のことだから冷静になれるのだと、修子は自分にいいきかす。  夜  長  遠野のマンションは築地の本願寺の先の閑静な一角にある。ワンルームばかりの五階建てでさほど大きくないが、会社のある八重洲口に近くて便利である。  遠野がこの部屋に衣類や日用品などを大量に運びこんだのは、九月半ばの連休の一日であった。もちろんそれまでも遠野はここで何度か寝泊りしていたのだから、数本のネクタイや替え上着くらいはおいてある。  だが泊るといっても、仕事で遅くなったときだけで、翌朝、早く出ていくので日用品はほとんどない。せいぜい洗面道具とインスタントコーヒー、それにグラスが数個、おいてあるくらいである。しかもこの部屋に泊るというのは家への口実で、実際は修子のマンションに泊ることが多いから、仕事のための部屋といっても空室に近い。  修子も数回、訪れたことがあるが、いかにも泊るだけといった感じの殺風景な部屋だった。  だが、今回は本格的な引越しである。  遠野が運びこんだのは、十数着のスーツにワイシャツ、替えズボン、セーター、カーディガンなどから靴、さらにはゴルフウエアなど相当の量である。くわえて新しいソファ、テレビ、コーヒーセット、小皿から鍋まであって、簡単な料理くらいはつくれそうである。これらのなかには新品もあるが、衣類や食器は久が原の家から持ってきたものである。  引越しの手伝いをしながら、修子は遠野の妻のことを考えた。  一体、彼女は、夫がこれだけのものを持ち出して、不思議に思っていないのだろうか。  もちろんそのことにも、遠野は口実を用意しているに違いない。  この秋から、三光電器のイベントが本格的にはじまる。それには東京在勤の全社員をフルにつかっても足りないほどの大仕事である。その陣頭指揮のために、いちいち家まで帰っている余裕はない。一見、その理由はもっともなようで、かなり怪しいところがある。  まずなによりも、遠野の家は大田区の久が原で、都心部から遠いといっても千葉や埼玉とはわけが違う。車をつかえば、深夜でも帰れない距離ではない。さらにこの秋から本格的に忙しくなるといっても、社長の遠野がいつも会社にいなければならないわけではない。実行の段階でさまざまな問題が生じても、居場所さえわかっていればなんとかなる。  それを衣類から日用品まで持ち込んで、会社の近くに寝泊りするのは、いささかやり過ぎの感がなくもない。遠野の妻は、そのあたりのことをどう思っているのだろうか。  そのことを修子は遠野にきいてみようと思って、ききかねた。  もともと、遠野の家のことについては一切関知しないというのが、修子の方針であった。自分と逢っているときの彼だけを大切にして、それ以外のことについては考えない。修子はそう自分にいいきかせ、いままでそれを守ってきた。今回の部屋の整理にしても、遠野が手伝って欲しいというから手伝っているだけのことである。  だが、こう荷物が多くては不安になる。それに運送会社の男性が、修子を遠野の妻と勘違いして、「奥さん」と呼ぶ。たしかに修子はベージュのパンツに縦縞のシャツを着て、白い前掛けをしているので、妻に見えるかもしれない。遠野は紺のズボンに白い長袖のシャツをまくり上げて指図している。  一応、荷物が全部マンションに運びこまれたところで、修子は思いきってきいてみた。 「こんなに運んできて、お家のほうはどうなるのですか?」 「どうなるって……」  遠野が額の汗をタオルで拭きとる。 「お家に、なにもなくなってしまうでしょう」 「もう、戻らないからいいのさ」  修子が呆気《あつけ》にとられて見上げると、遠野は暢気《のんき》に笑っている。 「そんなことして、いいんですか」 「いいも悪いも、仕方がないだろう」  なにが仕方がないのか、修子には一向にわかりかねる。 「これからずっと、ここに住むんですか」 「一応はそういうことになるが、これから修のところに行く回数が増えるかもしれない。迷惑か?」 「急にそんなことをいわれても……」 「邪魔をしないから、心配しなくていい。でもこれからは家にはほとんど帰らない」  たしかにこれだけのものを持ってきたら、当座は帰らなくてすむかもしれないが、遠野の妻や子供達は今回の引越しをどう思っているのか。 「それ、本気ですか」 「前から、うまくいってないといってただろう」 「じゃあ、別居するということですか」 「まあ、そんなものだ」  遠野はうなずくと、冷蔵庫に入ったビールを旨そうに飲む。  家具と衣類をおさめ、部屋を掃除し終ると三時だった。昼過ぎからはじめたのだから、ほぼ二時間かかったことになる。  ワンルームだが新しい家具をいれ、衣類を収納すると、狭いが落着いて、結構、部屋らしくなる。少なくともいままでの殺風景な雰囲気は消え、人が住んでいるあたたかさが甦る。 「ありがとう、これで大丈夫だ」  遠野はまくり上げていたシャツの袖を戻し、煙草に火をつける。 「新しいので、コーヒーを淹《い》れてみましょうか」  コーヒーもいままではインスタントしか飲めなかったが、今度からはドリップ式ので簡単につくれる。ワンルームで、ベッドの他には小さなソファが一つあるだけなので、そこに二人並んで坐ってコーヒーを飲む。 「それにしても、狭いな」  冷蔵庫は流し台の下におさめ、バスとトイレは一緒で、結構、機能的につくられているが、見廻すとやはり狭い。部屋の半ば近くがベッドで占拠されているので、他は簡単な戸棚つきの机とソファがあるだけである。 「ここにずっといると、息が詰まるわね」 「やっぱり、酔って帰って寝るだけだ」 「お宅は広かったのでしょう」  修子は遠野の家を見たことはないが一軒家であることはたしかである。そこを捨てて、どうしてこんな狭いところへ移ってきたのか。遠野にいわせると自由のため、ということになるのかもしれない。 「そうだ、包丁を買うのを忘れた」  遠野が流しのほうを見ながらいう。 「ティッシュも洗剤もないでしょう」 「もっと大きい、屑籠も必要だな」  実際に住んでみると、さらに足りないものがでてきそうである。 「明日でも、買ってきておきましょうか」 「ついでにインスタントラーメンや味噌汁もあったほうがいい」 「洗濯物はどうするんですか」 「管理人に預けておくとクリーニング屋に渡してくれるが、下着は難しいな」 「わたしのところに持ってきて下さい」 「そう頼めると、ありがたい」  手伝っているうちに、修子はますます遠野の私生活に深入りしそうである。 「お宅にくる郵便物などは、どうなさるのですか?」 「ときどき、取りにいかなければならん」  別居同然の生活をしながら、郵便物だけをとりにくる夫に、妻はどんな態度をとるのか。修子には想像しかねるが、遠野はけろりとしている。 「ようやく、これですっきりした」 「狭くて、そのうち逃げ出したくなるんじゃありませんか」 「そういうときは、修の部屋に行く」 「でも、あそこも広くはないわ」 「大丈夫、いずれ大きい部屋を借りるから……」 「ここから移るんですか」 「修と二人で住めるところにね」  一体、遠野はなにを考えているのか。正式な離婚もせずに、そんなことをいう遠野の神経がわからない。 「さあ、来週から忙しくなるぞ」  いまいったことなぞ忘れたように、遠野は両手を広げて伸びをする。 「今度のは、全部で五、六億の仕事だからね」  遠野の会社は三光電器の創立五十周年の記念イベントの仕事を手に入れたが、その企画コンペで、大手の代理店をしのいで勝ったことが余程嬉しいらしい。 「いま、人を増やしているんだが、修もいまの会社を辞めて、うちのほうにきたらどうだ」 「あなたの秘書になるのですか」 「君が側にいてくれれば、鬼に金棒だ」 「せっかくですが、遠慮します。わたしがいたら、あなたがかえってやりにくいでしょうから」 「そんなことはない。いまの会社よりずっと高い給料を出す」 「いまのところを馘《くび》になったら、お願いします」  冗談めかしていうが、修子はこれ以上、遠野の内側に入りこむ気はない。 「ところで、これから一寸、会社に行ってきてもいいかな」 「どうぞ、私はもう少し部屋を片づけてから帰ります」 「仕事は二、三時間で終るから、七時ごろならあく。一緒に食事でもしようか」 「時間を約束すると落着かないでしょう。わたしは部屋に戻っていますから」 「仕事が終り次第、電話をする」  遠野は簡単に顔を洗うと持ってきた衣類から、グレイのスーツを選び出してネクタイを締めた。 「じゃあ、行ってくる」 「わたしは流しのあたりを整理して、バスルームを洗って、一時間くらいで帰ります」 「済まんが頼む」  遠野はそういってから、修子の額に軽く接吻をする。 「部屋の鍵は管理人さんに預けておけばいいんですね」 「いや、修が持って帰っていい」 「じゃあ、あとでお返しします」 「それは修の鍵だ、君のためにつくったのだ」  修子は慌てて首を横に振る。 「わたしはいりません」 「スペアだから、持っていたほうがいい」 「本当にいらないんです」 「とにかく、持っていてくれ」  遠野はそれだけいうと、片手を振って部屋をでていった。  そろそろ夕方だが、あたりは不気味なほど静まりかえっている。一般の家庭では夕食の支度のはじまるころだが、ワンルームマンションには、生活の匂いがない。  遠野のように夜だけ泊る人か、地方から上京したときにつかう人が多いのかもしれない。当然のことながら家族ぐるみの際《つ》き合いはなく、隣りにいる人のこともわからない。その点では気軽かもしれないが、お互い見ず知らずの人が住んでいると思うと不安である。  修子はドアの鍵を閉めてから、キッチンのまわりを濡れタオルで拭いた。長いあいだ掃除をしていなかったので、ステンレス台は染みで汚れ、一部は錆《さび》ついている。  指先に力をいれて磨きあげてから、戸棚を拭き小皿とコーヒーカップを並べる。小皿はまわりに青い縞模様が走り、コーヒーカップは臙脂《えんじ》の細かい花柄である。いずれもダンボール箱におし込まれていたところをみると、遠野の家から持ってきたものに違いない。  修子はコーヒーカップを手にとりながら、遠野の家庭を想像した。  遠野の妻は、こういう花柄が趣味なのだろうか。  修子はカップを持って窓からの陽にかざしてみた。白い硬質の地に小さな花がカップを取り巻くように並んでいる。薔薇の花でもあしらったのか、よく見るとあいだを蔦《つた》のようなものが走って、上下に揺れているように見える。  遠野には少し似合わないが、彼の妻は、こんな明るい柄が好きなのかもしれない。  それを三つほど戸棚に並べ終えたとき、入口のチャイムが鳴った。  誰なのか、遠野なら鍵を持っているから、自分で開けて入ってくるはずである。  管理人か、それとも先程の運送屋かもしれない。  修子は手を拭いてから戸口に行き、ドアを引いた。  かすかに軋《きし》む音がして、半ばほどドアが開くと、前に四十半ばの婦人が立っていた。  一瞬、修子はどこかで会ったことがあるような気がしたが、それはワンピースの柄が、いま見たコーヒーカップの花柄と似ていたからかもしれない。  婦人はやや小肥りで修子より少し背が高い。色白のおっとりとした顔立ちだが、目だけは険しい。 「あなたは、どなたで……」  いきなりきかれて、修子はいい淀んだ。 「ここは、遠野さんのお部屋ですが……」 「わかっています。遠野はいないのでしょうか」  その一言で、前に立っている婦人が遠野の妻とわかった。 「出かけてるのですね?」  修子がうなずくと、夫人はなかへ一歩入ってきた。 「あなたが、片桐修子さんですか」 「………」 「そうですね」  遠野の妻が自分の目の前に立っているということが修子にはまだ信じられない。もしかして、これは誰かが仕組んだ冗談かとも思う。  だが現実に向かい合っているのは、まぎれもなく遠野の妻と名のる女性である。  修子は眩暈《めまい》にとらわれそうな不安に駆られて拳を強く握ったが、それでも膝のあたりが小刻みに震えてくる。  修子に較べて、遠野の妻は落着いているようである。まるでここに、修子がいるのを予測でもしていたように冷ややかな表情で質《たず》ねる。 「ここで、なにをなさっているのですか?」  部屋のなかにはまだダンボールの箱などがあり、修子が前掛けをしているところを見れば、引越しのあとの片付けをしていることは明白である。それをいま初めて知ったようにきく。 「あなたは、いつもここにいらっしゃるのですか?」 「いえ……」 「でも、いるのですね」 「違います」  修子はゆっくり首を横に振ってから、つけ足した。 「遠野さんが……」 「主人が、どうかしましたか?」  遠野に呼ばれたから来たのだ、というつもりであったが、「主人……」という言葉を聞いて、修子は弁解する気力を失った。どういうわけか、遠野の妻の「主人」という言葉のいい方には、あらゆる弁明を抹殺するほどの強さがある。 「主人はどこに行っているのでしょうか」 「いま一寸、会社のほうに……」 「じゃあ、じき戻ってくるのですね」 「それは……」 「戻ってこないんですか」  瞬間、夫人の胸元の金のネックレスが鋭く光る。 「あなたはここで留守番をしてるのですか?」 「いえ……いま帰るところでした」  夫人は戸口から奥のほうを窺うと、靴を脱ぎはじめる。修子が慌ててスリッパを出そうとしたが、夫人はかまわずなかへ入っていく。 「あなたが、きれいに片付けてくださったのですね」  たしかに片付けたが、それは好んでやったのではなく、遠野に頼まれたからである。それをいいたかったが、夫人の態度には有無をいわさぬ強さがあった。 「あなたのような方がいたら、主人も安心するでしょう」 「わたしは、今日だけ……」 「他の日は、主人とは会っていないのですか?」 「………」 「あなたという人がいることは、わかっていました」  夫人は改めて、修子のほうに向き直った。 「でも、あなたはご自分のやっていることがどういうことか、ご存じでしょうね」  初め、ふくよかに見えた夫人の顔が、ベランダからの西陽を浴びて半分だけ輝いている。 「泥棒猫のように、他人のものを奪って……」 「そんな……」  突然、夫人はそういうと、手に持っていた紙袋をベッドの上に放り投げた。 「それ、主人が忘れていった下着です」 「………」 「ご存じでしょうが、あの人は放っておくと何日も着替えない人ですから」  夫人はそれだけいうとくるりと背を向け、そのまま足早に修子の脇を抜けて靴をはく。  ばたんとドアが閉まる音をきいてから、修子ははじめて目覚めたようにあたりを振り返った。  ワンルームの部屋は、夫人が現れる前と同様静まりかえり、キッチンの戸棚には花柄のコーヒーカップが三個、並んだままになっている。  修子は戸口のほうを窺い、夫人の姿がないのをたしかめてからドアの鍵をかけ、一つ大きく息をつくとソファに沈みこんだ。  もう三十分ほど、修子は両手で頭を抱えこんだまま、ソファに坐っている。  突然、遠野の妻が現れてからの数分は、まさに悪夢であった。  修子には思いがけず、しかも不可解なことばかりであった。なによりも不思議だったのは、彼女が修子の名前を知っていたことである。  日頃の夫の行動から、外に好きな女性がいることは察したにしても、名前までどうしてわかったのか。  これまで、修子は遠野の家に電話をしたことはもちろん、手紙を出したこともない。彼の家や妻とは無縁の存在だと思いこんでいた。それでも知ったとすると、密かに興信所にでも頼んだのか、あるいは一人で調べたのか。いずれにしても、名前までわかっているのなら、住所も知っているかもしれない。  そして電話も。そこまで考えて修子は小さく叫んだ。  この数カ月、しきりにくるようになった無言電話は、やはり遠野の妻からであったのか。  思わず、修子は両手で髪をかきあげた。  名前から電話番号まで知られていたとすると、自分達の行動はすべて見透《みす》かされていたことになる。そのことに不安を覚えて遠野に尋ねたこともあるが、遠野は初めから相手にしていなかった。妻との仲はとうに冷えていて、彼女は自分達のことには関心がないのだといい続けてきた。  だがその見方は甘かったようである。あるいは楽観しすぎたというべきか。  考えてみると、遠野の甘さは他にもある。たとえば、このマンションに妻は絶対に現れないと何度もいっていた。実際、修子はそれを信じて手伝いにきたのである。もし妻が現れるなら、いくら頼まれてもくることはなかった。  もちろん今回は、引越しの忘れ物を持ってくるという用事があったのかもしれない。部屋の様子からみても、遠野の妻がいつも来ていたとは思えない。  だがその用事にかこつけて、様子を見に来たのか、そして修子に会うことまで、予測していたのかもしれない。  それは会った瞬間の、夫人の意外に落着いた態度からも察することができる。たとえ妻だとしても、いきなり夫の愛人に会ったら、もう少しうろたえ、戸惑うものではないか。  しかし夫人はたじろぎもせず、まっすぐ修子を見据えた。「あなたはどなたで……」とたしかめ、「遠野はいないのでしょうか」と、落着いた口調で質ねた。  それからの夫人の一言一言は、的確に修子に命中し、傷つけた。  しかも最後の、「泥棒猫のように……」という一撃は、見事に修子の心臓を射貫《いぬ》いた。  いままで修子は、遠野を彼の妻から奪っているとは思っていなかった。遠野と親しい関係にあっても、それは自分と逢っているときだけで、それ以外のときは、自分には無縁の人だと思っていた。だがそんな理屈は、修子一人の勝手な思いこみで、肝腎の遠野の妻には通じなかったようである。  修子がなんといおうと、遠野の妻にとって、修子は敵であり、憎い女である。  実際、その思いは、彼女の言葉の端々にあふれていた。  たとえば部屋を見廻して、「あなたがきれいに片付けてくださったのですね」とつぶやき、「あなたのような方がいたら、主人も安心するでしょう」という言葉も、すべて痛烈な皮肉であった。  そして最後に、遠野が下着を着替えないことを、「あなたもご存じでしょうが……」と、決めつけてきた。たしかに遠野には、身の廻りに無頓着な子供じみたところがあり、修子もそれは充分知っていた。  だが夫人から直接、下着のことについていわれると、なにか二人の裏側まで見透かされたようなあと味の悪さが残る。夫人のいい方には、お前達のことはみんな知っている、といわんばかりの確信があふれていた。  夫人の絶え間ない言葉の攻撃に対して、修子はほとんど無抵抗であった。ただ敵の蹂躙《じゆうりん》にまかせるまま目を伏せていた。  この違いは、あらかじめ会うのを予測していた側と、不意打ちをくらった側の差であり、さらには正式に世間に認められている者と、認められていない者との差なのかもしれない。 「いやだ……」  修子はつぶやくと、再び髪をかきあげた。  こちらがいかに平和|裡《り》にと願っても、向こうが攻撃をしかけてくる以上、戦わざるをえない。穏やかに、というのは勝手な願いで、相手がそれを認めてくれなければ無意味である。  考えこむうちに、自然に涙が滲《にじ》んできた。  いまごろになって、悲しさがあふれてきたようである。  遠野の妻と会っているときは呆気《あつけ》にとられて、戦う気力もなかったが、いまようやく悲しむ余裕ができたのかもしれない。  一度出だすと涙はとめどもなくあふれ、指のあいだを伝って頬へ流れていく。涙で頬を濡らしながら、修子はいま自分がなにを悲しんでいるのか、わからなかった。  遠野の妻に会ったことが悲しいのか、彼女にさまざまな言葉の矢を射たれたことが口惜しかったのか、遠野の部屋に一人残されたことが残念だったのか。  そのすべてが悲しみの原因であるようで、そうでないような気もする。  ただ一つだけはっきりしていることは、修子の考えていたことが、相手にまったく通じていなかったことである。遠野の妻に、修子はほとんど悪意を抱いていなかったが、向こうは明確に敵意を抱いていた。無理とは知りつつ、その肝腎のところを理解してもらえなかったことが淋しい。  どれくらい泣き続けたのか、顔をあげると、ベランダからの陽はさらに傾き、その陽脚の先がベッドの上の白い紙袋にまで達している。  修子はそれを見て、ついいましがた、遠野の妻がここに現れ、その紙袋を置いていったことを改めて思い出した。  どういうわけか、まだ三十分も経っていないのに、それは遠い過去の出来事のように思われる。  修子はゆっくり立上り、鏡に向かって顔をなおした。それからベランダのカーテンを閉めると、ベッドの上の白い紙包みをそのままクローゼットに納めた。  まだキッチンのステンレス台を磨いたり、バスとトイレのタイルを洗おうと思っていたが、すでにやる気力は失っていた。  修子は再び部屋を見廻し、カーテンから洩れる夕暮れの明りのなかで静まりかえっているのをたしかめてから、部屋を出た。  築地の遠野のマンションから、世田谷の自分の部屋まで、修子は駆けてきた。  といっても、電車のなかや歩道で駆け足をしたわけではない。体は電車のシートにとどまっていても、気持は一目散に駆けているつもりであった。  部屋に着いたとき、初秋の空は茜《あかね》色に染まった西の一帯を残して暮れていた。  修子はすぐ窓を開け、新しい夜の空気を入れてから浴槽に湯を満たした。  いつもは十時か十一時を過ぎてから風呂に入るのに、今日だけは早く湯につかりたい。湯が満ちたところで体を沈め、さらに手足を洗い、髪をシャンプーするうちに、全身から、今日一日の思いが流されていく。  ほぼ一時間かけて体を清め、髪にドライヤーをかけていると電話が鳴った。  修子はドライヤーのスイッチを止め、鏡に映った自分の顔をたしかめてから受話器をとった。 「いま、戻ったのか?」 「もしもし」といわず、いきなり話しかけてくるのが遠野の癖だった。 「向こうは、何時に出たの?」 「五時過ぎです」 「あのあと、片付けてくれた?」  公衆電話からかけているらしく、遠野の声のうしろに車のざわめきがきこえる。 「いろいろとありがとう、これですっきりした」  自分が去ったあとのことを、遠野はなにも知らないようである。 「どうしたの?」 「………」 「どうかしたの、おかしいな……」  つぶやいてから、遠野がもう一度きき返した。 「電話、きこえる?」 「はい……」 「少し遅れたけど、これから食事にでも行かないか。まだ食べてないんだろう」 「………」 「よかったら、渋谷まで出てこないか」 「あまり、食べたくないんです」 「さっき一緒に食事をしようと、いったろう。先に食べたのか」  車の音と遠野の声が入り乱れる。 「おかしいな、体でも悪いのか、なにかあったの?」  修子は気持を整えるように、一つ息をついてからいった。 「奥さまが見えました」 「奥さま……」 「あなたの」  また車の音が続いてから、遠野がきき返した。 「どこへ?」 「向こうのお部屋に」  そのまましばらく沈黙があってから、遠野がつぶやいた。 「どうして……」  それは遠野より、修子がききたいことである。 「忘れた下着をお持ちになって」 「それで……」 「受け取りました」  遠野はようやく事態を呑みこんだようである。しばらく間があってから、きっぱりした口調でいった。 「いますぐそちらへ行く。そこにいてくれ」 「こないで下さい」 「なにをいうんだ、いま会社の前だけど、車を飛ばせば三十分で行ける。必ずいるんだぞ」 「いいえ……」 「とにかくいなさい、すぐ行く」 「来ても、逢いません」  鋭い車の警笛がきこえたところで、修子は自分から受話器をおいた。  遠野が部屋に来たとき、修子はソファに坐ってテレビを見ていた。  画面では、最近若者のあいだで人気がある女性歌手が歌っていたが、目だけはそれを追って、頭のなかはべつのことを考えていた。  彼がくる前に部屋から出ていこうか。そう思いながら決めかねているうちに、入口のチャイムが鳴った。  修子は一旦、戸口のほうを見てから、また画面に目を戻した。  いま遠野を入れては、これまで一人で思い悩んでいたことが無駄になる。このままもう少しじっくり考えてみるべきである。ここで邪魔されたくないと思いながら、一方では、いっそ遠野に、今日の一部始終をぶちまけたいという気持もある。前者は自分との戦いであり、後者には遠野への甘えが潜んでいるようである。  どちらを採《と》るべきか、迷ううちにさらにチャイムが鳴り、どんどんと激しくドアを叩きだす。  修子は立上り、跫音《あしおと》を潜めるようにドアに近付いて覗き穴から見ると、遠野がすぐ目の前に立って、「開けろ」と叫んでいる。  このままでは、まわりの部屋の人々にも迷惑をかけそうである。  仕方なく修子が鍵を外してドアを開けると、途端に遠野が前のめりになって飛びこんできた。 「なぜ、開けないんだ」  余程急いできたのか、息を弾ませて修子を睨む。  ドアを開けるのを躊躇《ちゆうちよ》した理由はいろいろあるが、それはいまいったところで無駄である。  遠野は部屋に入るとソファに坐り、一つ大きな息をついた。 「灰皿は?」  修子が食卓テーブルから取って差し出すと、遠野は気持を静めるように煙草を喫う。 「晩飯はまだだろう」 「………」 「食べに行こう」 「食べたくありません」 「食べに行く約束だったろう」  遠野はいきなり煙草を揉《も》み消すと、立上った。 「そのままでいいから、出かけよう」  修子が答えずベランダを見ていると、遠野が近づいてきた。 「本当に、会ったのか?」 「………」 「うちのが、きたのか?」  修子がゆっくりうなずくと、遠野は戸惑ったように額に手を当てた。  すでに外は完全に暮れ、見下す家々に明りが灯されている。 「まさか、来るとは思わなかった」 「………」 「それで、なにか話したのか」  正直なところ、修子はもう、遠野の妻のことは思い出したくない。 「いってくれ」 「わたしの名前を、知っていました」 「修の名前を?」  修子がうなずくと、遠野がきき返した。 「どうして?」  そんなことまで、修子が知るわけはない。 「それだけか?」 「他にも……」 「どんなこと?」  せっかく忘れようとしているのに、細々とききだそうとする神経が、修子にはわからない。 「きちんと話してくれなければ、わからない」 「わからなくて、結構です」  修子の強い口調に、遠野は怯《ひる》んだようだが、やがて思い直したようにいった。 「気にしなくていい、彼女は少しおかしいんだ」 「おかしくなんか、ありません」  好き嫌いは別として、遠野の妻のいっていることは当然でもあった。 「ゆっくり話せば、わかることだ」 「そうでしょうか」 「まあ、落着きなさい」  落着きがないのは、むしろ遠野のほうである。再び煙草に火をつけ、数回小刻みに喫ってから修子の肩に手を当てた。 「とにかく、食事に行こう。久しぶりに“テラス”に行ってみようか」  多摩川のほとりに、川を見下せる小綺麗なフランス料理の店がある。 「つまらぬことは忘れて、飲もう」 「待って下さい」  修子は自分から、肩にのっている遠野の手を除《の》けた。 「今日は、一人にして下さい」  このまま食事をすれば、水に流せると遠野は思っているのかもしれないが、修子には、そんな簡単に割りきれることではない。 「お願いですから……」 「駄目だ」  遠野は修子を睨みつけると、突然、両手で抱きしめた。 「いやよ」  叫んだ瞬間、修子は激しい平手打ちを頬にくらってよろめいた。  愛があるから暴力が生れるのか、あるいは、暴力でしか表現できない愛があるのか。それからあとの遠野の行為は、まさに獣そのものであった。  初め修子はそれを憎み、必死に抵抗した。強引にベッドまで運びこまれてからも、修子は全身をばたつかせ、伸びた爪の先で遠野の腕といわず顔といわず引っかいた。  だがどこにそんな力が潜んでいたかと思うほど、遠野は微動だもしない。  ベッドに仰向けに倒されて両の胸を締めつけられたとき、修子はこのまま息絶えるかと思った。一時は首まで締められて、意識が遠くなったような気もした。  だがその苦しさのなかでも、修子はなお遠野を憎んでいた。  これは愛とは無縁のただの暴力である。女だからといって抱き締めればいいというわけではない。そんな暴力で誤魔化そうと思っても、誤魔化されるものではない。  しかし遠野の力が緩《ゆる》まる気配はまったくない。いまここで怯んでは、これまでの努力が水の泡になるとばかりに迫ってくる。  結局、修子は暴力というより、その気迫に負けたようである。  打たれた頬の熱さと息詰る苦しさのなかで、それほど欲しいのなら奪えばいい、という投げやりな気持が芽生え、それとともに急速に逆らう力を失った。  にわかに従順になった女体に、遠野は一瞬、戸惑ったようである。これは本物の従順なのか、それとも男をあざむく手段なのかを見定めかねながら、修子の体を開いていく。  いつもの遠野は優しく、前戯に充分の時間をかけ、それとともに修子は自然に潤ってくる。それに較べたら今夜の遠野は別人であった。強引というより、まさに暴行に等しい荒々しさである。  だが修子の女体は少し潤っていたようである。  暴力という緊張がかえって刺戟になったのか、それとも組敷かれるうちに、いままで馴染んできた感触が甦《よみがえ》ったのか。  遠野が入ってきてからの修子は、半ば自分で半ば自分ではなかった。  意識のなかでは、身勝手に奪う遠野を憎んでいながら、体は徐々に男の動きに従っていく。  こんな反応を見て、男は女に自信を抱くのかもしれない。  とやかくいっても抱いてしまえばそれまでで、女は体の誘惑に負けて最後は大人しくなる。それは単なる男の思いあがりでなく、女のある一面を表しているようである。  かなり激しい喧嘩のあとでも、一度の抱擁でそれまでのわだかまりが霧消することはある。実際、修子は遠野とのあいだで、そんなことを何度か体験している。  だが抱き締めて結ばれさえしたら、すべて解消するというわけではない。  抱擁で消えるいさかいもあれば、それでも消えぬ争いもある。ときにはその強引さが、かえって男と女を離す引金になることもある。  今夜受けた暴力は、どちらに働くのか。ベッドに打ちのめされ、強引に奪われたあとも、修子はまだ自分で自分がわからない。  ただ一つはっきりしていることは、いきなり頬を打たれて、やみくもに奪われたという事実だけである。途中、体のほうから馴染みはしたが、それはごくわずかで、やはり一方的に奪われたという印象は強い。  逡巡している修子に気が付いたように、遠野が耳元で囁く。 「好きだぞ……」  くすぐったさを交えて、その声はいましがた狼藉《ろうぜき》を働いた男の声とは思えぬほど、優しさに満ちている。 「もう、離さない、絶対に……」  途中から、遠野の声はかき口説く女の声のように弱々しい。  いつもなら、これほどの優しさを与えられたら、修子のほうから自然に寄り添っていくはずである。だが今夜の修子は相変らず仰向けの姿勢のまま無言である。体はともかく、心は男の優しさを受け入れるほどほぐれてはいない。 「おい……」  返事のないのに苛立ったのか、遠野は横向きになって再び修子を抱き寄せる。 「愛しているんだ」 「………」 「誰よりも、お前を一番……」  修子はそれをききながら、一番がいるのなら、二番、三番もいるのかと考え、すぐその自分の冷ややかさに気がついて驚く。 「わかったろう」  返事のない修子にかわって、遠野は自分でうなずいている。 「寒くないか?」  さきほどの暴力に、遠野は後悔しているようである。少しやり過ぎたと思って照れているのかもしれない。やがて遠野の唇が近づき、軽く横向きの修子の耳元に触れる。いつもは感じる心地よさが、今夜はまだくすぐったさのままとどまっている。 「風邪をひく……」  遠野がシーツを引き寄せ、裸の肩口にかけてくれるが、修子の頭はすでに醒めている。  何時なのか、部屋に帰ってきたのが六時半で、遠野が駆けつけてきたのが八時過ぎだから、もう九時は過ぎているかもしれない。  遠くで雷鳴のような音がし、近くでベランダを閉める音がする。  引越しが終るころから雨雲が広がっていたから、雨になったのかもしれない。  淡い闇のなかで、修子はゆっくりとあたりを見廻した。  ベッドの足元にブラウスとスカートが重なり合い、枕元にブラジャーが散っている。修子が身につけているのはスリップだけで、それも右の肩紐がはずれ、お腹のあたりでひとかたまりになっている。  修子は急に恥ずかしさを覚えて上体を起こした。 「起きるのか?」 「………」 「お腹が減った?」  男が無理矢理犯したあと、女は裸のままで横たわっている。その女に空腹か、ときくのは少し滑稽ではないか。だが遠野はその滑稽さに気が付いていないようである。 「寿司屋なら、まだやっている」  たしかにこのままベッドにいるより、起きて外へ出かけたほうがすっきりするかもしれない。  修子はブラジャーを手にすると、まわりに散った衣類を集めた。 「十分くらいで、準備はできるだろう」  遠野はもう出かけると決めたようである。  修子はバスルームに行って鏡を見た。抱かれる前に打たれた頬に痛みはないが、軽く火照《ほて》っている。他に首や肩などを強く締めつけられたが、とくに傷はない。右の手首と左の膝の内側が少し痛いが、たいしたことはなさそうである。  外見で見るかぎり争ったあとはないが、体の奥や心には争いの余韻が残っている。  改めて髪を直し、ルージュを引いていると、遠野が覗きにきた。 「もう、いいかな」  すでに、遠野はネクタイを締めてジャケットを着ている。 「遅くまでやっているところを思い出した」  遠野は赤坂のホテルの最上階にあるレストランの名前をいう。 「いま、車を呼ぶ」 「近くでいいわ」 「夜だから、乗ってしまえばすぐだ」  償いのつもりで、高級なレストランへ連れて行こうとしているのかもしれないが、そんなところで、暴力で奪った女とどんな会話をしようというのか。 「少し、雨が降っている」  迷いながら修子はベージュのオーガンディーのスーツを着て、ゴールドのシンプルなチェーンをつける。なにか思いっきりお洒落《しやれ》をしたいと思いながら、一方でひどく自堕落《じだらく》な恰好をしたいとも思う。  曖昧な気分のまま、準備ができたところで遠野と一緒に部屋を出る。知らない人が見たら、お忍びの男女が夜の街へ出かけるところと思うかもしれない。  だが二人は無言のまま、マンションを出て車に乗る。  夜になって降り出した雨は次第に強まり、私鉄の駅に近いネオンが二重になっている。  その揺れるネオンを見ていると、遠野がそっと指をからめてきた。  強くてたしかな指がしっかりと修子の指を握る。  男はこれで解決したと思っているようだが、修子のこだわりはまだ消えていない。  秋  色  結婚披露宴は、結婚する本人達にとっては一世一代の晴舞台だが、出席するものにとってはいささか気の重いこともある。  新しい人生のスタートを切る二人を祝福するにやぶさかではないが、多くの場合、休日の貴重な時間をさき、かなりの出費も覚悟しなければならない。以前は会費制のつましいものが多かったが、最近は年ごとに豪華になり、都内の一流ホテルともなると二、三万はつつまなければならない。これが、秋の結婚シーズンのように集中してくると、結婚式のおかげで家計が逼迫《ひつぱく》するということも生じてくる。  くわえて修子のような独身者は、披露宴に出席する度に人々の好奇の目にさらされる。 「まだ、お一人なの?」「どうして結婚なさらないの?」「今度は修子さんの番ね」といった質問を、笑顔ではぐらかしているだけでも疲れてしまう。  そんなせいもあって、このところ修子はできるだけ披露宴への出席を避けてきた。  だが今度の安部眞佐子の結婚式だけは、そんなことをいっていられない。  絵里と眞佐子と修子の三人は、学生時代からの仲間で、大学を卒業したあとも際《つ》き合ってきた。とくに眞佐子は三十を越えた今日まで、数少ない独身の友達として親しかった。  はっきりいって、眞佐子とは生き方や考え方は大分違う。男性関係も、遠野という年上の恋人がいる修子にくらべて、眞佐子には男の影はほとんどない。恋愛について話をしても、堅い一方の眞佐子よりは、絵里とのほうが意見が合う。  だが女友達の場合、ものの考え方よりライフスタイルが近いほうが親しみが増すことが多い。  その意味で、眞佐子は得難い友達であった。  みなで集っても、横にもう一人独身の眞佐子がいるかぎり、修子は一人ぼっちで取り残されることはない。他の披露宴に出たときでも、眞佐子がいてくれると独身者が二人になり、人々の好奇心も半減される。  その最も大切な親友の眞佐子が、いよいよ結婚してしまう。  彼女が婚約したことを絵里からきかされたとき、修子は冗談だと思った。眞佐子だけはまだまだ独身でいるものと思いこんでいただけに、裏切られたような気さえした。  だがここまできては諦めるよりない。眞佐子が結婚したら、親しい仲間うちでの独身者は自分と絵里だけになる。  今朝目覚めたとき、修子はそのことを思い出して少し心細くなった。  眞佐子の披露宴は四谷に近いホテルでおこなわれた。  十月半ばの休日と大安、それに秋晴れが重なって、まさに絶好の結婚式日和である。  修子は正午すぎから美容院へ行き、髪を整えてから出かける準備をした。  着ていくものは、三日前からシャネルの渋い茶のスーツと決めていた。一年前、遠野に買ってもらったものだが、会社に着ていくとたちまち女子社員達に見付かって、羨ましがられた。  たしかにそれ一着で三十万近くしたのだから、一般のOLが簡単に買える服ではない。おそらくこれまで遠野がくれたプレゼントのなかでも、高いほうである。  もっとも修子はとくにおねだりして買ってもらったわけではない。ただ欲しいと思って眺めていると、「プレゼントしようか?」といってくれたのである。  遠野はときどき思い出したように豪華なものを買ってくれる。それはまさに衝動的としかいいようがないが、思いがけないだけに喜びも大きい。  修子が遠野から受けているのは、そうした贈りものだけで、生活費や部屋代などの援助は一切受けていない。  女が愛を捧げてきた代償として、それは高いのか安いのか、修子にはわからない。  ただ前に一度、絵里が、「あなたは彼にいろいろ尽しているのだから、きちんと毎月、決ったお金をもらうべきよ」といったことがある。  しかし修子は初めから、金銭的な援助を受ける気はなかった。  男性から決った額を受け取っては、二人のあいだが、与える人と受けとる人の関係になってしまう。悪く勘ぐれば、彼からお金をもらい、その代償として愛を捧げている、ということになりかねない。  五年間、修子は遠野を愛してきたが、かわりに経済的援助を欲しいと思ったことはない。これまで遠野に従《つ》いてきたのは、彼が好きだからで、金銭とは無縁である。むろんときたま素敵なプレゼントをもらったが、それは遠野の自発的な行為で、修子から要求したものではない。 「彼に尽しているのだから……」といわれても、それは修子が勝手にしていることで、誰に強制されたわけでもない。むろん遠野も、そのお礼のために買ってくれたわけではない。  いま修子はその遠野からプレゼントされた服を着て、鏡のなかを覗いている。  濃い渋茶色が秋の深さを思わせ、ダブル型に並んだ金のボタンが、地の単調さを救っている。  修子はそのスーツの左胸にシルバーの葉形の上にパールが三個並んだブローチをつけて、横を向く。  買ったのは一年前だがさすがに仕立てがしっかりしていて型が崩れず、ウエストと背のラインがとくに美しい。これなら花嫁よりは地味で、しかも華やかさもそなえている。  修子は鏡の中の自分にうなずいてから、もう一週間、遠野と逢っていないことを思い出した。  三光電器のイベントの打合わせで、遠野は四日前から大阪へ出張している。  出かける前に逢いたいといってきたが、修子は体調が悪いことを理由に断った。事実、生理が終りかけていたのだが、断ったのは、その理由からだけでもない。  一カ月前に遠野の妻と会ってから、修子の気持は遠野から一歩退いていた。そのことで彼を嫌いになったとか、愛が醒めたというわけではないが、二人のあいだに、水をさされた感じは否《いな》めない。  眞佐子の結婚披露宴は賑やかで豪華であった。  新郎がすでに開業している歯科医であるうえに、新郎の父親が歯科医師会の役員もしているところから、招待客は三百名を越えている。しかも新郎が四十歳というせいもあってか、年配の人達が多く、修子達は若いほうである。  仲人の挨拶から来賓の祝辞、テーブルスピーチと、代議士もまじえて、社会的地位のありそうな人が続々と登場する。さらにウエディングケーキは三メートル近くもあり、それを切ったあと横においてある酒樽を二人で割る。  男性のほうは再婚ということで地味にやるのかと思ったが、その逆で、再婚だからじめじめせず派手に、ということになったようである。  眞佐子の夫になる人は中肉中背で、額は少し禿《は》げあがっているが、眞佐子を余程、気に入っているらしく、絶えず彼女のほうを気遣いながら、なにをいわれても笑っている。  出席者の大半が、新郎についてはよく知っているだけに、宴の主賓はなんといっても眞佐子である。彼女が打掛けからウエディングドレス、さらにイブニングドレスと衣裳を替えるたびに、大きな歓声と拍手がおこる。  当の眞佐子は初めこそ緊張していたようだが、「わたしも新郎にあやかって、再婚したい……」というテーブルスピーチのころからは笑顔も見せ、幸せ一杯の様子である。  やがて新婦の友人代表として、絵里が指名される。  テレビのディレクターだけに絵里は堂々として、眞佐子の初心《うぶ》さを披露し、「この初心な女を妻と同時に母にした男は、生涯その責任をとらなければならない」といって、満場の拍手を浴びる。  絵里が席に戻ってくると、まわりの人達は親しみを覚えたらしく、絵里と修子に、「あなた達は独身ですか」ときいてくる。  二人がうなずくと、男性達は次々と寄ってきてお酒を注ぎ、握手を求めてくる。  そのうち新郎の一人っ子の四歳の少女が、新郎と新婦とのあいだにはさまって坐り、そこでまた会場がわく。さらに眞佐子がこの子を抱いて、夫と三人並んで立つが、すでに子供は馴れているらしく、眞佐子の母親姿も板についている。  宴は五時からはじまったが、七時を過ぎても終る気配はなく、八時になってようやく新郎の父親の挨拶がはじまった。  出口に近い一段高いところで、両方の親が並び、修子は久しぶりに眞佐子の父親を見た。  上背のある、いかにも東北人らしい実直そうな父親の横に、小柄な眞佐子の母が立っている。スポットライトを浴びて緊張しているようだが、母親の表情には、ようやく娘を嫁がした安堵がうかがえる。  修子はそれを見ながら、田舎にいる母を思い出す。  もし自分も結婚すれば、母はあのような満足そうな笑顔を見せるだろうか。  考えているうちに挨拶が終り、長かった宴も幕となる。  このあと同じホテルの別室で、新郎新婦をまじえて親しい仲間だけで二次会がおこなわれる。  修子と絵里がその会場へ行って待っていると、パーティドレスに着替えた眞佐子が現れた。 「おめでとう、とっても素敵な披露宴だったわ」  二人が次々に握手をすると、眞佐子は「ありがとう」をくり返しながら声をつまらせる。二人の親友に祝福されて、結婚式の感激が一気にこみあげてきたらしい。 「あのご主人なら、大丈夫よ」「きっと幸せになれるわ」  三人で話していると、新郎もくわわって座はますます賑やかになる。  当然のことながら、新郎と新婦はもみくちゃにされ、それを見届けて修子と絵里は二次会の会場を出た。  宴のあとは、常に侘《わび》しさが残る。  もっとも、それは今日結ばれた新郎と新婦には無縁で、修子と絵里だけの問題かもしれない。  二人はそのままホテルの最上階にあるバーに行ってカウンターに坐った。 「ご苦労さま」  ともにジンフィズのグラスを持って乾盃すると、修子は軽い疲れを覚えた。 「ついに眞佐子もいってしまったわ」  修子がつぶやくと、絵里がかすかに笑った。 「淋しい?」 「そうねえ……」 「でも、わたしがいるでしょう」  たしかに絵里はいま独身だが、すでに一度結婚して子供までもうけている。同じ独身といっても、修子とは事情が違う。 「あんなのを見ると、修子もお嫁にゆきたくなる?」  そうストレートにきかれると答えにくいが、友人の結婚式の度に心が揺れることはたしかである。 「でも、眞佐子もこれからが大変よ。今日は、一生で一度のお祭りだからいいけれど」  たしかに結婚よりは、結婚してからのほうが問題かもしれないが、一生で一度のお祭りさえ経験していない女には、結婚式はやはり眩しく映る。 「でも、あなたは一度しているからいいわ」 「結婚しても、別れるんじゃ意味がないでしょう」  絵里は結婚に一度失敗しているだけに自嘲気味にいう。 「しかし、男の人はいいなあ、子供がいても平気で再婚できるんだから」  そういえば、絵里はいま再婚話が暗礁にのりあげているだけに、かえって辛かったのかもしれない。 「やっぱり一人がいいよ、そのほうが気楽で暢気《のんき》だし」  絵里は煙草に火をつけると、ボトルが並んでいる正面の棚に向かって煙を吐く。 「結局、みんな一人になるんだもん」 「………」 「それとも、修子も一度、してみる」  絵里はまるでスポーツでもするように、簡単にいう。  修子は苦笑しながら、先日、社長が見せてくれた見合いの相手の写真を思い出した。上背もあって顔も優しそうだが、なにかもの足りない。 「結婚なんて、ダンピングしたらいつでもできるわよ」 「ダンピング?」 「そう、安売りよ」  修子はグラスを見ながら、遠野を思った。  この数年、結婚のことを考える度に遠野が前に立ちふさがってきた。とやかくいっても彼がいるかぎりつまらぬ結婚にとびつくこともない。そう思い、自分にもいいきかせてきたが、今日は少し揺れている。 「修子、彼となにかあったの?」 「どうして?」 「なんとなく、元気がないから」  修子は答えず氷が輝くグラスの底を眺める。  そのまま黙りこんでいると、十人近い客が入ってきてなか程の席に坐る。いずれも同じ紙袋を持っているところを見ると、やはり披露宴からの帰りなのかもしれない。三十前後の男性の中に若い女性がまじって、陽気な笑いがおきる。  修子がなに気なくそちらを見ていると、絵里が思い出したようにいう。 「あなた、そのスーツ、とっても似合うわ」 「絵里に褒《ほ》めてもらえるなんて、光栄だわ」 「新婦の眞佐子より、ずっと素敵だった」 「眞佐子はウエディングドレスだから、比較にならないわ」 「修子にも、一度、ウエディングドレスを着せてみたいなあ」 「じゃあ今度、貸衣裳屋さんにいって着てみましょうか」  修子が冗談まじりにいうと、絵里は真顔でうなずく。 「最近は、あれを着たくて結婚する若い女性が多いらしいわよ」 「ウエディングドレスのために結婚するの?」 「それを着て式を挙げて、ケーキを切って、メインテーブルに坐って、みなからお祝いの言葉をもらって、そんな素敵なことってないでしょう」 「でも、相手の男の人への愛情はどうなるの?」 「それは、あとで考えるのよ」  たしかに花嫁姿は女の夢ではあるが、それだけに憧れて結婚するなぞ修子には考えられない。 「そんな結婚で、長続きするのかしら」 「危なっかしいけど、でも結婚ってわからないからなあ。熱烈な恋愛の結果一緒になったペアがすぐ別れたり、あまり気のりしない見合結婚なのに案外うまくいくこともあるし。一緒に生活するってのは、また別のことだから」  たしかに、そのあたりの男女の機微は修子にも察しはつく。 「要するに、相性ね」 「それが一つ崩れだすとずるずると傷が広がって、気が付くと取り返しがつかなくなるのよ」  そういうと絵里はカウンターに頬杖をつく。 「とにかく女も仕事をしていると難しいわ」 「でも、最近は理解のある男性が多いでしょう」 「理解があるといっても、男はやっぱり我儘だし、女も収入が多くなるとだんだん生意気になるから」  絵里の夫は同じ局のサラリーマンだったが、別れたころは彼女のほうが収入が多かったらしい。 「このごろ、家庭をもっていて仕事もばりばりやる女性が素敵、という感じってあるでしょう」 「それができたら理想だけど……」 「でも、ああいうの危険だと思わない? 表面は恰好よさそうでも、裏では揉めていたり家庭内離婚のようなケースが多いのよ」 「やはり、女は家庭に戻れってこと?」 「でも一度社会に出て、禁断の木の実を食べてしまったら、家庭に戻れといわれても難しいわ」  絵里の場合は迷った末に、禁断の木の実を食べるほうを選んだことになる。 「修子だって、家にいて夫にかしずくだけの生活なんて、いやでしょう」 「そんな目に会ったことがないからわからないけど、本当に好きな人となら、案外、いられるような気もするけど」 「一時的には可能かもしれないけど、じき退屈するわよ」  修子は遠野との生活を考えてみるが、彼に家を守ってくれといわれたら、案外素直にいられそうな気もする。 「世間の奥さま族は、みなそうしているのでしょう」 「それで満足できる人はいいけど、疑問をもっている人も結構、多いと思うなあ」 「でも、家にだけいるのって楽でしょう」 「そこなの、主婦はそれに甘えて堕落してしまうんだわ」  家庭に閉じこもることを、絵里は簡単に堕落というが、修子には、それなりの充実感もあるように思える。 「家庭にいていい悪いは、人それぞれじゃないかなあ」 「でも男の人に従《つ》いていくには、やはり尊敬できる部分がないと難しいわね」  たしかに離婚するころ、絵里は夫を尊敬できなくなったといっていた。 「修子は、あの人を尊敬できるでしょう」  あの人とは、遠野のことをさしているようである。 「尊敬できなければ、これまで際《つ》き合ってこられないわよね」  はたしていま、遠野を尊敬しているのかときかれたら答えにくいが、彼が自分とはべつの能力を持っていることだけはたしかである。 「考えてみると、あなた達のような関係が理想かもしれないわね」 「そうかなあ……」 「だって、お互い好きなときに逢って、家庭に縛られてないから新鮮でしょう」  修子は遠野の妻の顔を思い出したが、彼のマンションで会ったことまではいう気になれない。 「たしかに、なんでも結婚すればいい、ってわけでもないわね」 「………」 「あなたのようないい女は、さすがといわれるような、いい男とするべきよ」 「わたし、そんなにいい女じゃないわ」 「そんなことはない、あなたは綺麗だし仕事はできるし、頭もいいし……」 「今日はどうしたの、そんなに褒めて」 「修子がつまらない結婚をしないように、ブレーキをかけとくの」 「どうぞ、ご安心を。わたしはまだまだいたしませんから。第一、する相手もいないし」 「いるわよ、あなたがその気になったら、沢山いるわ」 「慰めて下さって、ありがとう」 「素直じゃ、ないんだから」  先程の若者の席から、再び賑やかな笑いがおこる。男達と一緒の女性達は二十二、三であろうか、そのころは修子もなんの迷いもなかった。 「わたしはもう、結婚なんかに拘泥《こだわ》らないわ」  絵里はウイスキーを飲み干すと、きっぱりした口調でいった。 「一人のほうが、ずっと気楽よ」  好きな男性と結婚できないことで、絵里は開き直ったようである。 「無理して結婚という保険に入ることもないわ」 「でも結婚してると、年齢《とし》をとって孤独になったり、病気にかかったときにも安心でしょう」 「だから、老後が心配な人は入ったらいいし、わたしは一人でも淋しくない、一人のほうがむしろさっぱりしていいと思う人は、結婚する必要はないわ」 「わたし達のような立場は、保険にならないわけね」 「愛人というのは保険といっても短期保障で、老後までって感じじゃないわね」 「フランスのメトレスもそうかなあ」 「向こうのほうは、もっとドライな感じがするわ」 「それで、慣れているのね」 「日本の結婚保険もピンからキリまでで、結婚していても病気になったら入院するよりないし、最後はどちらか一人になってしまうから、結局は同じよ」  たしかに修子の母も父と別れたまま一人で暮らしてきた。 「それでも、結婚してるほうが安心でしょう」 「一般的にはそうだけど、この保険、一度入ったら夫婦という枠に縛られて自由がきかないし、解約は難しいし、いろいろ問題はあるのよ」  絵里のいい方がおかしくて、修子は苦笑する。 「どこかに、もっといい保険はないかしら」 「無理に結婚という保険に入らなくても、老後を保障する方法はいろいろあるでしょう。たとえばお金を貯めておくとか……」 「やっぱり子供がいるのは強いわね」 「子供がいても、彼等が寄ってくるのはお金が欲しいときだけで、親が思う半分も子は思ってくれないものよ」 「あなた、いまからそんな醒めた目で、子供を見ているの?」 「この前、老人の日の特集番組をつくったら、老人ホームにいるお年寄のほとんどは子供がいるのよ。それなのに子供達は面会にこないんだから」 「全部が全部、そうでもないでしょう」 「子供なんか、いてもいなくても孤独は同じよ。むしろ子供に囲まれたときのほうが孤独を感じるって人もいたわ」 「世代が違うと考え方はもちろん、食べものも趣味も、みんな違ってしまうから」 「年齢をとったとき一番必要なのは、同じ年齢ごろのわかり合える友達よ」 「うちの母も、たまに東京に出てきても、すぐ古い友達のいる田舎のほうがいいって、帰って行くわ」 「年齢をとればとるほど、お婆さんが多くなるから」 「じゃあ、わたし達もお婆さんになっても、会うのかな」 「お互いに腰を曲げて、杖をついて、そのときは眞佐子もくるわよ」 「なんか、暗い話になったわね」  二人は顔を見合わせて笑ったが、結婚式の帰りにこんな話をするのも、三十半ばが近づいた年齢のせいかもしれない。  絵里と別れて、修子が部屋に戻ると十一時だった。披露宴のあとの二次会の会場を出たのが九時だったから、それから一時間少し、絵里と話していたことになる。  部屋に戻ると、修子はシャネルのスーツを普段着に着替え、サイドボードの棚からブランディのボトルを取り出してクリスタルのグラスに注いだ。  クリスタル製品でいま一つ欲しいのはデカンタだが、そこまではまだ手が廻らない。それでもクリスタルの宝石入れを眺めながら、クリスタルのグラスでブランディを飲んでいると、少し贅沢《ぜいたく》な気分になる。  そのままFENから流れるロックを聴くうちに、酔いが廻ってきた。  ホテルのバーで三杯ほど飲んで、いままた一杯だから、修子としてはかなりの量である。  どうしてこんなに飲もうとするのか、自分でも不思議だが、今夜は少し気持が高ぶっているようである。さらにもう一杯、ブランディを注いで氷をくわえていると、電話が鳴った。 「だあれ、いまごろ……」  つぶやきながら受話器をとると、遠野からだった。 「いま、帰ってきたのか?」 「もう少し前よ」 「三十分前に、一度、電話をした」  修子は遠野が大阪に行っているのを知りながら尋ねた。 「いま、どこですか」 「大阪だけど、明日の夕方には帰るから逢おう」 「駄目よ」  自分でも思いがけず、修子はきっぱりという。 「どうしてだ」 「どうしても……」 「きちんと、理由をいえ」 「保険にならない人とは、逢わないことにしたの」 「ホケン?」 「さっき絵里と話していて、はっきりしない人は駄目だって」 「どういう意味だ?」  遠野はよくわからないようだが、電話で説明するのも億劫《おつくう》である。 「とにかく、明日の夜、あけておいてくれ」 「あけられません」 「酔っているのか?」  修子は普通に喋っているつもりだが、少し調子にのりすぎているかもしれない。 「どうして、酔ったんだ」 「いろいろな男に注がれたの……」  呆《あき》れたのか、受話器からかすかな溜息が洩れる。 「今日は結婚式だな」 「彼女、とても綺麗だったわ」 「相手は大分、年上なのだろう」 「あなたほどではないわ」 「………」 「わたしもお嫁に行こうかなあ」  軽い冗談のつもりだが、遠野にはショックだったのかもしれない。 「とにかく明日逢おう。重大な話があるんだ」 「また、重大なお話?」 「茶化すんじゃない」  短い沈黙があってから、遠野が思い直したようにいった。 「こちらにきて、ずっと修のことを考えていた。このままでは、いかんと思っている」  修子は答えず、受話器のコードを延ばしてソファに坐る。 「大阪へくる前、またワイフと喧嘩になった。今度は子供もいたし……きいているのか?」 「はい」 「彼女は完全におかしい、いくら話してもわかろうとしない。今度こそ、家を出る」 「保険をやめるの?」 「なんのことだ?」 「いえ、こちらの話です」 「修が側にいてくれなければ、俺は仕事ができない。俺がどれくらい好きか、知っているか」  遠野の妻に会う前なら素直にきけた言葉が、いまの修子にはかえって空々しく響く。 「修が、一番好きだよ」  遠野がなんといおうと、修子の脳裏から、遠野の妻の顔は消えない。 「明日、逢ってよく話す」 「話しても、無駄よ」  修子は他人ごとのようにいうと、自分から受話器をおいた。  その日、一日、修子はよく働いた。  朝、九時前に会社に着いて、社長室とそれに続く応接室を清め、昨夜から朝にかけて入ったファックスとテレックスをまとめた。部屋の掃除は、清掃会社に依頼してあるが、机や窓ぎわの埃や調度の汚れは、修子が直接、乾布巾《からぶきん》で拭かなければならない。  十時過ぎに社長が出社してからは来客が三組あり、その一組はイギリス人で、修子が同席して通訳をした。午後は浦安にできた倉庫の開所式に社長と一緒に出掛け、そのあと外人もくわわったパーティに出席してから、修子一人会社へ戻った。そこで至急、ニューヨークの支社へ出す手紙をつくってタイプで打った。  秘書という仕事は、表面は華やかそうにみえるが、実際は雑役係みたいなところがある。  今日一日の仕事を見ても、掃除から客の接待、通訳、スケジュール作成、英文書類の翻訳、分類、手紙の代筆、タイプ、ワープロの操作から電話の取次、社長の衣服の世話まで、数えあげたらきりがない。これを上手にこなすには、相当の体力が必要で、少し体調が悪かったり心配ごとがあると、態度や表情に表れ、来客にまで悪い印象を与えかねない。  修子はとくべつ秘書としての専門の教育を受けたわけではないが、相手に不快な印象を与えることだけは避けるようにつとめてきた。  当然のことながら、自分の部屋を出て一歩会社へ向かったら、気持を完全に仕事のほうへ切り換えなければならない。  これまで、修子は自分では、気持の揺れの少ないほうだと思っていた。女性によっては、機嫌のいい日と悪い日の差がありすぎる人もいるが、秘書がそれを表に出しては失格である。  だがそうはいっても、私生活と会社での生活を完全に切り離すのは難しい。  この前、遠野の妻と会ったあとは、仕事をしていてもときどき彼女の顔がちらついたし、眞佐子の婚約をきいたときには、しばらくそのことが頭から離れなかった。  忙しくて仕事に追われているときは、個人的なことも忘れがちだが、暇ができるとかえって思い出す。  そういう意味では、忙しいほうが雑念にとらわれず、仕事に集中できるともいえる。  その日、社長に頼まれた手紙をタイプで打ち終えて一息ついたとき、修子はごく自然に遠野のことを思いだした。  昨夜の電話では、今日夕方、東京に戻ってから食事をすることになっていた。例によって、重大な話があるといっていたが、また妻とのいざこざをきかされるだけかもしれない。  どういうわけか遠野はこのごろ、妻とのトラブルを逐一、修子に教えてくれる。とくにこちらでききたがっているわけでもないのに、子供達が妻に味方している、といったことまで話しだす。  もしかすると、妻との不和を告げたほうが、修子が安心するとでも思っているのか。あるいは話しながら同意を求めているのか。いずれにしてもそんな話はあまりききたくない。  修子が手紙を封筒に入れて時計を見ると五時で、退社の時間であった。  日が短くなり、早くも明りのつきはじめたビルの窓を眺めているうちに、修子はふと、要介のことを思い出した。  要介とは一カ月前、気まずい別れ方をして以来、逢っていなかった。その後、彼からは詫びの電話が入り、そのあとさらにジャズのコンサートに誘われたが、修子は断った。  要介は単純に、修子がまだ怒っていると思ったようである。  たしかにその当座は、要介に失望し、許せないと思っていたが、日が経つにつれて落着いて要介の気持を考えられるようになり、それとともに自分にも反省すべきところがあったことに気がついた。  なによりも、気まずいことになった最大の原因は、酔っている要介を女一人の部屋に入れたことである。初めから誘わなければ、要介もあんな醜態を見せることはなかったはずである。  もっとも、修子としても、まさか要介があんな大胆なことをするとは思わなかった。「お茶を一杯」といったとおり、一杯だけ飲んで帰るのだと簡単に思いこんでいた。もちろん要介のほうも、初めは女性一人の部屋を覗いてみたいと思っただけなのかもしれない。それが途中から自分を抑えきれなくなり、暴力をふるってしまった。  その意味では修子も要介も被害者であり、加害者であるともいえる。  修子は手帖を開いて、要介の会社の番号をたしかめた。  いま五時になったばかりだから、まだ会社にいるかもしれない。いつも忙しいといっているから、すぐ帰るわけはないだろう。  プッシュホンのボタンを押しながら、要介に電話をしている自分がわからなくなった。  今日、要介に逢うつもりなぞ初めからなかったのに、急にかける気になったのは、遠野からの電話を避けるためかもしれない。もし向こうからかかってきたら、先に約束があるというために、要介を探してみる。  いつもそうだが、要介は、修子が困ったり、淋しくなったときにだけ呼び出される。いわば、ピンチヒッターのようなものである。そのあたりのことを、要介は知っているのかいないのか。いずれにせよ、自分のいうままになってくれる男性を一人持っていることは、幸せというか女|冥利《みようり》に尽きるというべきである。  いきなり電話をもらって、要介は驚いたようである。 「本当に、逢えるんですか」  半信半疑ながら、声は弾んでいる。 「突然でご迷惑ですか?」 「そんなことはありません。でも本当に僕でいいんですか?」  要介にしては珍しく皮肉ないい方だが、洗面台においてあった男性用の剃刀《かみそり》がきいているようである。 「あなたさえよろしければ、お食事でもいかがかと思って……」  この前のことは忘れたように、修子はあっさりといった。 「じゃあ、一寸待って下さい」  要介は誰かと、打合わせでもしているのか、少し間をおいてから答えた。 「それじゃ、何時に、どこへ行けばいいですか?」 「用事があるんじゃありませんか?」 「いや、大丈夫です。あと五、六分で出られます」 「急で、ご免なさい」  修子は謝りながら、六本木にあるイタリア料理のレストランの名をいった。  五時を過ぎると、十月の空はすでに暮れている。  窓から見えるネオンの色が鮮やかなところをみると、外は少し冷えているのかもしれない。  修子は机の上を整理し、カーテンを閉めて部屋を出た。  出がけに、遠野から電話がこないのが気になったが、帰りの便が遅れたのかもしれない、と簡単に考えた。  会社を出て車を拾い、六本木のイタリア料理の店へ行くと、少し遅れて要介が現れた。一カ月ぶりに見る要介は少し肥って、貫禄がついたようである。まだ中年肥りというには早いが、考えてみると彼も三十三歳である。 「少し、お肥りになりました?」 「そうですか……」  あまり嬉しくないのか、要介は他人ごとのようにつぶやいて頬を撫ぜる。  修子は、互いに逢わなかった一カ月のあいだのことを話そうかと思ったが、それをいいだすと、この前のことに触れざるをえないのでやめた。  かわりに会社のことや日本シリーズのことなど、当りさわりのないことを話しながら食事をする。  店は八階建てのビルの二階にあり、入口を花で飾っているが、なかは長いテーブルが並んで大衆的である。  修子はここの硬い麺のスパゲッティが好きだが、要介も気に入ったらしく、蒸したアサリとともに、美味しいといって一気に食べる。  修子は遠野を思い出しながら、要介との世代の差を感じる。  ここにもし遠野を連れてきたら、まずテーブルが狭くて隣りの客と肘が触れそうだといって文句をつけるに違いない。  そのくせ、狭い焼鳥屋で食べることには、あまり苦情をいわない。もちろん修子が黙っていると必ず和食の料理屋を選ぶ。 「イタリアンレストランのような、チャカチャカしたところは好かん」というのが、遠野の口ぐせだが、フランス料理も、余程のことがないかぎり食べない。  しかし要介なら、なんの料理でも平気である。むろん店が狭くても、まわりがうるさくても一向にかまわない。  それにしても、今日の要介は飲むテンポが早い。メインディッシュのすずきの姿焼きが出るころには、白と赤のワインのほとんどを一人で飲み干した。  幸いワインは比較的安いので、支払いのほうは心配ないが、飲みすぎが気になる。  修子はもう要介を部屋に入れたりはしないから、この前のようになることはないが、あまり酔うとやはり不気味である。この前で、男の怖さは身に沁みている。 「今度は水割りをもらおうかな」 「チャンポンにして、大丈夫ですか」 「まぜたほうが酔うというのは、迷信ですよ」  わかったような理由をつけて要介は水割りを頼む。なにか、味をたしなむというより酔うために飲んでいるようである。  やがてメインディッシュを平らげたところで、要介は見はからっていたようにきいてくる。 「今日、どうして僕に電話をくれたのですか?」 「どうって、久し振りにお逢いしたいと思ったからよ」 「彼のピンチヒッターって、わけじゃないでしょうね」  図星をさされて修子が黙ると、要介がうなずく。 「いや、それで結構なのです、どうせ僕は便利屋ですから」 「そんなわけではありません。ただ今日は忙しくて、仕事が終るころに一息ついて外を眺めていたら、急にお食事をしたくなったものですから」 「修子さん……」  グラスを持ったまま、要介が改まった口調でいう。 「無理することはありませんよ。もう、あなたに好きな人がいることはわかっているのですから」 「………」 「彼と約束していたけど、急に都合がつかなくなった、だから僕に電話をしたと、正直にいってくれればいいんです」 「違います」  修子はきっぱりと顔を上げていう。 「好きな人はいますけど、今日はそういう理由からではありません」 「じゃあ、急に僕に逢いたくなった理由はなんですか?」 「男性のお友達と、一緒に食事をしてはいけないんですか?」 「成程、僕はあなたのお友達というわけですね」 「………」 「友情はあるけれど、愛情はないというわけですね」  やはり要介は少し酔ってきたようである。こんなひねくれた態度を見るのは初めてだが、その責任は修子にあるのかもしれない。 「じゃあ僕に、一つだけきかせて下さい」  要介は右手で薄く髭の生えた頬のあたりを撫ぜた。 「あなたはどうして、剃刀の彼氏と結婚しないのですか。好きなら、早くしたらいいでしょう」 「好きだから、結婚しなければならないということはないでしょう」 「しかし、普通はするでしょう」 「する、しないは、わたしの自由です」  これと同じことは、前にもいったはずである。 「修子さん、逃げてはいけませんよ。本当は彼には奥さんがいて、結婚したくてもできないのでしょう」 「そんなことは、あなたにいわれなくてもわかっています。仰言《おつしや》るとおり、結婚はできないかもしれません。でも、わたしは好きなのです」  少しいいすぎかもしれないと思いながら、修子はいいきる。 「結婚できるから好きとか、できないから嫌いといった、そんな打算的なことではないのです」 「それは別に、打算ではないでしょう」 「じゃあますます、わたしが結婚してもしなくてもかまわないでしょう」 「無理をしてるんじゃないでしょうね」 「無理なんかしていません」 「そのまま、独身でいいんですか」 「かまいません」  要介に問い詰められているうちに、修子は次第に遠野に逢いたくなってきた。 「あとで、後悔しますよ」 「そんなこと、余計なお節介です」 「そうでしょうか」 「一寸、失礼します」  修子は立上ると、まっすぐレジの横にある電話の前に行った。 「ちょっと、お電話を貸して下さい」  レジの女性にいって受話器をとり、自宅のナンバーを押す。  短い呼出音があってから、自分の留守番電話を告げる声が流れてくる。それをききながら暗証番号を押すと、留守中の電話の内容が伝わってくる。低い雑音とともに、ベルが鳴って切れる音が数回続き、そのあとで、待っていた遠野の声がきこえてくる。 「俺だよ、まだ大阪だけど、一寸、怪我をしてこれから病院へ行く。たいしたことはないが、あとでもう一度連絡する……」 「なんですって……」  思わずつぶやいてもう一度きき直すが、やはり同じ台詞がくり返される。  いままで、遠野は修子との約束を破ったことはない。もちろん、夜、修子の部屋へくるときに、十時というのが十一時になったり、ときには十二時を過ぎることもあるが、必ず電話をかけてくる。そういうところは誠実というか、こまめである。  ましてや今回は大阪からである。夕方までには電話をするといっていて連絡がなかったから、修子は少し気がかりであった。  もっとも夕方、会社にいたときは、彼からの電話を避けたいと思っていた。  また逢って食事をすると、家庭の不和のことなどをきかされそうである。それより先に要介との約束をとりつけて断ったほうがいい。  だがそう思いながらも、連絡がなかった遠野のことが心の片隅に引っかかっていた。実際そうだからこそ、要介との食事の途中で、自宅に電話をしてみたのである。  このあたりは、虫が知らせたとでもいうべきかもしれない。  それにしても、遠野が大阪で怪我をしたとは、思ってもいなかった。  正直いって、初め留守番電話をきいたとき、遠野が冗談をいっているのだと思った。  年齢のわりに遠野は茶目っ気があって、ときどき留守番電話に悪戯《いたずら》をすることがある。つい先日、絵里と飲んで遅く帰ったときには、「修子、お母さんだけど、あまり夜遊びをしてはいけませんよ」と、老婆の声音《こわね》を真似て吹きこんであった。また一カ月前には、「お名前だけでもお聞かせ下さい」という修子の声に合わせて、「お前のヒモだよ……」と、酔った声で入れてあった。  だが今日の声の調子はあきらかに違う。初めから切羽つまったように落着きがなく、手短かである。声の裏に街の雑音がきこえるところをみると、路上の公衆電話からかもしれない。  怪我をしたときいて、修子はすぐ遠野の家に電話をしようかと思ったが、遠野がいないところに電話をかけても仕方がない。  やむなく、修子は遠野の会社を呼んでみた。  だがすでに七時を過ぎていて留守番電話に切替えられ、「本日の業務は終了しました……」という女性の声だけがくり返される。  社長が怪我をしたというのに、なんと暢気《のんき》な会社なのか。  落着かぬまま修子が受話器をおくと、要介が心配そうにこちらを見ている。  修子はそれを無視して、もう一度自分の部屋へ電話をし、遠野からのメッセージをたしかめてから席へ戻った。  修子の長い電話に、要介は待ちくたびれたらしい。 「どうしたんですか?」  なじるようにきくのに、修子は頭を下げた。 「申し訳ありませんけど、このまま失礼させて下さい」 「帰るんですか?」  要介は慌てて、膝の上にあったナプキンを床に落した。 「一寸、知っている人が怪我をしたものですから……」 「怪我って、どこを?」 「それが、急でまだよくわからないんですけど、連絡があったものですから」 「でも、あなたから電話をしたのでしょう」 「家にしてみたら、留守番電話に入っていたのです」  要介は床に落ちたナプキンを拾い上げると、修子を睨みつけるように見る。 「それ、まさか、嘘じゃないでしょうね」 「そんな……わたしもいまきいて、驚いているのです」 「これから、家に帰るんですか?」 「まっすぐ帰ります」 「病院へ行かないんですか?」 「場所がよくわかりませんし、大阪ですから」 「大阪……」  要介はつぶやいてから、前の席を指さした。 「とにかく、坐って下さい」 「いえ、ここで失礼します」 「待って下さい、大阪なら、いま急いで帰っても仕方がないでしょう。それに病院も知らないんじゃ……」 「でも、心配なのです、急ぎますから……」 「修子さん」  行く手をさえぎるように、要介が手を広げた。 「その人、あの剃刀《かみそり》の人じゃないでしょうね」 「………」 「そうなのですか?」 「ご免なさい」  修子は答えず、テーブルの端にあった伝票を持つと、そのまま出口へ向かった。  瀬田のマンションに戻ると、修子はもう一度、留守番電話をきいてみた。  何度きき返しても、電話は遠野の同じ声をくり返す。他に二度ほど、呼出音が鳴って切れる音がききとれるが、声は入っていない。  修子は受話器をおき、改めて部屋を見廻した。  何故慌ててこんなに早く帰ってきたのか、これならもう少し要介と一緒にいても同じだった。遠野からの次の連絡をきくだけなら、あのまま六本木のレストランにいてもよかった。  それを無理に帰ってきたのは、どういうわけなのか。  しかし遠野が旅先で怪我をしたというのに、暢《の》んびり食事をしている気にはなれなかった。あのままいたら修子は落着かなくて、かえって要介に失礼なことになったかもしれない。いずれにせよ修子は一人になりたかった。一人で電話を待ち、遠野の声を直接ききたかった。  だが要介にまた悪いことをしたことはたしかである。  こちらの都合で呼び出しておきながら、急用ができたといって食事半ばで帰ってくる。これでは、要介が怒るのも無理はない。  しかも、要介は敏感に、修子の好きな人に異常があったと察したようである。  この前のきまずい別れ方にくわえて、今回の中座では、いくら寛容な要介でも怒るのは無理もない。  だが修子はいま、途中で帰ってきたことを悔いてはいない。  今度のことで、要介に嫌われるなら嫌われてもかまわない。絶対の安全|牌《パイ》を失うのは淋しいが、いつまでもそんな我儘を通せるものではない。  修子は自分にいいきかせると、いつものように服を着替え、化粧を落した。  髪が少しべとついているので風呂に入りたかったが浴槽に湯だけとって、コーヒーを淹《い》れた。  食事はほとんど終りかけていたので、空腹は感じない。それより、風呂に入っているあいだに電話がきて、受け損なうほうが怖い。  修子はそのまま低くテレビをつけ、ソファに坐ってコーヒーを飲んだ。  ときどき入口に近いコーナーにある電話を振り返ってみるが、鳴りだす気配はない。  いったいあのあと、遠野はどこの病院に運びこまれて、どんな治療を受けたのか。何故早く、電話をよこさないのか。気になりだすと落着かず、テレビも目に入らない。  そのまま三十分ほど経ったところで、ベルが鳴った。  すぐ受話器をとったが、返ってきたのは絵里の声だった。 「どこに、行っていたのよ」 「そんな、どころではないわ」  修子が留守番電話のことを告げると、絵里も驚いて、「それは大変ね、はっきりわかったら教えて……」といって、電話を切った。  そのあともう一度、ベルが鳴ったが、若い女性の声で、こちらの名前をいうとすぐ、「ご免なさい、間違いました」といって切った。  再びソファに戻って見るともなくテレビを見ていると、十時になった。  この分では、今日はもう電話はこないかもしれない。あきらめかけてバスルームへ行き、お湯を注ぎ足していると、再びベルが鳴った。  濡れた手を拭いて受話器をとると、今度は年輩の女性の声である。 「片桐修子さんですか」  女は修子の名前をたしかめてから、落着いた口調でいった。 「大阪城北病院の看護婦の坂田というものですが、遠野さんから頼まれまして……」  修子は受話器を握りしめた。 「先程、遠野さん、無事に手術が終りまして、こちらの病院に入院しておりますからご安心下さい」 「手術をしたのですか?」 「右の足首の骨を折って、いまギプスも巻き終えて落着いています」 「どうして、骨を……」  看護婦に手術したことだけを告げられても、修子には納得できない。 「わたしも詳しいことはわかりませんが、交通事故で車にはねられたようです。でもたいしたことはありません、他に手の甲にかすり傷があるだけで、麻酔も腰から下だけでもう醒めかけていますから」 「治るのですか?」 「もちろん、治ります」 「じゃあ、ずっとそちらに入院するのでしょうか」 「四、五日経って、手術の腫《は》れがひいたら、東京の方へ帰られても大丈夫かと思いますけど、そのことはいずれ、ご本人からきいて下さい」 「あのう、あの人、電話に出られるのでしょうか?」 「今日は無理です。でも、二、三日経てば、松葉杖をついて電話口までは行けると思います」 「………」 「よろしいでしょうか」 「すみません、ありがとうございました」  修子は受話器に向かって頭を下げてから、慌ててつけ足した。 「あのう、よろしく伝えて下さい」 「わかりました」 「遠野さんへ……」  いい直してから、修子はもう一度尋ねた。 「お見舞いには行けるのでしょうか」 「もちろん、面会時間のあいだならかまいません」  修子はさらに病院の住所と電話番号をきき、それからもう一度、礼をいって受話器をおいた。  正直いって、修子はこれまで、遠野が病気になったり怪我をする事態など、想像したことはなかった。  遠野は常に自分の前に立ちはだかり、大きく自分を包みこんで揺るがない山のような存在だと思っていた。 「俺が五十になったとき、修はまだ三十三の女ざかりだ」といったことがあるが、年齢にかかわらず、遠野は永遠に強く猛々《たけだけ》しく、自分より長く生きていくのだと思っていた。  だがそれらは、相手が年上で経済力があり、自分を女として目覚めさせてくれた男性であり、どんな文句をいっても笑ってきき過ごす包容力の大きさなどから、修子一人が頭の中で描いていた錯覚のようである。  遠野といえども病気になって入院をする。ときには怪我もして、手術を受けてベッドに臥《ふ》す。  その事実に、修子はそう簡単には馴染めない。  だがそうはいっても、看護婦のいうことを信じないわけにはいかない。夢であって欲しいと思うが、看護婦が嘘をいうわけはない。  修子は電話の前の絨毯《じゆうたん》の上に、ぺたりと坐ったまま溜息をついた。  手術をして入院したというが、遠野はいまどんな恰好で寝ているのだろうか。ギプスを巻いているというから、片足を投げ出したまま仰向けにでもなっているのか。  旅先だから、寝巻きや予備の下着などもなかったろうに。一人、会社の若い男性が従《つ》いて行くといっていたから、彼がいろいろ準備をしたのか。しかし男手では気が廻らないことも多いに違いない。  修子は、痛みに耐えながらベッドで休んでいる遠野の姿を想像する。  知らない土地の病院で一人で心細いだろうに。考えるうちに落着かなくなってくる。  いっそ大阪へ行こうか。  思いついて、時計を見ると十一時である。これからでは新幹線はないし、寝台車も無理かもしれない。行くとすると、やはり明日の朝の一番ということになる。  幸い、明日は社長は出張で不在だが、休みをとるとはいっていない。  突然で無理かもしれないが、頼むだけ頼んでみようか。そこまで考えて、修子は自分の身勝手さに呆れる。  今日の夕方までは、遠野から電話がこなければいいと思っていた。要介と食事をしたほうが気晴らしになると思って出かけたが、その報いがいまきたようである。 「ご免なさい……」  電話に向かってそっとつぶやく。  別に遠野を嫌って避けたわけではない。ただ少し、気持がぶれただけである。  その証拠に、怪我をしたときいただけで狼狽《ろうばい》し、明日にも大阪まで行こうとしている。  修子は自分のなかに、そんな情熱が潜んでいたことに驚く。  いままでいろいろ文句をいっていたが、いざとなると、やはり遠野のことが気にかかる。彼がいてこそ要介とも逢う気になるので、彼がいなくては、誰とも逢う気になれない。そんな一途な自分が、いじらしく新鮮でもある。 「よし、行こう……」  いま遠野に尽さなくては尽すときはない。こんなときは、もう二度とないかもしれない。修子は自分を励ますように、膝を叩いて立上る。 「できることなら休暇をとって、しばらくいてあげよう」  つぶやいてバスルームへ行き、洗面台の鏡を見て修子は立止った。 「まさか……」  突然、修子は、遠野に妻がいたことを思い出す。  まさか、遠野が妻を呼ぶわけはないと思いながら、怪我をして横たわっている遠野のかたわらに、妻が寄り添っている姿が浮かんでくる。  地と空と山々と平原が、秋の大気のなかですっきりと分かれ、見渡すかぎり、不分明なところは一個所もない。澄明《ちようめい》とは、まさしくこうした情景をいうに違いない。  その秋晴れのなかを、新幹線は一直線に西へ向かう。  いま、電車は三島を過ぎたところである。  右手に白壁の家やビルが並び、その先に富士山が見える。野や草花の果てでなく、密集するビルの先に富士山が見えるところが面白い。  昔の人々がこの情景を見たら、驚嘆し、目を疑うに違いない。ビルと富士が共存する図なぞ、誰も想像できなかったに違いない。  秋晴れの富士を見ながら修子はいっとき、遠野のことを忘れた。  澄んだ空と秀峰のたたずまいが、旅に出る楽しさを思い出させた。  そういえば、今日、東京駅で新幹線に乗るときも、修子は小さなときめきを覚えた。  お弁当はなにを買って、どこに坐り、どんな人と会うだろうか。旅の目的とは別に、日常から逃れるということが気持を浮き立たせる。  修子が再び遠野のことを思い出したのは、車窓から富士が消え、静岡へ近付いてからである。  あと二時間少しで大阪へ着く。いま二時だから、大阪に着くのは四時過ぎである。それから病院までは一時間くらいかかるようである。  修子が今日、朝の早い新幹線に乗れなかったのは、午前中に会社に出たからである。  遠野が入院したからといって、すぐ休むわけにいかない。  昨夜から考えた末、修子は、一旦、会社へ行き、いつものようにファックスや書類の整理を済ませてから、総務部長に、二日ほど休みたい旨を申し出た。  理由は、「大阪にいる叔母が事故に遭ったので……」ということにした。  実際、修子の母の妹が大阪にいるから、嘘とはいえないが、叔母の怪我くらいでなぜ大阪まで行くのか、ときかれたら困る。そのときのために、ただ一人の叔母で、身よりがないのだという理由を用意したが、そこまではきかれなかった。  たまたま社長は不在だったし、有給休暇も残っていたので、部長は簡単に許してくれた。  そのまま修子は午前中だけ仕事をし、昼過ぎに早退という形で会社を出た。むろん家を出るときから、旅行の準備をしてきたので、まっ直ぐ八重洲口へ向かった。  昨夜の看護婦の話では、面会時間は午後一時から八時まで、といっていたから、多少遅くなってもかまわない。それより問題なのは、今夜のことである。  遠野さえ承知すれば、修子はそのまま病室に付き添うつもりでいる。もらった休暇は一応、二日間だが、様子によっては、一、二日、延ばしてもかまわない。要は遠野の病状|如何《いかん》である。  だが突然病院にいって、付き添いなぞできるのか。それ以上に、夫でもない人の許《もと》におしかけて、付き添っていてもいいのだろうか。  不安だったので、修子は今朝早く病院に電話をして、付き添いがいるかいないかたしかめた。  電話に出たのは、昨日の看護婦とは別の人だったが、いまのところは誰もいない、ということだった。 「いまのところ……」というのが気になるが、遠野が一人でいることはたしかなようである。  それならやはり、側にいてあげたほうがいいだろう。  修子は自分の着替えの他に、遠野のパジャマと下着をバッグに詰めこんだ。付き添うことを念頭において、動きやすいジーンズや前掛けも入れたので、大きめのバッグを持っている。  大阪は、学生時代から何回かは行っているが、いずれも友達や会社の人と一緒に一、二泊しただけで、土地は不案内である。  そんなところに一人でのりこんで大丈夫だろうか。病院の様子も看護婦さんも知らないだけに心細い。  列車が大阪に近付くにつれて、修子は落着かなくなってきた。  心配なあまり思いきって出てきたが、はたしてこれでよかったのか。少し早計というか、妻でもないのに、出過ぎたことをしているのではないか。  秋の陽の輝く野面《のづら》を見ながら、不安が頭を掠《かす》める。  だが、そうした不安とは別に、修子の気持は次第に高ぶってくる。  とやかくいっても、いま、遠野を助けられるのは自分しかいない。そう信じ、実行することは、心地よい緊張感をそそる。 「もうじきですから、待っていて下さい……」  車窓から目を離して、修子は心のなかの遠野に囁く。  遠野の入院している病院は、大阪でも北の千里の近くにあるらしい。看護婦は新大阪から地下鉄を利用するようにいったが、よくわからないのでタクシーに乗った。 「城北病院……」というだけで、運転手は即座にうなずいた。 「初めて行くのですが、大きい病院なのですか?」 「そら、公立やから大きいですわ。二百ベッドくらいあるんやないですか」  修子がうなずくと、運転手はさらに話しかけてくる。 「東京からですか」 「一寸、知っている人が入院しているので、お見舞いにきたのです」 「遠くから大変やね、どこが悪いんですか」  運転手は話好きらしく、次々と話しかけてくる。おかげで退屈しなくてすんだが、道路は夕方のラッシュどきで混み、病院に着いたのは五時を過ぎていた。  きいていたとおり、八階建ての大きな病院で、駐車場も広い。修子は正面玄関から入り、左手の案内所で、遠野の病室をきいた。 「右奥のエレベーターに乗って五階で降りて下さい。すぐナースセンターがありますから」  いわれたとおり、修子は五階のナースセンターに行って、遠野の病室をきいた。 「これからお見舞いですか?」  若い丸顔の看護婦が、時計を見ながら少し困った顔をする。 「夕食どきは、ご遠慮していただいているんですが……」 「でも、面会時間は八時までとききましたけど」 「食事が終ればかまいませんが、食事中は付き添いの方だけということになっていますので」 「その、付き添いにきたのです」 「遠野さんにですか?」  看護婦はうしろにいた同僚と二言、三言話してから、修子のほうに向き直った。 「遠野さんのところには、付き添いの方がいますけど」  修子は思わず、看護婦を見直した。 「今朝、お電話したときには、いらっしゃらないと……」 「五〇八号の遠野さんですね、昨夜遅く手術をして、ギプスを巻いている……」 「そうききましたけど……」 「じゃあ、今日、お昼過ぎから付いてたんじゃありませんか」 「誰でしょう?」 「よくわかりませんが、ここから三つ先の個室ですから、行ってみて下さい」  看護婦はそれでいいだろうというように、奥へ去っていく。修子はバッグを持ったまま廊下の先を見た。夕食どきらしく、中程に白いアルミの配膳車が停り、そこから付添婦らしい人がお膳を運んでいる。 「お食事ですよ……」「ありがとう」といった声が廊下に交錯する。  そのなかを、修子はバッグを持ったままそろそろとすすんでいく。  廊下の右側が偶数の番号の病室になっているらしく、看護婦のいうとおり三つ目のドアのわきに、「遠野昌平」という名札がかかっている。  修子はいったんその前を通りすぎ、ドアが閉まっているのをたしかめてから、もう一度病室のほうを振り返った。  誰かがきているとしたら、遠野の妻なのか。今朝の時点では誰もいなかったのだから、昼頃にでもきたのだろうか。  だが、遠野は妻とはほとんど口をきかず、家庭内離婚と同じようなものだといっていた。  その妻が、大阪にまでくるだろうか。いやそれ以上に、遠野が妻を呼ぶだろうか。  修子は再び病室に近づき、耳を澄ませた。  相変らずドアは閉められたまま、静まり返っている。このなかで遠野一人、黙々と食事をしているのか、それとも付き添いの女性が介助しているのか。  それにしても、こんなところでうろうろしていては怪しまれる。  なかへ入って行く勇気もないまま振り返ると、廊下の先から配膳車が戻ってくる。食べ終った人から、順に食器を集めているらしい。 「どうしよう……」  つぶやき、もう一度名札を見上げたとき、突然、ドアが開いて女性が出てきた。  紺のスカートにピンクのセーターを着て、両手で膳を持っている。  その顔を見て、修子は思わず叫びかけた。  年齢はまだ十七、八か、童顔で髪をうしろに束ねているが、顔が遠野の妻にそっくりである。  女性はそのまま配膳車のほうに向かい、膳を返すとまた戻ってくる。  慌てて壁ぎわに身を寄せると、彼女はちらと修子を見ただけで、再び部屋へ戻っていく。  ドアが閉まり、女性の姿が完全に消えたところで、修子は一つ息をついた。  いまの顔は遠野の妻に似ているが、目のあたりは遠野にも似ている。 「そうか……」  修子はゆっくりとうなずいた。  付き添いの女性は、遠野の娘に違いない。  遠野には男と女の子がいて、女のほうは今年、大学に入ったときいたことがあるから、その娘なのであろう。  大阪で入院したときいて、妻に代って付き添いにきたのかもしれない。いや、妻ははじめからくる気はなく、娘をよこしたのか。それとも遠野が娘に頼んで、きてもらったのか。いずれにしても、遠野の側に娘がいることはたしかである。  修子はいま一度名札を見上げてから、ナースセンターのほうへ移動する。  そこを過ぎると踊り場になり、その先にエレベーターがあるが、その手前で修子は再び立止った。  このまま帰ろうか、それとも思いきってドアをノックしてみようか。  遠野の娘なら初対面だから、ただ「お見舞いにきました」といえば問題はないかもしれない。名前をきかれても、別の名をいえば妻に知られることはない。  だがいくら偽名を使ったところで、遠野と話しているうちに、娘の方でおかしいと思うかもしれない。たとえ修子が他人行儀に振舞ったとしても、遠野がうまく装えるかどうかわからない。もともと正直な人だけに、娘を前に上手に演じられるという保証はない。  それに表面だけつくろっても、若い女性は敏感だから、父の好きな人、と察するかもしれない。それも東京からわざわざきたと知ったら、ただの関係とは思わないだろう。  もっとも、彼女が母親に内緒にしてくれれば済むことだが、そこまで望むのは虫がよすぎるかもしれない。母と娘の絆《きずな》は強いから、黙っているとは思えない。  考えるうちに、修子はナースセンターの前を通り抜けて、エレベーターの前まできていた。 「やはり、帰ろうか……」  つぶやいて、もう一度廊下の先を振り返る。  ここから病室までは、三十秒もかからない。そのドアをノックしてなかへ入れば、すぐ遠野に逢える。せっかく休暇をとって大阪まできたのに、このまま帰るのは残念である。バッグのなかのパジャマも下着も無駄になるし、それを渡すことはあきらめたとしても、一目だけでも逢えないものか。  遠野もベッドに臥《ふ》したまま、待っているかもしれない。  考えるうちに、修子の足は自然にまたエレベーターから病室のほうへ戻っていく。  だがドアの前まできて、いま見た娘の顔が甦《よみがえ》る。  もう子供ではないのだから、自分の両親の仲が悪いことぐらい知っているに違いない。もしかすると、父に愛人がいることも気がついているかもしれない。  しかし知っていたとしても、あのあどけない顔を見ると切なくなる。  大学一年生だといっていたが、さすがに清純で初々しい。そんな娘を父の前で悲しませたくない。たとえ父の浮気を知っていても、会わなくてすむものなら会わないにこしたことはない。  頭で想像しているのと、現実に会うのとでは、天と地ほど違う。その違いを、修子は遠野の妻と会ったときに実感している。  いまさらいっても遅いが、遠野の妻とだけは会うべきではなかった。会うまでは好奇心で、会ってみたいと思ったこともあったが、いざ会ってみると事態はまったく違ってしまった。  それ以来、修子の脳裏に妻の顔が焼き付き、忘れられなくなった。  しかもそれがきっかけで、遠野とも、いままでのように素直に接しられなくなってしまった。遠野がなにをいっても、その先に妻の存在を感じて気持が騒ぐ。  これと同じ辛さは、遠野の妻も味わっているに違いない。 「やっぱり、帰ろう……」  自分にいいきかせると、修子は再びバッグを持って、エレベーターのほうへ戻りはじめた。  京の紅葉はいまが盛りである。  谷底を流れる清流にそって奥へすすむにつれて、紅葉はさらに濃さを増してくる。  そういえば以前、遠野と一緒に京都に来たとき、紅葉のもとは、「もみいづる」という動詞からきたのだときいたことがある。  たしかに真紅の紅葉をみていると、「もみいづる」という言葉が実感となって迫ってくる。狂ったほど赤くなった紅葉には、身を悶えて叫ぶ女の執念のようなものが滲《にじ》んでいる。  いまも谷あいにいる修子の正面に、そのもみいづる紅葉がある。まわりに黄葉と松の緑があるだけに、その濃い赤が一層きわ立っている。  修子はふと、ある一句を思い出した。 「この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉」  この句もたしか旅の途中で遠野に教わったものである。詠んだ人は女性というだけで、名前は忘れてしまったが、句だけは不思議に覚えている。初めてきいたとき、修子はよく意味がわからず、文字に書いてもらって、はじめて句意がのみこめた。  血のように燃える夕紅葉を見ているうちに、その樹によじ登り、紅葉のなかに溶けこみたくなってくる。だが樹に触れた瞬間から、女はたちまち狂女に変貌してしまう。  美しいが、不気味な句である。朱に燃える紅葉には、どこか女を狂気にかりたてるような妖しさが潜んでいるのかもしれない。  いまはまだ夕暮れには間があるが、谷あいは陽が翳《かげ》り、左手の斜面を通して射し込む陽が、その一本の紅葉に集中している。  見詰めるうちに、修子は次第に紅葉の精に引きこまれそうな気がして目をそらした。  まだ、自分は狂女にはなっていない。正常で、冷静に周囲のものを見詰められる余裕はある。  だが昨日から何度か、危うく平静さを失いそうなときがあった。いけないと思いながら、いっそ思いきって遠野の許《もと》へ駆けていこうとする。  昨夜から今日にかけては、そんな自分との戦いであった。  いや、いま紅葉を見ているときでさえ、修子のなかには、狂女になりかけている部分がある。  昨日、遠野に逢うのをあきらめて、大阪の病院を出たのは六時を少し過ぎていた。  すでに夜で、あたりは病院の前とも思われぬほど、明りがあふれている。その光りに誘われるように、修子はタクシーに乗った。 「お客さんどこまで?」  運転手にきかれて、修子ははじめて行く当てがないのに気が付いた。 「新大阪へ……」  見知らぬ街では、結局着いたところに戻るよりない。  二時間前、夕暮れの道を走ったと同じ道を、再びもどっていく。来たときといまと、変っているのは、夕暮れが闇になっただけである。  新大阪に向かいながら、修子はなおどうするべきか迷っていた。  これから東京に帰るには早すぎるが、といって一人で残るのも心細い。  修子が京都に行こうと思いついたのは、切符売場に近づいて、新幹線の出発時刻表を見上げてからだった。 「東京」「名古屋」という文字とともに、「京都」という文字が並んでいる。それを見るうちに、つい京都行きの切符を買ってしまった。目的もなく、その場での思いつきにすぎない。  だが考えてみると、京都には遠野と数回行ったことがある。最も新しいのは去年の秋、いまより少し遅かったかもしれない。すでに紅葉は終りかけていたが、二人で東山一帯の紅葉を見て歩いた。  大阪は未知に等しい街だが、京都なら多少、馴染みがあるし、遠野ときた思い出もある。それに京都にいれば、明日また思い直して大阪へ戻ることもできる。  それらは切符を買ってから、修子が自分で考え出した理由だが、真先に京都行きを思い立ったところをみると、初めから京都へ行くつもりであったのかもしれない。  結局、修子は昨夜、京都の三条にあるホテルに泊った。  不思議なことに、大阪にいるときは気持が苛立ち、落着かなかったのが、京都に入ると自然に心が和み、そのうち今回の旅の目的が京都へくることであったような錯覚にとらわれた。  夜、一人で食事をし、河原町通りなどを散歩しても、修子はさほど淋しさを感じなかった。久しぶりに京都にきた解放感もあったが、同時に、遠野のいる大阪に近いという安心感もあった。  いまからでも、行く気になれば行けるという思いが、修子の気持を穏やかにさせていたようである。  一夜明けて今朝、修子は再び、大阪へ行くことを考えた。  昨日の早退を含めて、正規にもらった休暇は今日までである。もっとも事情によって一日や二日なら延ばすことはできる。  だが遠野に逢えぬのに、何日も京都にいても仕方がない。  朝食を終えてから、修子は一度、病院へ電話を入れてみたが、交換手が出たところで、受話器をおいてしまった。  遠野の様子をききたいが、付き添いの娘がでるかもしれない。たとえ看護婦にきいたところで、逆に名前を尋ねられそうである。  余計なことをしてはいけない、という冷静さが、修子にはまだ残されていたようである。  かわりに、東京の自分の部屋へ電話をしてみたが、遠野からの新しい連絡は入っていない。  昨日の看護婦は、手術後二、三日は絶対安静だといっていたから、入っていないのは当然だが、修子はなにかはぐらかされた気持になった。  やっぱり病室まで行って逢うべきかもしれない。  考えるうちに、廊下で会った遠野の娘の顔が甦ってくる。  たとえ行ったところで、あの娘の見ている前で遠野と逢うのは辛い。あの娘が横にいるかぎり、ゆっくり話すことはできないし、まわりを気にして逢うくらいなら、逢わないほうがいいかもしれない。  途中から、娘の顔は遠野の妻の顔に変っていく。  病院へ行く決心がつかぬままチェックアウトの時間が迫って、修子は部屋を出た。  これから東京へ帰るにしても時間があるので、修子は荷物だけをクロークに預けて、紅葉を見に行くことにした。  平日なので人出は少ないかと思ったが、タクシーの運転手にきくと、この時間帯では、すでに高雄のほうはかなり混んでいるという。  修子は去年、遠野と二人で東山を歩きながら、高台寺の近くの谷あいの径《みち》にまぎれこんだときのことを思い出した。高名な寺の庭園と違って、あたりは静まり返っていたが、その静寂がさらに紅葉の美しさを引き立たせた。  あやふやな記憶をたどるだけなので迷ったが、三十分ほどして、修子はようやくその小径を見出した。右手は大きなお屋敷らしく、竹の柵が続いているが、それも半ば以上は朽ち、左手は小山が迫り、そのあいだを疎水が流れている。  谷あいの紅葉に惹《ひ》きつけられて、修子は疎水べりの小径を奥へすすんで行く。  突然、陽が射して、目の前の紅葉が真紅に染まる。陽が鈍いとき、紅葉は濃い赤色を呈しているが、陽が射すと明るい朱色に変る。  ときに雲の動きで、一本の紅葉がさまざまな色を浮き立たせる。  陽を受けて輝き出した紅葉に向かって修子はそっと手を差しのべた。  一つ一つの葉は五センチにも満たず、先が五裂から七裂に分かれている。その各々に陽が照り返し、黄金の小波を見るようである。  ふと見ると、光りのなかで|掌《てのひら》が透けてみえる。  ときどき、遠野は修子の手を見ながら、白く透けるようだといってくれた。ときには手を撫ぜながら、陽にかざしたりもした。修子自身より、手のほうを愛しているのかと思うほど、手にこだわっていた。  いま、紅葉のなかの掌を見るうちに、修子は濃密に遠野を感じた。  かつて手に触れられ、見詰められた感触が、忘れていた遠野の愛撫を思い出させる。 「なぜ……」  深山の紅葉のあいだに彷徨《さまよ》いながら、艶めいた感触にとらわれたことに、修子は驚き、たじろいだ。  このまま一人でいると、紅葉の狂気にとりこまれるかもしれない。  突然、静寂が怖くなり、修子は谷を戻りはじめた。  なだらかな坂を下り、紅葉の下を抜けると疎水が広くなり、径が開ける。山ぎわのせいか、すでに紅葉は散りはじめ、枯枝の手前でとどまった落葉が川床を赤く染めている。  紅葉はさらに小径や疎水を囲う石積みにも散り、まわりの羊歯《しだ》や杉苔とも重なり合っている。  谷から小径を経て、少し広い道に出たとき、陽はまた翳ってきた。  先程、谷あいに陽が射したのは、雲が切れた束の間であったようである。  行く手にお休み処があるが、流しの車はなさそうである。  修子はさらに石畳みの道を東大路に向かって下ったが、中程まで行ったところで電話ボックスが目にとまった。修子は一旦、その前を行きかけて立止り、それから数歩戻ってボックスのなかへ入った。  ガラスのドアの外には、やはり紅葉を求めて散策する人々が行き来するが、誰もボックスのなかには関心がなさそうである。  修子は呼吸を整え、それから再び遠野の病院へ電話をしてみた。  昨日から三度目なので番号は覚えている。  午後のせいかすぐ交換手が出て、遠野のいる病棟のナースセンターを接《つな》いでくれる。 「もしもし……」  修子の目の前で紅葉が燃えている。 「すみませんが、五〇八号室の遠野さんを呼んでいただけますか?」 「遠野さんですか……」  今度の看護婦の声も初めてきく声である。 「遠野さんは手術したばかりで電話口には出られないので、付き添いの方でよろしいですか」 「かまいませんけど……」  遠野が出られないことは覚悟のうえである。  ずいぶん長い時間のようだが、ナースセンターから呼びにいって、出てくるまでには結構かかるのかもしれない。目の前のダイヤルを見詰めたまま、修子は何度か切りかけた。あと五つ数えるあいだに出なければ切ろうと思っていると、人の近づく気配がした。 「あのう、遠野ですけど……」  瞬間、修子は髪をうしろに束ねた若い女性の顔を思い出した。 「遠野さんのお嬢さんですね」 「そうですけど……」 「お父さまのご容体、いかがですか?」 「どなたさまでしょうか?」 「カタギリ」といいかけて、修子は「カタノ」といいかえた。 「片野と申しますけど、あなたは?」 「娘のセイコです」  片野では、遠野の妻に気付かれそうだが、まったく名前を変えたのでは、遠野に伝わらないかもしれない。 「実は……お父さまの会社の関係のものですけど、お怪我をしたときいたものですから……」  落着くように、修子は自分にいいきかせた。 「足の骨を折られて手術をされたときいたのですが、いかがですか?」 「はい、おかげさまで……」 「そのまま、ずっとそちらに入院なさるのですか?」 「いえ、まだはっきりはわかりませんけど……」 「じゃあ当分はそちらに?」 「父は東京に戻りたいようですけど……」 「いま、痛みは?」 「大体、おさまったようです」  娘は尋ねることに、最小限の答えしか返してこない。 「あのう、あなたはずっとそちらに付き添っていらっしゃるのですか?」 「はい」  修子はさらに一つ、息をのんでからきいた。 「お母さんは、いらっしゃらないのですか」 「母は一寸……」  娘の声が少しくぐもった。 「じゃあ、あなた一人で?」 「ええ……」 「あなたは学生さんですか?」 「そうです」 「お父さまの付き添い、大変ですね」  しつこいとでも思ったのか、娘は返事をしない。修子は慌てて話題を変えた。 「わたしども、お父さまの会社に、大変お世話になっているものですから、心配していたのですが、お話をきいて少し安心いたしました」 「………」 「いずれ、東京にお帰りになったら、お見舞いに伺いたいと思いますけど、お父さまによろしくお伝え下さい」 「あのう、なんというお名前でしたか」 「カタノと申します」 「どこの会社の?」  思いがけない質問に修子は詰った。 「丸の内の……東京硝子といいます」 「東京ガラス……」  クリスタルとガラスでは大分違うが、それ以上はっきりいうのは危険である。 「じゃあお大事に。お父さまを大事にしてあげて下さい」 「ありがとうございます……」  受話器をおいて、修子は大きく息を吐く。電話を一本かけただけなのに、大仕事をしたような疲れ方である。  修子はいま一度、息を吸って髪を掻き上げた。  思ったとおり、若い女性は遠野の娘であった。しかも、まだしばらくは遠野の病室にいるようである。いまの応対からみると、女性からの突然の電話に戸惑ったようだが、それが父の愛人とは、気が付いていないようである。  しかしそれにしても、遠野はいまの電話を、修子からだとわかってくれるだろうか。 「東京硝子の片野」といったら、なにかを感じるはずである。怪我を知っている人はかぎられているから、修子からだと察するに違いない。  陽が傾いて、山ぎわの道は急に冷えてきたようである。その冷気に追われるように坂を下りながら、修子は考える。  せっかく大阪まできたのに、どうして自由に逢えないのか。これから遠野を奪うとか、自分の部屋に連れて行くというわけではない。  ただ、心配で駆けつけてきただけなのに逢えぬとは、どういうことなのか。  このまま、遠野が重態になっても、万一、死んでも、逢うことができないのか。  いざというとき、見舞うこともできない関係とはなんなのか。 「帰ろう……」  修子はつぶやくと、底冷えの京から逃れるように足を早めた。  薄  陽  暮れかけた冬陽《ふゆび》を受けて、電車が遠ざかって行く。忍び寄る冷気のなかで鈍く光る線路がゆっくりと左へカーブしている。ホームの端で、修子がそれを眺めていると、彼方から新しい電車が同じカーブを描きながら近付いてきた。  日曜日の夕暮れどきだが、私鉄と交叉する駅のせいか、車内はかなり混んでいる。平日と違って家族連れや若い二人連れが多い。修子はその中程に立って吊り革にもたれながら軽い疲れを覚えた。  今日は昼から眞佐子の家に招かれて、午後のいっときを過ごしてきた。  眞佐子も夫も甲斐甲斐しくもてなしてくれて、とくに眞佐子は修子の好物のクラムチャウダーとチーズケーキを作って待っていてくれたし、眞佐子の夫は自慢の洋蘭を見せてくれたうえ、何枚も写真を撮ってくれた。さらに帰りには、わざわざ自分の車で駅まで送ってくれた。  二人が心から歓待してくれているのはわかったが、修子は一人できたことを悔いていた。  眞佐子の結婚後、品川の彼女の家を訪れるのははじめてなので、当初は絵里と二人で行く約束になっていた。日曜日の昼に渋谷で落合う時間まで決めていたのに、絵里に急な仕事が入って行かれなくなった。  当日の朝それを知って、修子もやめようかと思ったが、眞佐子は、修子一人でもいいから来て欲しいという。  それでやむなく出かけたが、やはり一人で行ったのは間違いだったようである。  眞佐子と夫が、仲睦まじく尽してくれればくれるほど、修子は孤独を感じた。むろん二人の前ではそんな素振りは見せず、彼等に合わせて明るく話し、笑ったりもした。途中からでてきた四歳の子供を抱き、一緒に写真に写ったりもした。幸せ一杯の新婚家庭に招かれて、修子も満ち足りた表情をつくって見せたが、正直いって、幸せすぎる二人を見すぎたのかもしれない。  むろん眞佐子と夫が、これ見よがしに振舞ったわけではない。それどころか、修子を一人にさせぬよう、いろいろと気をつかってくれているのがわかった。  しかしそんな思いやりがわかればわかるほど、修子は居辛くなった。  そのうち、眞佐子が少し甘えて「あなた……」とか、「うちの主人が……」という言葉さえ気になってきた。  さらには眞佐子の夫が、「今度は、修子さんが結婚する番だなあ」とか、「もしよかったら、僕の友人を紹介したいけど」といった言葉まで胸にひっかかってくる。 「どうぞ、わたしのことなど放っといて、お二人でご自由に仲良くなさって下さいませ」  修子はそういいたい気持をおさえて苦笑した。  もしここに絵里がいたら、「修子には修子の生き方があるわよ」と、ぴしゃりといってくれたかもしれない。あるいは「あまり見せつけないでね……」と、やんわり皮肉ったかもしれない。  途中から、修子は仕事にかこつけて逃げた絵里を怨んでいた。  要領のいい絵里のことだから、初めからつまらないとみて急な仕事をつくったのか。まさかそこまで企むとは思えないが、二人の歓待を一身に受けて、修子はいささか疲れてしまった。  二時間ほどいて、帰ろうとすると、まだ早いからといって引きとめられ、三時を過ぎてようやく解放してもらった。  つい二カ月前まで、眞佐子は最も親しい友人であった。絵里と三人組といっても、心情的には眞佐子のほうに親近感を抱いていた。  だがいまは、眞佐子ははるかに遠い存在になったようである。  それも仲違《なかたが》いしたり、喧嘩をしたわけではない。相変らず眞佐子は誠実で子供じみた稚《おさな》さももっている。  だがその誠実さは、自分一人で満足している誠実さで、いまの修子にはむしろ鬱陶しい。  もし眞佐子が責められるとしたら、その押しつけがましさに気付かず、相手も自分と同様、楽しんでいると思っている無神経さである。  それも眞佐子は悪気でやっているわけではなく、誠心誠意よかれと思ってやっているのである。  そのことはよくわかりながら、修子のなかで少しずつ渣《おり》のようにたまっていくものがある。別に嫉妬するわけではないが、なにか自分と馴染めぬ世界にいるような苛立ちにとらわれた。  いま一人になって感じる疲れは、そういう世界で無理に笑顔をつくってきた反動のようでもある。  それにしても、眞佐子は結婚して本当に幸せそうである。もともと、女は結婚するものと信じ、結婚して家庭に入ることになんの疑いももっていなかった彼女のことだから、当然かもしれない。  初め眞佐子の婚約をきいたときは、相手が再婚で子供までいるので、うまくいくかと心配したが、それは杞憂に終ったようである。  幸せになれてよかった、と思うが、もし修子も同じ条件で結婚するかときかれたら、首を捻《ひね》らざるをえない。  たとえ眞佐子がうまくいったからといって、自分もうまくいくとはかぎらない。眞佐子の幸せを羨ましいとは思っても、単純に同じ道をたどる気にはなれない。  マンションへ戻ると、初冬の短い日はすでに暮れかけていた。  ベランダを開けて空気を入れ換え、コーヒーを飲みながら、修子は母の年齢《とし》を思った。  三十三歳のとき、母はすでに自分と弟達三人の子供を抱えて、| 姑 《しゆうとめ》に仕えていた。もともと彼女は絵が好きでデザイナーのような仕事をしたかったようである。  だが結婚して家庭に入り、育児に追われるうちに仕事をするチャンスを逸し、子育てが終ってからでは自信がなく、そのまま外へ出る機会を失ってしまったようである。  自分の生き方に悔いが残ったせいか、母は修子が語学を身につけ、仕事をすることに反対はしなかった。年頃に結婚をすることを望んではいたが、仕事をやめろといったことはない。  そのせいもあってか、修子は好きな人と結婚できても、単純に家庭におさまる気はなかった。それより家庭は家庭として仕事も続けていきたい。欲張っているかもしれないが、子供が生れても、その方針は貫きたいし、それが不可能なような結婚ならしなくてもいい。そう考えているうちに、気が付くと三十歳を越えていたというのが、偽らぬ実感である。  他人のせいにするわけではないが、修子が独りでいて比較的暢んびりしていたのは、母の轍《てつ》は踏みたくないという思いがあったからかもしれない。  だが三十三歳という年齢に達したいま、母より充実した生活をしているかと考えると自信はない。  これまで外資関係の会社で社長秘書として、一応華やかとみえる生活を送ってきたことに悔いはないが、いまの年齢でそれがベストの選択であったともいいきれない。  短い日が、思いがけなく自分の年齢を思い返させたようである。  修子は迷いを振り払うようにコーヒーを飲み終えると、午前中にした洗濯物にアイロンを掛け、箪笥《たんす》を整理した。  そのまま奥の部屋に籠っていると、絵里から電話があった。 「どうだった、眞佐子のところ……」  例によって、絵里はいきなりきいてくる。 「行かなくて正解よ、あてられて疲れてしまったわ」  修子が説明すると、絵里は「眞佐子らしいわ……」と苦笑する。 「で、子供はうまくなついているの?」 「ママと呼んでいたから、結構いいんじゃないかしら」 「一度に妻と母親になって、眞佐子も大変ね」 「でも、ご主人がとっても優しい人で、幸せそうよ」 「彼のほうは再婚だから、少し負い目があるのよ」  絵里は彼女らしい解説をくわえるのを忘れない。 「じゃあ、あなたも早く結婚しろ、といわれたでしょう」 「そのとおり、何度もいわれました」 「新婚ほやほやのくせに、もう先輩|面《づら》しているわけね。眞佐子なんかに威張らせては駄目よ」 「こちらは結婚したことがないんだから、仕方がないわ」 「まさか、弱気になったんじゃないでしょうね」 「そんなことはないけど……」  修子が言葉を濁すと、絵里が声を低める。 「ところで、彼はどう?」  遠野のことに話題が変って、修子はソファの上で膝を組み直す。 「あと、一週間くらいで退院するみたいだけど……」  遠野は大阪の病院に五日間いたあと、ギプスを巻いたまま車で市谷の病院に移った。東京に戻ってからは、遠野が毎日のように電話をくれるので、様子はよくわかる。  医師の話では、一カ月経てばギプスをはずし、そのあと半月くらいリハビリテイションに通えば、もとどおりになるという。  当分は骨が接《つ》くのを待つだけなので、ギプスさえ巻いておけば、退院してもかまわないといわれたが、松葉杖でベッドの生活をしなければならないので、そのまま病院においてもらうことにしたようである。  もっとも遠野は病院に残る理由を、家に戻って妻の世話になりたくないからだといっていた。  そのまま、遠野は病室に電話を持ちこんで、口頭で仕事の指示をしているらしい。三光電器の仕事や、修子と一緒にヨーロッパに行けなくなったことが気にかかるようだが、それよりもまず一日も早く治ることである。 「あなた、まだお見舞いに行ってないの?」 「………」  遠野が東京へ戻ってきてから、修子はまだ見舞いに行っていない。  その前、大阪へ行ったときも、結局逢わずに帰ってきたが、そのことを絵里にはまだ告げていなかった。 「今度のところは、付き添いはどうなってるの?」 「もう大分|快《よ》くなったし、完全看護だから誰もいないわ」  東京に移ってから、遠野の病室には付き添いがいないようだが、修子の頭からは遠野の妻と娘の顔が消えない。  たとえいまは付き添いはいなくても、なにかの用事で突然、彼女達が現れないとはかぎらない。実際、病室から動けぬ体では、下着や衣類はもちろん、郵便物や日用品など、家から運ばねばならぬものがあるはずである。妻とは不和といっても、それくらいのものは届けにくるのではないか。  病室には社員もきているようだが、彼等に会うのも気が重い。社員なら仕事のためという大義名分があるが、修子にはこれといった理由がない。そんな身で、のこのこ出かけていって、夫人に会ったのでは、これまで耐えてきたのが無駄になる。  病院に行かないのは、修子の遠慮とともに、意地でもあった。 「あなたは、深刻に考えすぎるのよ」 「そんなことないわ、あの人は別の方のご主人ですから」 「それじゃいっそ、初めからあなたの部屋に連れてきたら、よかったのよ」 「なにをいうの……」 「松井須磨子のように。そうしたら向こうも諦めるでしょう」  大正時代、新劇のスターであった松井須磨子は、妻子ある演出家の島村抱月を愛して同棲した。そのうち、抱月は悪性の流行性感冒から肺炎を併発したが、須磨子は抱月を入院させると、妻子に奪われることを恐れて、芸術座のわきの自分達の部屋から移させなかった。  だが充分手当てもできぬまま、須磨子が舞台稽古に出ているあいだに、抱月一人、孤独のままに息を引きとった。もし病院に移しておけば、抱月は一命をとりとめたかもしれぬが、須磨子には妻に渡せぬ意地があった。 「わたしは、そんなに強くはないわ」 「でも、そうでもしなければ、奪《と》れないでしょう」 「待って……」  たしかに修子は遠野を愛してきたが、是が非でも、彼を妻の手から奪いたいと思ったことはない。それが甘いといわれようとも、お人好しといわれようとも、いま逢っているときだけの遠野を愛せたらそれでいい。ましてや、遠野が入院したからといって、それを機会に彼を独り占めしようなどとは思わない。 「また、あなたのお利口さんが出てきたわね」 「お利口とは違うわ……」 「とにかく、一度くらいお見舞いにいったほうがいいわ。向こうも淋しがっているでしょう」 「毎日、電話で話しているから、大丈夫よ」 「でも、顔を見ると見ないとでは違うわ。いまさら恐れることはないでしょう」  修子がいま、病院に行かないのは、遠野の妻や娘に逢うことを恐れているからではない。むろんそんな状態は避けたいが、それとは別に、これを機会に遠野との関係を考えてみたいと思っているからでもある。  一体、このまま、遠野との関係を続けていっていいのか。それともこのあたりで別の生き方を探すべきなのか。遠野の入院は、そうしたことを真剣に考える機会を与えてくれたともいえる。 「あなたはやはり、遠野さんが好きなのでしょう」  修子は少し考えてから、うなずく。 「そうね……」  好きかときかれたら、「そうだ」と答えるよりない。その答えは、遠野と知り合ったころといまと変りはない。  だが、「好き」という答えの内容を考えると、微妙な変化が生じているようである。  いまは「好き」と答えながら、そのなかで少し戸惑っているものがある。かつては遠野のすべてが好きであったのが、いまはある状況で、という条件が必要かもしれない。もっとも、それがどのような条件か、修子もいま一つわからない。 「今度の入院で、彼のほうもきっと考えてると思うわ」 「なにを……」 「あなたのことを。病気なんかになると、改めて、自分やまわりのことがよく見えるようになるでしょう」 「少し、冷静になれるわね」 「冷静に?」  絵里はきき直してからいった。 「そういう面もあるかもしれないけど、かえって燃え上るものじゃないかしら」 「………」 「もしかすると、大阪まで行ったんじゃないの」  たしかにあのときは、不安のあまり大阪まで駆けつけたが、いまは少し醒めている。醒めたというのがいい過ぎなら、いくらか落着いて、遠野と自分のことを考えられるようになった、というべきかもしれない。 「どうして、行ったのかしら……」 「そんなこと、あなたからきかれても困るけど、好きだからでしょう」  そうはっきりいわれるとうなずかざるをえないが、いま修子のなかでおきつつある変化は、修子自身でもうまく説明できそうもない。  一週間、修子はなにも考えずに働いた。  といっても、秘書の仕事が突然、増えたり、来客が多くなったわけではない。日によって多少の波はあるが、仕事の量はさほど変らない。  だがやる気になれば、秘書の仕事はいくらでもある。  たとえば、これまでの来客名簿や新聞切り抜きの整理、戸棚の模様替えなど、暇をみてやりたいと思っていたものに積極的に取り組んだ。さらにはカーテンを明るい色に替え、テーブルクロスとコーヒーセットも買い替えた。 「新鮮な感じになって、気持がいいね」  社長は素直に喜んでくれたが、それが修子の個人的理由からとは気付いていないようである。ともかく忙しく動き廻っていると、プライベートなことは忘れられる。  会社にいるあいだ、修子は遠野のことをほとんど思い出さなかった。  だが夜になると、待っていたように遠野から電話がかかってくる。  ほとんどが午後八時前後で、この時間帯が消燈前の最もかけやすいときなのかもしれない。  その日の電話も、八時少し過ぎにかかってきた。 「どうしている?」  電話はいつも、その一言からはじまる。 「別に、変りないわ」  修子は普通に答えるが、遠野はその声から、なにかを感じとろうとしているようである。 「忙しいのか?」  その質問から、今日一日のことを漠然と話しだす。遠野も病院の様子や、自分の仕事のことなどを話す。  来週早々にはギプスをとってX線写真を撮り、それでよければ退院できること、担当の医師が三十半ばで、遠野と同じ千葉の出身であること、その医師が主任の看護婦と仲がよさそうなこと、今夜は病院食を食べる気がしなくて、寿司の出前をとったこと、などをとりとめもなく話す。  修子はそれらに相槌をうちながら、ときどきコーヒーを飲む。いつも遠野の話は長くなるので、他のことをしながら暢《の》んびりときく。  ひとしきり話が終ったところで、遠野が思い出したようにいう。 「今日、そちらから電話をくれるはずだったけど……」 「これから、しようと思っていたのよ」  いいわけのつもりではなかったが、遠野はそう受けとったのかもしれない。 「病室でも、あまり遅い電話はまずいんだ」  仕事のために必要ということで、遠野は医師の許可をえて、病室に携帯電話を持ち込んでいた。個室にいるのだから、いつかけてもよさそうなものだが、消燈のあとでは、まわりの病室に遠慮があるらしい。 「明日はどうなんだ?」  きかれて、修子はスケジュールを思い返す。 「一寸、食事に行くかもしれません」 「誰と?」 「アメリカのお客さまです」  相手は、会社の新製品の発表会のときに知った、アメリカの工業デザイナーだった。 「二人でか?」 「多分、そうなると思います」 「気を付けたほうがいいな、彼等は手が早いから」 「まさか……」  たしかに外人は女性の扱い方に手慣れているが、それですぐ口説くというわけではない。それに万一、口説かれたとしても、そんな簡単にのるわけもない。そのあたりのけじめはわかっている。 「何時に帰る?」 「そんなに、遅くはなりません」 「じゃあ、十時に電話をする」  以前、遠野は修子の行動を制約するようなことはなかった。食事に行くといっても、「そうか……」とうなずくだけで、相手や行先もほとんどきかない。たまにきいたとしても、「あまり遅くなるなよ」というくらいであった。  それが「手が早い」などというところをみると、入院しているうちに気が弱くなったのか、それとも嫉妬深くなったのか。 「明後日《あさつて》は土曜だけど……」  遠野が思い出したようにいう。 「午後にでも、病院へ来てくれないか。築地のマンションから、下着と一冊、持ってきて欲しい本がある」 「でも、もうじき退院なさるのでしょう」 「しかし、レントゲンの結果でどうなるかわからない」 「お嬢さまに、頼んだら……」 「あの子はマンションの鍵を持っていない。鍵を持っているのは修だけだ」 「それじゃ、お部屋から取ってきて、病院へ送ります」 「駄目だ、急ぐんだよ」 「明日、朝のうちに取りにいって送れば、明後日には着くでしょう」 「修に持ってきて欲しいんだ」  どうやら、下着と本が欲しいというのは、修子を呼びつけるための口実のようである。 「修はどうして、病院に来てくれないんだ」 「別に、理由なんかありません」 「じゃあ、いいだろう。ここは個室で誰にも気がねすることはない。もう、二十日以上も逢っていないんだぞ」  修子の脳裏にまた遠野の顔が甦ってくる。たしかに二十日以上も逢っていないが、修子のなかにある遠野の顔は意外に新鮮である。 「頼むよ、いいだろう」  修子が黙っていると、遠野がかすかにつぶやく。 「冷たい……」  瞬間、修子は目を閉じた。  いま、遠野に逢いに行かないのは、冷淡だからではない。実際、冷たいのなら、こんな話を延々と続けてなぞいない。それより遠野に逢いに行かないのは、修子が自分と交した約束だからである。ここでそれを破っては、自分を裏切ることになる。  正直いって、修子はその掟を守ることで自分の意志の強さを試している。  遠野を知ったときから、修子は二人で逢っているときの遠野だけを愛し、それ以外の彼は無縁の人と決めていた。病院に入院しているときの遠野は、その後者の無縁の人である。  それを無視して逢っては、せっかくの|けじめ《ヽヽヽ》が台無しになり、ひいては修子自身が崩れることになる。 「わたし、冷たくなんかありません」 「それなら、すぐ見舞いにくるべきだろう」  苛立っている遠野に、いまの気持を正確に説明するのは難しそうである。 「早く快《よ》くなって下さい」  いま修子がたしかにいえることは、それだけである。  遠野との電話を切ると、修子はいつも軽い疲れを覚える。  彼との電話が長かったのにくわえて、話しているうちに、遠野の妻と娘の顔が浮かんでくるからである。二人がいま、遠野の側に寄り添っているわけでもないのに、どういうわけか、彼の身近にいるような気がしてくる。  修子がそんな錯覚にとらわれるのは、入院している遠野の姿が弱々しく、家庭的な印象を与えるからかもしれない。どういうわけか、ベッドに横たわっている姿やギプスを巻かれた脚は、日頃のばりばりと仕事をこなす遠野とは違った、家庭という場に戻った父や夫のイメージを思い出させる。  この数年間、修子が遠野に抱き続けてきたイメージは、強く逞《たくま》しく、そして包容力のある孤高の男、といったものだった。家庭なぞ顧みず、一人超然と生きていく雄々しさに惹かれてもいた。  だが今度の怪我は、思いがけなく、そうした強さの裏に潜んでいた遠野の弱さを露呈したようである。それで家庭に戻ったわけではないが、逞しい遠野も家庭の絆《きずな》を引きずっているということを、露出したともいえる。  むろん、修子はそんな遠野を批判する気はない。遠野に妻子があり、壊れかけているとはいえ、家庭があることは百も承知である。  だがその種のことは、できうれば知りたくはなかった。見ないでいられれば、それにこしたことはないと思っているときに、ついうっかり垣間見てしまった。そんな衝撃が、いまだに修子のなかで尾を引いている。  もちろん修子がそのことをいったら、遠野は一言の下に否定するに違いない。 「俺は怪我で入院しても妻を呼ばなかった。大阪に娘がきたのは、手術直後でやむをえなかったからで、実際、東京に戻ってからは誰もついていない」  しかし一カ月近く入院していて、妻や娘が病室に現れないということがあるだろうか。下着や日用品など、家族の手で揃えてもらわねばならぬことはいろいろあるはずである。遠野が好むと好まざるとに拘らず、妻や娘の手を借りざるをえない。  それにしても、この入院で、遠野と妻との関係はどのように変ったのだろうか。やはりいままでどおり冷戦状態なのか、それとも入院をきっかけにいくらか緩和されたのか。  遊び歩いていた夫が、病気を機に、妻の許《もと》に帰るという話をきいたことがあるが、遠野の場合はどうなのか。  考えていると、また築地のマンションで遠野の妻に会ったときのことが思い出されてくる。  あのとき修子は一方的にいいまくられ、返す言葉もなかったが、時間が経つとともに、遠野の妻の立場の辛さも考えられるようになってきた。もし自分が彼の妻の立場なら、もっと激しく罵ったかもしれない。彼女が泥棒猫といったのも無理はない。  修子がそのように少し優しく考えられるようになったのは、それだけ罵られても、遠野をたしかに掴んでいるという自信からくる余裕があったからかもしれない。  だが今度のように、遠野が入院した場合には、そう安閑としてはいられない。さすがに妻という立場は強く大きい。  この場合、若さや美しさや、より多く愛されているという事実はなんの価値もない。そんな事実より、戸籍が入っているという形式のほうが圧倒的な価値をもってくる。 「まあ、いいさ」  つぶやいてから、修子はこのごろ、よくその言葉を口にしているのに気がついた。  大阪から新幹線で帰ってくるときも、東京の病院に見舞いに行こうとしてやめたときも、眞佐子の家に一人で行ったときも、同じ言葉をつぶやいていた。 「まあ、いいさ」とは、相手の立場を認めたようで、その実、自分にも妥協をしいている。  年齢《とし》をとると自然にそうなるのかもしれないが、まだつぶやくには早すぎる。修子は自分にいいきかせると、テレビをつけソファの上に横向きになって足を投げ出した。  もう一杯コーヒーを飲む気はないが、口が少し淋しい。  修子は立上り、小さいグラスにリキュールを入れるとテレビを消して、ブラームスのピアノ曲に変えた。  リキュールは眠れないときに飲むが、今夜は眠るためではない。  ただアルコールで、軽く酔ってみたかっただけである。  舐めるように飲みながらピアノ曲をきいているうちに気怠《けだる》くなり、陶然とした気分になる。  独身でいて、幸せだと思うのはこういうときである。  誰にも邪魔されず、一人でソファに凭《もた》れたまま、自由に想像の羽根を伸ばすことができる。この気楽さは、夫や子供がいる主婦には味わえぬ、優雅さかもしれない。  二十代までは独身を恐れていたが、三十代に入ると女も開き直るのか。ともかく自分なりのライフスタイルが身につき、容易なことでは変える気になれない。  そのままリキュールをほぼ飲み終えたとき、電話が鳴った。  修子は上体を起こし、片手を伸ばしてソファの端にあった受話器をとった。 「もしもし、修子さんですか」  なにやら窺うような調子だが、要介の声である。 「いま、一人ですか」  考えてみると、遠野が怪我をして以来、要介には会っていない。 「この前はご免なさい、途中で失礼して……」  遠野が怪我をした日、修子は食事の半ばで帰ってきた。  身勝手な行動にさすがの要介も怒ったらしく、そのまま連絡がなかったが、修子も悪いと思いつつ、かけそびれていた。 「あの、怪我をした人、どうしましたか?」 「おかげさまで、大分|快《よ》くなったようです」 「それは、よかった」  珍しく要介はおだやかな声で答えると、ぽつりといった。 「一度、逢えませんか?」  あれほど無礼を働いたのに、また逢おうというのか。修子は要介の真意をはかりかねた。 「迷惑はかけません。ただ一度だけ逢っておきたいと思ったものですから」 「一度だけ?」 「実は僕、今度、結婚することになりました」 「結婚って、あなたが……」 「前から話はあったんですが、思いきってすることにしました。それで、もしお会いできたらと思って……」 「でも、結婚なさるのでしょう」 「ですからその前に一度……」 「………」 「あなたを好きだったものですから、最後の食事だけでも、一緒にできたらと思って……」  修子はなにか、要介が冗談をいっているのかと思った。深夜にふと思いついて電話をよこす。日頃、身勝手で生意気な女を懲《こ》らしめるために、結婚するといって驚かせ、それで自分の存在を認めさせる。  しかし、要介の話はそんな生易しいものではなさそうである。充分に考え、決心した末での電話のようである。  それにしても、わからないのは男心である。  いままで、自分一人を追い続けていると思ったのが、ある日突然、手のひらを返したように、別の女性との結婚に踏み切る。要介と最後に食事をともにしたのはつい一カ月前である。そのときは、結婚どころか、好きな人がいる素振りもなかった。  しかも不思議なのは、そのことをわざわざ告げてくることである。  もし本当に好きなら、そんなことはいうまでもない。  これではまるで、思うとおりにならなかった女に、当てこすりをしているようなものである。表面は結婚報告をよそおって、その実、「どうだ、羨ましいだろう」と誇示しているともとれる。  さらに不思議なことは、そんな相手と、もう一度、食事をしようと誘うことである。  その理由として、「あなたを好きだったから……」といっている。  しかし、これから結婚しようという男が、他の女性にそんなことをいってもいいのだろうか。もし結婚する相手を愛しているのなら、そんな理由で他の女性と逢うのは不謹慎ではないか。  それでは、他に好きな人がいるが、やむなく新しい女性と結婚する、と告白しているようなものである。  それで、修子をたてたつもりかもしれないが、そんなことをいわれても、嬉しくはない。  すでに結婚すると決めた男が、実はあなたのほうが好きだ、などというのは男らしくない。  修子は少し冷ややかな声で答えた。 「結婚なさるのなら、わたしと逢うことなぞ、ないんじゃありませんか」 「そんな意地悪は、いわないで下さい」  とくに責める気はなかったが、要介には皮肉ときこえたようである。 「彼女とは見合いなんです。半年前に見合いして、親からも強くすすめられていたので……」 「わたしと逢って時間をつぶすより、その方と食事をなさったほうがいいわ」 「彼女とは逢っています。この一カ月、飽きるほど逢いました」  要介の声が少し高くなる。 「彼女とは何度も逢ったので、ますますあなたと逢いたくなったのです。この気持、わかりますか?」  どうやら要介は酔っているようである。初めは穏やかな口調だったが、気持が高ぶるとともに、舌がもつれてくる。しかし酔いにまかせて出鱈目をいっているわけでもなさそうである。 「今度、僕が結婚する気になったのは、あなたのせいです」  突然、自分のせいだといわれて、修子はますますわからなくなる。 「あなたが冷たいから、結婚することにしたのです」 「でも、それはわたしとは……」 「もちろんあなたとは関係ありません。僕が決めたことです。でも原因はあなたにあるのです」 「………」 「僕はもう三十三です。いつまでも独りでいるわけにいきません」  そのことなら自分も同じだと、修子はうなずいた。 「そろそろ結婚しなければならないけど、あなたは僕とする気はまったくない。あなたの気持は彼のほうを向いたまま、僕なんか相手にしていない」  たしかに修子は、要介と結婚する気はなかった。 「いいんです。そのほうがかえって決心がついてよかったんです。だから僕はあなたを恨んでなんかいません。あなたが僕に関心がないのに、一方的に僕のほうから近付いていったのですから、責任は僕のほうにあるのです」 「………」 「でも、それなりに親しかったんですから、結婚する前に一度くらい、逢ってくれてもいいでしょう」  かき口説く、というのは、女だけの言葉かと思ったが、男にもあるらしい。軽い酔いにくわえて、顔の見えぬ電話のせいか、今夜の要介はもの怯《お》じするところがない。 「おかしな奴と、思っているかもしれませんが、あなたのような人に逢ったのは初めてです」  要介の言葉をきいているうちに、修子は雲の上にのせられているような気持になってくる。もともと要介はそうした、女性を心地よく酔わせる才能に長《た》けているのかもしれない。 「初めから、僕はこんなことになるような気がしていたのです。僕があなたに振られたあと、別の女性と結婚を決意して、最後にあなたと逢う。いま、そのとおりになっています」  開き直ったように要介の舌はなめらかである。 「最後に、一度だけ逢って食事をしましょう」 「でも、逢ってどうなるのですか」 「別に目的なんかありません。ただ逢えればいいんです、それで僕も納得できます」 「なにを納得なさるのですか?」 「その、彼女と結婚することを……」  どうやら、要介は一人でロマンチックな夢を描いているようである。  愛している女性と別れて、あまり気のすすまぬ相手と結婚する。その最後の思い出のために、二人だけの晩餐をとる。男の夢に対して、修子の尋ね方は少し現実的すぎたのかもしれない。  だが、要介の言葉の心地よさを感じながら、修子の気持は逆に醒めていく。  すでに結婚を決意した男と、いまさら食事をしたところで仕方がない。それは単なる打算や狡《ずる》さでなく、生来、女が持っている|けじめ《ヽヽヽ》である。女はときに|けじめ《ヽヽヽ》を忘れることもあるが、多くはしっかりと身につけている。それは恋に溺れやすい女に与えられた有力な武器でもある。 「いま一度逢えたら、僕は一生、あなたのことを忘れません」  修子は思わず笑いかけた。  これから結婚するというのに、冷たくされた女を忘れないために、食事をしたいという。男はそれでロマンチックな気分に浸っているつもりかもしれないが、そんな男を夫にする女性は可哀想である。結婚しようといわれた以上、女は自分が一番愛されていると思うが、男は裏でもう一人、別の女をかき口説いている。  それが男と女の違いといえばそれまでだが、かなり調子のいいロマンチシズムであることはたしかである。冷たいかもしれないが、修子はいま、そんな男の片棒を担ぐ気はない。 「お幸せになって下さい」 「逢って、くれないんですか?」 「これから奥さまになる人を、大事になさったほうがいいわ」 「もちろん大事にします。でもそれとこれは違うのです」 「逢って、誤解されるのはいやだわ」 「そんな、やましい気持なんかありません。ただ最後にゆっくりと食事でもしようと思っただけで……」 「わたしは、遠慮いたします」 「待って下さい、僕の話をきいて怒ったのですか?」 「どうしてわたしが怒るのですか?」  修子は苛立ちを抑えてきき返した。 「あなたは、怒る人ではないと思っていました」 「あなたはとってもいいお友達だったし、お世話にもなって感謝しています。いろいろ我儘ばかりいって、悪かったとも思っています」 「じゃあ、逢うくらいはいいでしょう」 「結婚は、いつですか」 「一応、来年の春の予定です」 「それなら、結婚なさってからお逢いしましょう」 「僕はいま、独りのときに逢っておきたいのです。独りのほうが自由だし、まわりを気にすることもないし……」 「それは、いつでも同じよ」 「でも、結婚したら妻がいるし……」 「じゃあ、結婚なさってから、奥さまと一緒にお逢いしましょう」  黙り込んだ要介に、修子は母親のように訓《さと》す。 「式の日取りが決ったら報《しら》せて下さい。祝電でも送らせていただきます」  修子はそれだけいうと、「お元気で……」とつけくわえて、受話器をおいた。  気がつくと、十一時を過ぎている。静まり返った部屋に流れるピアノ曲が、一層、夜の深さを思わせる。  修子はその静けさのなかで、要介の電話を思い返す。  せっかく誘ってくれたのに、食事くらい際《つ》き合うべきではなかったのか。  どういうわけか、このごろ少し意固地なところがある。もう少し柔軟に振舞ったらと思うのに、気が付くと頑なに反撥している。それも初めから、「こうしよう」という意志があるわけではない。話しているうちにふと気持が定まり、一旦決ると、もはや梃子《てこ》でも動かない。  この融通のきかなさは生来のものなのか、それとも最近になって目立ってきたのか。  正直いって、今夜も修子の意固地なところが出たようである。  初め、要介が結婚するときいたときは、驚きとともにはぐらかされたような淋しさを覚えたが、そのうち、なにか要介を信用できないような気がしてきた。  そうなるとたちまち、不信感だけが先走って、他のことは考えられなくなってしまう。そして最後は彼の求めを冷たく突き放すことになる。  だが落着いて考えてみると、要介は別に、無理なことを要求してきたわけではない。結婚前に一度だけ食事をしようという頼みを、受け入れることくらい簡単である。いままでの要介への仕打ちを考えると、それくらいのことを引受けるのは、当然の務めでもある。  何故、優しく承諾できなかったのか。  修子は改めて、自分の意固地さに呆《あき》れる。  以前はこれほど頑なではなかったはずだが、どうしてこんなになったのか。  修子の脳裏に自然に、遠野の顔が浮かんでくる。  もしかすると、気強く頑なになったのは、遠野を愛しはじめてからかもしれない。  振り返ってみると、遠野との恋は緊張の連続であった。妻子ある人と世間的には許されぬ、いわゆる不倫の恋をしている。その思いが、常に他人にうしろ指をさされまいという気構えになり、必要以上に突っ張ることになる。  もっとも、その緊張感は悪いことばかりに働くとはかぎらない。  修子が年齢より若く、美しい容姿を保っていられるのも、仕事をてきぱきとこなせるのも、緊張があってのことである。家庭という安住の場に入ったら、これほどの勁《つよ》さは保てなかったかもしれない。緊張こそ、女を美しくさせる原点である。  だがときに、それも過ぎると害になる。  このごろ、修子は自分が優しくない、と思うことがある。  たとえば眞佐子の家へ招待されたとき、眞佐子夫婦の歓待を受けながら、素直に感謝する気になれなかった。また絵里の悩みにも、親身になって考えてやらず、そんなことは自分で解決すべきだと、途中から突き放してしまった。  遠野の家族と会うわけはないと知りながら、見舞いに行かなかったことも、今夜、要介の願いをきき入れなかったことも、みな優しさが足りないからである。  どうして優しくなれないのか、自分で苛立ちながら容易に改められない。 「やはり我を張って、生きすぎたのかもしれない……」  だがなんといわれようとも、その頑なさから一つの|けじめ《ヽヽヽ》をつくり出してきたことだけはたしかである。  自分が愛しているのは、二人で逢っているときの遠野だけで、それ以外の彼は、あずかり知らぬ他人である。修子がいつも自分にいいきかせ、大切に守り続けてきたのは、そうした意固地さから生れた|けじめ《ヽヽヽ》である。  その善し悪しはともかく、そう思い、信じなければ、遠野への愛はもちろん、修子の存在自体も怪しくなる。現実に遠野への愛が揺れても、自らに課した|けじめ《ヽヽヽ》があるかぎり、揺れ動く幅は最小限でとどめることができる。  いいかえると、心の揺れを防ぐかわりに、修子は意固地さという厄介なものを背負ってきたともいえそうである。 「少し疲れた?」  残ったリキュールを飲みながら、修子は鏡に映る自分にきいてみる。 「大丈夫?」  もう一度たしかめるが、深夜の部屋で答えるのは低いピアノの音だけである。  冬  野  初冬の陽が部屋一杯に溢れている。  暦は師走に入っているのに、仮睡《まどろ》みたくなるほどの小春日和である。  修子はその陽だまりのなかでマニキュアを塗り続ける。  一本一本、陽にかざしながら丁寧に塗っていく。いつもはシルバーを塗るのが、今日は淡いピンクに変えてみる。  土曜日の午後で会社は休みだから、軽い悪戯である。  遠野から、退院すると連絡があったのは、昨夜の七時過ぎだった。  二日前にギプスをはずしてレントゲンを撮った結果、骨折の部分は順調に恢復《かいふく》し、足をつけて歩いてもかまわないといわれた。長いあいだギプスを巻いていたので、まだ関節の動きが悪いが、それはリハビリテイションに通えば自然に治ってくる。  医師にいわれたことを報告してから、遠野が囁《ささや》いた。 「明日、午後に退院したら、まっすぐ修の部屋に行く」 「よかったわ、おめでとう」  思わずはずんだ声できいてみる。 「何時ごろになりますか?」 「退院の手続きがあるから、二時ごろになるかもしれない。とにかくまず君に逢いたいんだ」  ピンクのマニキュアを塗った修子のなかに、遠野の退院を待つ気持が芽生えたことはたしかである。  久しぶりに退院してくる彼を迎えるのだから、少し派手なマニキュアをつけてみようか。朝早く髪をブロウして黒いリボンで結び、襟元があいたサーモンピンクのブラウスに紺のスカートをはいたのも、いつもの部屋着からみると少しお洒落《しやれ》である。  遠野の退院を控えて、気づかぬうちに修子は装っていたようである。  マニキュアを塗り終えたとき、サイドボードの上の時計は三時に近づいていた。明るいと思った冬の陽はすでに力を失い、西の空が色づきはじめている。  修子はコーヒーを淹《い》れてから、また遠野のことを思った。  部屋へくるのは二時ごろになるといったが、それからすでに一時間経っている。  約束の時間から遠野が遅れてくることには慣れていた。飲んで帰ってくるときなどは、二時間から三時間以上も遅れたことがある。  だが今日は病院からの直行である。土曜日なので、退院の手続きは午前中に終るといっていたから、そう遅れるわけはない。  そこまで考えて、修子は別のことに気がついた。  もしかすると、遠野は病院から一旦、自宅に帰ったのではないか。  昨夜、病院からまっすぐ部屋に来るといわれたので、それを鵜呑《うのみ》にしていたが、退院といっても身体だけで出てくるわけではない。一カ月近く入院したのだから、寝間着や洗面道具など身の廻りのものがあるはずである。それらをひとまず家においてから来るのなら、二時や三時は難しい。  いや、それ以上に、一旦、家に帰ってから、また出てくることができるのか。  普段の日ならともかく、退院した日に外出など難しい。それを承知で遠野がいったとしたら、その場の思いつきか、それとも自分を喜ばせるためにいっただけなのか。  修子は再び時計を見、三時を過ぎているのを見届けてから、テーブルにある型録《カタログ》を手にした。  会社では最近、新しい製品をまとめたパンフレットをつくった。修子は営業でないので、特別自社の製品について知識を求められるわけではないが、ときどき来客に尋ねられることがある。そのときのためにも、新製品の傾向くらいは知っておく必要がある。  クリスタル製品はもちろん、皿からポット、コーヒーカップ、コンポートなど、さまざまなものが並んでいる。とくに陶磁器は色や絵柄が美しく、見ていて飽きない。最近は、本社でも東洋趣味をとり入れて、淡い紺か朱の単色のものが増えたようである。  だが修子が陶器のなかで一番気に入っているのは、ボーンチャイナである。  名のとおり、この陶器には牛の骨が入っているので、淡いクリーム色を呈し、人肌のような温《ぬく》もりがある。薄くて陽にかざすと、指の一本一本まで透けて見えるが、そのくせ、床に伏せて大の男がのっても割れぬほど強固である。修子のところにはすでに三枚一組の皿があるが、いま一つ直径が四十センチの大皿が欲しい。それなら食事のときはもちろん、飾りにつかうこともできる。  美しい型録を見るうちに、修子はいっとき遠野のことを忘れた。  再び修子が思い出したのは、陽が翳《かげ》り、初冬の冷気を覚えたからである。  今日はこないのかもしれないと思って、ヒーターを入れるために立上ったとき、入口のチャイムが鳴った。  修子は一旦、ドアのほうを振り返り、それから小走りに駆けて行き、ドアを開けると、遠野が立っていた。 「お帰りなさい」  思わず声をかけてから、修子はその言葉が自然に出たことに驚いた。 「久し振りだ……」  遠野は笑顔でうなずくと、右手に持っていた杖を軽くあげた。 「こんなものを、ついているのでね」 「大丈夫ですか」 「なくても歩けるんだが、用心のためさ」  一カ月半ぶりに見る遠野の顔は、いくらか肥って色白になったようである。ギプスを巻いたままの入院生活で、運動不足だったのかもしれない。 「いいのか?」というように、遠野は奥をうかがってから、靴を脱いだ。杖なしでも歩けるが、右足は開き気味に軽く引きずっている。 「昔のままだろう」  遠野がおどけていうのをきいて、修子は苦笑した。それくらいで、顔形が変るわけはない。 「綺麗になった」 「わたしが?」  遠野が改めて修子を見る。 「なにかいいことでもあったのかな」 「それなら嬉しいんですけど」 「今日はとくべつ綺麗に見える」  正面から顔を見詰められて、修子が目を伏せると、遠野の腕が伸びてきた。 「欲しかったんだ……」  修子はまだ陽が明るいのが気になったが、遠野はかまわず唇を求めてくる。  立ったままの抱擁をくり返して遠野は落着いたのか、腕の力をゆるめて一つ息をつく。 「ようやく逢えた……」  それは修子も同じ思いである。 「全部で一カ月半ほど、病院にいたことになる」  修子が一人で数えた日数も同じであった。 「長いあいだ、ご苦労さま」 「別に、仕事をしてきたわけではないから」 「でも……」  修子としては、遠い旅から遠野が帰ってきたような気がする。 「変りはなかったか?」 「別に……」  この間、遠野の妻や娘のことを思い、自分の立場を改めて考えた。そしてごく最近、絵里が若い恋人と少し疎遠になり、要介が新しい相手との結婚に踏み切った。それらはみな、修子に微妙な影を落したが、遠野に告げることでもなさそうである。 「久しぶりに修が淹れたうまいお茶を飲みたい。病院のはまずくて参った」  いわれて修子がキッチンに立つと、遠野はテレビのスイッチを入れた。 「もう、入院はこりごりだ」 「入院したおかげで、早く治ったのでしょう」 「治るといっても、ギプスを巻いたままだから、どんなふうになっているのか見当がつかない。ギプスを外してレントゲンを撮るときは、神様に祈るような気持だった」 「骨がついていなかったら、退院できなかったんですね」 「ようやく刑務所を出られると思っていたのが、また戻されるようなものだから」 「でも、病室ではテレビも読書も自由だし、お仕事もできたのでしょう」 「しかし、修に逢えなかった」  遠野の声を無視して、修子は戸棚から急須をとる。 「まったく、つまらないことで時間をつぶしたものだ」 「もう、大丈夫なのでしょう」 「折れたところを留めるのに、スクリューが一本入っているが、それは来年になってからでもとるらしい」 「また、入院するんですか」 「いや、それは外来でできるといっていた」  修子がお盆に茶碗をのせて持っていくと、遠野が怪我をした足を指さした。 「見るか?」  修子は目をそむけたが、遠野はズボンをまくりあげて右足をソファの上に投げ出した。 「こんなに痩せてしまった」  下腿《かたい》から足首のあたりは肉がそげ落ち、皮膚は黒光りして触ると剥《は》げてきそうである。 「ギプスのなかに入れたままだったから……。人間の足はやはりつかわなければ駄目だ」 「そこに、釘が入っているのですか」  足首の外側の踝《くるぶし》のまわりに、五センチほどの弓なりの傷痕がある。 「触ってみる?」  いわれて修子はそろそろと踝のまわりに触れてみた。  見た目には腫《は》れているようだが、触ってみると熱はない。 「痛くないんですか」 「大丈夫さ……」  遠野は自分で軽くつついてみせてから、傷痕に触れている修子の手に、自分の手を重ねた。 「病院で、こうして触ってもらいたかった」 「………」 「どうして、こなかったのだ?」  修子が答えないでいると、遠野がさらに強く握った。 「毎日、待っていたんだぞ」  修子が顔を背《そむ》けると、遠野が耳元で囁く。 「ベッドに行こう」  修子は傷口から手を離して、別のことをきいた。 「今日はまっすぐ、病院からきたのですか」 「もちろんさ、どうして?」 「一旦、お家に寄ってくるのかと思ったから」 「まっすぐ来るといったろう」 「でも、荷物は?」 「それは別便で、送ってもらうことにした」 「じゃあ、お家にはまだ……」  遠野がうなずくのを見て、修子はかえって不安になった。 「帰らなくて、いいのですか?」  遠野は黙ったまま煙草に火をつけた。ベランダからの陽を受けて、煙草を持った遠野の手が、テーブルの上に長い影を落している。 「入院中に、いろいろなことを考えた……」  遠くを見る目になって、遠野がつぶやく。 「仕事のことや家のことや、君のことも……」  遠野はそこで少し間をおいてから、言葉を選ぶようにいった。 「やっぱり、いまのままでは無理だということがわかった」 「………」 「これからはずっと修と一緒にいる」 「冗談はいわないで」 「冗談ではない、本気だ、もう決めたんだ」  少年のように光っている遠野の目を見ながら修子があとずさりすると、さらに遠野が追ってくる。 「今日の日を待っていたんだ」  長い入院による禁欲生活で、遠野は燃えているようである。 「待って……」  修子は少年を宥《なだ》めるようにいうと、先にベッドルームに入った。  白いレースのかかったベッドには、すでに短日の夕暮れが忍びこんでいる。修子はカバーを取り除き、壁に掛っていたネグリジェを除いた。遠野が入院しているあいだ、枕は一つであったが、久し振りに彼のために高めの枕を並べる。 「修の匂いがする」  部屋に入ってくると、遠野は獣のようにあたりを見廻す。 「休もう」 「足は大丈夫なのですか?」 「もちろん、足首以外はどこも悪くないんだ」  遠野が照れたように笑ってシャツのボタンをはずす。修子はレースのカーテンの上にさらに厚いカーテンを重ねるが、部屋にはまだ夕暮れの明るさが部屋に残っている。 「久しぶりに、修の美しい体を見たい」 「………」 「今日ははっきり見たいんだ」  遠野のねだる声をききながら、修子は獣に|凌 辱《りようじよく》される自分を感じていた。  気が付くと短い日はすでに暮れて、あたりは夜になっていた。  ずいぶん時間が経ったような気がしたが、枕元の時計を見ると六時である。  二人がベッドに入ったのは四時前だったから、まだ二時間少ししか経っていない。  だが休む前、カーテンの端から洩れていた夕暮れの明りはすでになく、闇の中で天井と壁の白い部分だけがかすかに浮き出ている。  日の短い夕暮れどきに眠ったことが、長い時間経ったような錯覚を与えるようである。  闇に馴染むように、修子はしばらく目を宙に遊ばせてから上体を起こした。  隣りで、遠野が軽く背を向けたまま眠っている。  一カ月以上も逢えなかったせいか、遠野の求め方は激しかった。その性急さに修子は戸惑いながら、いつか彼のペースに巻き込まれ、最後はいつものように満たされた。  そのまま、修子はしばらく遠野の胸のなかで眠ったようである。  もっとも目覚めたとき、修子は足だけ触れたまま、遠野とは少し離れていた。一カ月半ぶりに男の胸のなかに閉じ込められて、息苦しかったのかもしれない。  闇のなかでそろそろと起き出しながら、修子は下着をまさぐる。休む前はスリップもブラジャーもつけていたのが、いまは身につけているものはなにもない。  遠野が強引に脱がせたのだが、それがベッドのなかで散乱している。  修子はそれらをまとめて手にすると、寝室の片隅で身につけ、リビングルームへ戻った。  夏の日の六時はまだ宵の口なのに、初冬のいまは完全に暮れている。それでもベランダから見える街の明りは活気があり、夜がまだはじまったばかりであることがわかる。  修子はバスルームでシャワーを浴びてから髪を整えた。  一カ月半ぶりに抱かれて、体は懈《だる》いが、肌は潤ったようである。  愛を受け入れることで変る自分の体を、修子はあまり好きではない。できることなら、そういう行為とは無関係に美しくありたい。  だが修子の考えている以上に、体は正直らしい。  久しぶりの愛撫に翻弄されて、いままで淀んでいた血が軽快に流れはじめたようである。  遠野の行為は飢えた獣のように荒々しかったが、修子のなかにも、それを求める気持が潜んでいたのかもしれない。そんな自分が少し嫌だと思いながら、いまはさほど怨んでもいない。  軽く化粧を終えたところで、修子はキッチンに立ち、二人分のコーヒーを淹れた。  遠野はまだ休んでいるようである。修子はかまわず一人でコーヒーを飲みながら、休む前に遠野がいったことを思い出す。 「いまのままでは無理だ」といい、「これからはずっと一緒にいる」といいだしたが、あれは本当なのか。これまでもその種のことは何度かきかされているが、今夜のように真剣に訴えたのは初めてである。  もちろん、そのことはいずれたしかめなければならないが、それよりまず気になるのは、退院したあと、病院からまっ直ぐこちらへきたことである。  いずれこちらへ来るとしても、退院したらまず自宅へ戻るものだと思っていた。それは夫なら当然の行為であり、務めでもある。  それを無視してこちらへ来たのは、余程、決心してのことなのか。  退院した日に家に帰らぬのは、家庭と妻に対する公然たる挑戦である。  もし遠野のいったとおりだとすると、「別れたい」といわれた妻はいまごろなにを考え、なにをしようとしているのか。そして、あの遠野の妻によく似た娘はなにを思っているのか。  考えるうちに修子は不安になり、寝室のドアをそっと開けてみた。  瞬間、明りが部屋に流れこみ、その光りを避けるように遠野は顔をそむけ、それからゆっくりと目をあけた。 「起きたのか……」  自分がこれだけ心配しているというのに暢気《のんき》な人である。修子は乱れたベッドの端を直しながら近寄る。 「もう、七時ですよ」  遠野は時間の経過を反芻《はんすう》するように宙を見てから、一つ伸びをした。 「久し振りに、よく眠った。やっぱり馴染んだベッドは気持がいい」 「鼾《いびき》をかいていましたよ」 「少し暴れすぎた」  遠野はそういうと、枕元に立っている修子のスカートの端を軽く引いた。 「もう、着てしまったのか……」 「さあ、起きましょう」  夜に入ったばかりの時間に起こすのは奇妙だと思いながら、修子はブランケットの端を持上げた。  遠野が起きてきたのは、それから十分あとだった。ズボンをはいているが、シャツは手に持ったままである。 「パジャマが欲しいんだけど……」  修子は暖房を少し強くしてから答えた。 「もう、起きたのですから、いらないでしょう」 「しかし、部屋にいるあいだはパジャマのほうが楽だ」  そのまま、遠野はソファに坐る。 「そういえばお腹が減った。食事にでも行こうか」  修子は呆れて、きき返した。 「帰らないのですか?」 「どこへ?」 「お家へに決っているでしょう」  家庭でどんな争いがあるのか知らないが、退院した日くらいはまっ直ぐ家へ戻るべきである。 「みな、お待ちになっているでしょう」  遠野は答えず、コーヒーをブラックのまま飲む。 「今日、退院したことはご存知なんでしょう」 「もう、帰ってこないほうがいいと思っているかもしれない」 「そんなことないわ」  修子は大阪の病院で見た、遠野の娘の顔を思い出した。妻はともかく、あの髪をうしろに束ねた娘だけは、父の帰りを待っているに違いない。 「病院はお昼に出たのに、夜になっても帰らないなんて可笑《おか》しいわ。どこに行っているか、いまごろ探しているわよ」 「ここにいることは、知っている」 「どうしてですか?」 「もう、俺達のことはわかっている」  重大なことをいっているのに、遠野の表情は呆れるほど暢んびりしている。 「病院で、修に書いた手紙を読まれた」 「誰に?」 「書きかけたまま、枕頭《ちんとう》台の抽斗《ひきだし》に入れてあったのを、ワイフがきて読んだ」 「なぜ、そんなことを……」 「君がきてくれないからだ」 「でも、そんな大事なものを……」 「迂闊だった……しかし読んでもらって、かえってさっぱりした」  遠野は照れ臭さを隠すように、かすかに笑った。 「その手紙、いただいてないわ」 「もちろん、そのまま捨ててしまった」 「なにが、書いてあったんですか」 「修を好きだってことを、いろいろと。あれを読んだら誰でも諦める」  そんなことがあったとは、修子は知るわけもない。 「悪いわ……」 「悪い?」 「奥さまに」 「いつか、はっきりさせねばならなかったことが、少し早まっただけだ」  遠野は一つ咳払いをすると、自分にいいきかせるようにいった。 「これでいいんだ……」  二人が黙ると、急に暖房の音が甦る。  いま、いろいろなことを考えなければならないと思いながら、修子の頭の中は混乱しているようである。そのまま冷えたコーヒーを眺めていると、遠野がいった。 「結婚しよう」  咄嗟《とつさ》に答えかねていると、今度はもっと優しい声でいった。 「俺達、一緒になろう」  遠野の声が耳元で囁き、彼の手が肩にのせられる。  瞬間、修子はバネ人形のように遠野から離れた。 「駄目よ、そんなこと……」 「俺はもう決めたんだ、それはワイフも知っている」 「でも、まだはっきりいったわけではないのでしょう」 「電話でいった」 「それで……」 「黙っていたけど……」  修子は立上ると寝室へ行き、洋箪笥から遠野のジャケットを取り出した。 「これを着て、帰って下さい」 「これから帰って、どうするのだ」 「いろいろ奥さまとお話ししたほうがいいわ」 「もう充分話して、話すことはない」 「そんなことはないわ。あなたはまだ本当に奥さまの気持をきいていないでしょう」 「そんなことをきいても、俺の気持は変らない」 「あなたは我儘よ、身勝手で無茶苦茶よ」 「修のためにやったのに、どうして我儘で無茶苦茶なのだ」 「いいから、とにかく今日は帰って……」  修子は遠野にジャケットをおしつける。 「修は喜んでくれると思った」 「お願いですから、早く……」  わけがわからぬという顔で、遠野は修子を見ていたが、やがて静かに立上った。 「本当に、帰ったほうがいいのか?」 「………」 「せっかく、一緒になれるというのに……」  目を伏せたまま修子はゆっくりと首を横に振った。  いま、遠野がいなくなったほうがいいとか、一緒になりたいなどといっているわけではない。そんなことよりまず独りになりたい。独りになって、いろいろ考えてみなければならないことがありすぎる。 「帰ったほうがいいのか?」  再び念をおし、修子がうなずくと、遠野はジャケットに腕をとおした。 「修はどう思っていても、俺は彼女とは別れる。……いいだろう」  そうきかれても、修子に答える言葉はない。 「寒そうだな」  遠野はベランダへ行き、外を眺めている。 「車を呼んでくれないか」 「いまの時間は、角まで行けば拾えます」 「足がね……」  修子はそこで、遠野が足を怪我して、退院してきたばかりであることに気が付いた。  慌てて電話をすると、車は五、六分でくるという。  それを伝えると、遠野は立ったままうなずいた。 「とにかく、俺はそのつもりですすめるから、修もその覚悟でいてくれ」  遠野の言葉をききながら、修子はまるで他人の話をきいているような気がしていた。 「入院して、かえって踏ん切りがついてよかった。これから俺達はいつも一緒に暮せる」  再び遠野が近付いてくる。また肩に手を伸ばし、抱きしめられそうである。  修子は怯えたように身を退きながら、つぶやいた。 「もう、車が来ます」 「まだだ」 「いいえ、来ます」  修子が首を左右に振ると、遠野が肩口に顔を寄せる。 「なにを、恐がっているんだ」 「………」 「恐いことなんか、なにもないよ」  静まり返った夜の部屋で、遠野の声が悪魔の囁きのように聞こえる。  未  来  高層ホテルのバーの真下に、都会の明りが犇《ひし》めいている。  ネオン、ビルの窓々、車のヘッドライトなど、さまざまな光りが交錯《こうさく》するなかで、ひときわ目立つのは高速道路である。上から見ると金のベルトのように、夜の街を貫通する。だがよく見ると、それは一台ごとの光りの集りで、すべてが一定の方向に動いているのがわかる。  先程から、遠野と修子は窓ぎわの席に向かい合って坐ったまま、その光りの帯を眺めている。二人のあいだには円いテーブルと、グラスがおかれ、はたから見ると、ともに高いビルからの夜景に見とれているとも、会話に疲れて少し休んでいるともとれる。  やがて、遠野が腕組みしたまま視線を戻す。 「しかし、わからない……」  その声に誘われたように、修子もテーブルのほうに視線を戻した。 「なにが、不満なのだ」  苛立つ気持を抑えるように、遠野はウイスキーを飲み干す。  それから一つ咳払いするとボーイを呼び、水割りの追加を頼んでから、修子のグラスを指さす。 「もう一杯、……別のものにする?」 「これで、いいわ」  ボーイはアルコール分の薄いカンパリソーダであることをたしかめてから去っていく。 「もう、何度もいったように……別れるのは、はっきりしているのだ」  どういうわけか、「別れる」という言葉をきく度に、修子は電流にでも触れたように怯える。 「俺が別れることに、文句はないのだろう」  もちろん、それは遠野の問題だから、修子が口を挟む筋合いのものではない。 「別れることには、向こうも同意している」  そのことも何度かきいたし、遠野の真剣な口ぶりから、嘘をいっているとは思えない。実際、遠野は退院した日に自宅へ戻っただけで、そのあとからは築地のマンションで独りで住んでいる。 「ここまできたら、戻るわけにいかないんだ」  そこまで遠野が踏み切っていることも、修子はわかっている。 「それなのに、修はなにを考えているのかわからない」  ボーイがウイスキーの水割りとカンパリソーダを持ってきたので、遠野は言葉をのみ、ボーイが去るのを待って続けた。 「俺が妻と別れて、独りになってどうして不満なのだ」 「………」 「それを望んでいたのだろう」  たしかに、修子の気持のなかに、遠野が独りになることを望んでいた部分はある。そうなれば、いつも二人だけで自由に逢えると夢見たこともある。  だがそれは、遠野が妻と一緒にいるという条件の下でのことで、妻と別れてからでは事情は違ってくる。  いま遠野が妻と別れると、それは願望でなく現実となる。  この一週間、修子が悩んだのはその現実の重さである。いままでは願っても不可能なものとして、遠野が独りになる状態を想像し、夢見ていた。だが気がつくと、その空想が手を伸ばせば届くところまで近付いている。修子にはその近付きすぎた現実が怖い。 「当然、修も喜んでくれると思っていた」  再び、修子はびくりと肩を震わせた。  たしかに、遠野が妻と別れることを望んだことはあったが、それは「喜ぶ」という気持とは少し違う。遠野が独りになれば、妻子ある夫《ひと》と際《つ》き合っている罪悪感は消えるが、それを「喜ぶ」というような、単純な言葉で表されては困る。 「せっかく妻と別れて一緒になるというのに、どうして喜ばないのだ」 「ああ」と、修子は思わず心の中でつぶやいた。  いまようやく遠野が結婚しようといってくれるのに、自分が素直に飛び込んでいけない理由が、修子にはわかったような気がした。  言葉尻をとらえるようだが、「せっかく妻と別れて……」といういい方のなかに、「お前のために」という恩着せがましさが含まれているようである。思いすごしかもしれないが、「ここまでしてやっているのに」と、遠野はいいたいのかもしれない。  だが誤解されては困るが、修子は自分のほうから離婚を迫ったことは一度もない。いま、遠野はたしかに別れるといっているが、それは遠野が決め、自分からいいだしたことである。  むろん築地のマンションで遠野の妻と会ったことで、夫婦の亀裂は一層深まったのかもしれないが、それを修子のせいにされては困る。修子は遠野のマンションへ行くことも、ましてや彼の妻に会うのを望んだわけでもない。  はっきりいって、この数カ月、遠野と妻とのあいだで相当のもめごとがあったようだが、それは修子とは別の世界のできごとである。こちらが直接、関知していることではない。  実際、だからこそ、今回の遠野の結婚の申し出に修子は驚き戸惑った。正直いって唐突にもきこえた。  だが遠野のなかでは、妻との不和と、修子との結婚の決意とはつながっていたようである。  妻との亀裂が深まり、もはや恢復不能だから、別れて新しい結婚へ踏み出そうとする。  少し穿《うが》ちすぎかもしれないが、遠野の態度はそんなふうに見える。  正直いって、修子はそんな形でプロポーズされたくなかった。仲の悪くなった妻の替りに君を、といわれるのでは辛すぎる。  それより、もし本当にわたしを愛していたのなら、妻と不和になる以前にきっぱりと別れて、それから「一緒になろう」といって欲しかった。  我儘かもしれないが、プロポーズにもそういうけじめが欲しかった。  修子の戸惑いを察したのか、遠野は思い直したようにいう。 「もちろん、修が手放しで喜んでいるとは思っていない。修がそういう女でないことはわかっている」  修子は目を伏せたまま、グラスのなかの氷を見ていた。バーは薄暗いが、天井のスポットライトが、直接、グラスに当って重なり合った氷が輝いている。 「でも、ここまで踏み切れたのは修がいたためだ。修がいなければ、いままでのまま中途半端な生活を続けていたかもしれない」  遠野の言葉をききながら、修子は次第に息苦しくなってきた。 「修のおかげ」ということで、遠野は感謝を表しているつもりかもしれないが、そういわれても修子はあまり嬉しくはない。  修子がいたから別れられたということは、裏を返せば、修子がいなかったら別れはなかった、ということではないか。  女は欲張りなのか、単なる妻の替りではなく、その人にとって絶対的なものでありたい。  残念ながら遠野ほど人生経験のある男でも、そこまで女の気持は見抜けないようである。 「でも、丁度、いい潮時だった」  遠野がさらに続ける。 「とにかく、俺達はここまできてしまったのだ。ここまできた以上は一緒になるよりない」 「待って……」  ゆっくりと、修子はグラスから顔を上げた。 「そんなことは、無理よ」 「何故?」 「いけないわ」 「われわれがやろうとしていることが、世間からみて感心したことでないことは知っている。しかしここまできたら仕方がない」  いま、修子がいいたいことはそういうことではない。世間にどう見られようと、そんなことは気にしていない。  それより修子が拘泥《こだわ》っているのはプロポーズにいたる遠野の態度である。  二人が知り合ってから五年ものあいだ、妻とはうまくいっていないといいながら、別れるそぶりもなく、見ようによっては、両方うまくやっていきたい、という態度のようにも見えた。それを修子は非難するつもりはないが、そんな状態が行き詰ったからといって、一緒になろうといいだすのでは勝手すぎる。  はっきりいって修子はいま、遠野という男の身勝手さと節度のなさに失望しかけている。もう少し毅然として筋を通す人だと思っていた。  修子が黙りこんでいると、遠野がテーブルの上の伝票を手にして立上ろうとする。 「ここでは落着かないから、修のところへ行こう」 「ここでいいわ」  今夜、ホテルのバーで遠野と逢ったのは、修子からの希望である。遠野自身は修子の部屋か、あるいは旅にでも出てゆっくりと話したかったようだが、旅先や部屋で逢ったのでは、せっかくの決心が鈍ってしまう。 「ここにいましょう」 「どうして?」 「わたしはここがいいわ」  修子のきっぱりしたいい方に、遠野は渋々また椅子に坐ったが、気持は苛立っているようである。 「一体、どういうつもりなんだ」 「………」 「もう、俺を部屋に入れたくないというわけか」  なおも答えず夜の窓を見ていると、遠野が舌打ちした。 「はっきりしろ」 「このまま、逢わないことにしましょう」 「要するに、別れたいというわけだな」  はっきりいって、修子は今夜、そこまでいうつもりはなかった。  昨夜考えた結論は、たとえ遠野が妻と別れても一緒にはならない、ということだけだった。このあと、遠野との関係を続けていくかいかぬかまでは決めかねていたし、ましてや別れると、決心したわけでもない。  だが遠野と話しているうちに、曖昧《あいまい》にしていることが、かえって相手に迷惑をかけることに気がついた。それがお互いのあいだを一層こじらせ、ひいては自分に嘘をつくことになる。 「もう、隠さないではっきりいってくれ」  遠野は残ったウイスキーを飲み干すと、荒々しくグラスをテーブルにおいた。 「俺と別れたいんだろう」 「………」 「そうだな?」  そう矢継早にきかれると、修子は詰ってしまう。もう少し優しく時間をおいて尋ねてくれたら、うまく答えられそうだが、一気に問い詰められると黙らざるをえない。  そのままうつむいていると、遠野がゆっくりとつぶやいた。 「そうか……。修は最初から、俺と一緒になる気なぞなかったんだ」 「………」 「初めから、遊びのつもりだったのだ」  遠野のいうことは、みな間違っている。修子がそんないい加減な女でないことは、遠野自身が一番よく知っているはずである。だがそうでもいわなければ、遠野の気持は鎮まらないのかもしれない。 「まさか、そんな心変りをしているとは知らなかった。いつから、変ったのだ」  きかれて、修子はこの数カ月をかえりみた。  築地のマンションで遠野の妻と逢ったときも、彼が大阪の病院に入院したときも、修子はまだ遠野のことを思い続けていた。  はっきり修子の心が揺れだしたのは、この数週間かもしれない。  彼が退院してきて、はっきり妻と別れるといい出してからなのか。不思議なことに、心の底で願っていたことが現実になりかけて、修子の気持は次第に萎《な》えていった。  特にこの数日、毎日のように遠野から妻と別れるという話をきかされているうちに、修子のなかで、いままでの彼とは違う別の遠野が見えはじめてきた。  たしかにこれまでの遠野は強くて優しくて、修子自身も知らなかった無数の可能性を引き出してくれた。それは精神的な成長とともに肉体の面での開花も含んでいる。まことにこの五年間は、修子自身が大人の女として花開いた貴重な歳月で、遠野に従《つ》いていくことに、なんの疑いも不安も抱いていなかった。  だがいま結婚という具体的な言葉を聞き、これから始まるかもしれない遠野と二人だけの生活を思ったとき、新しい不安が次々と修子に襲いかかってきた。  たしかに遠野は精力的な男だが、ともに住む夫としてみたとき、かなり我儘で自己中心的である。一旦、仕事に熱中しだすと家庭を忘れ、さらには妻も忘れる。当然のことながら時間も不規則で、家に帰ってきても、自分の衣類は脱ぎっ放しで散らかすだけで、家事は一切しない。  いままではそこに男らしさを感じていたが、ともに生活するようになっても、それを許して従いていけるだろうか。  はっきりいって、これまでは月に数回逢うだけで、それ故に彼の我儘を感じても一時のことだと思い、そのときが過ぎれば忘れられたが、いつも側にいるとなると、そうはいかないかもしれない。たまにしか逢えぬから成り立っていた優しさや愛しさも、日常という慣性のなかに入ると色褪せ、汚れていくかもしれない。  長年、修子が描いてきた家庭は、夫と妻が協力しながら支えていく家庭である。結婚しても、たとえ子供が生れても、修子は仕事を捨てる気はない。我儘といわれても、夫や子供のために、仕事を犠牲にしたくない。  その観点から遠野を振り返ると、修子の願う夫の像とは大分違っているようでもある。  このままでは、世話のかかる男という荷物を、背負うだけになるかもしれない。  修子の考えていることを知ってか知らずか、遠野がさらに問い詰める。 「俺が離婚すると知って、嫌になったのか?」  その推測は半ば当っているようで、半ば当っていない。遠野が離婚すると知って嫌いになったわけではないが、彼に従いていくのが怖くなったことだけはたしかである。 「どんなになっても、従いてきてくれると思っていた」 「でも、そんな約束は……」 「約束はしなくても、そう思うのは当然だろう」  遠野の声が高くなったので、修子はあたりを見廻した。幸い隣りの席はあいていて、その先に二人連れの客がいるが、こちらには無関心である。カウンターの手前にいるボーイだけがときどき視線を向けるが、近付いてくる気配はない。 「本気になったのは、俺だけだったというわけか」  遠野はそういってから、氷をカリカリと噛む。 「俺だけその気にさせて、それは、卑怯というものだろう」  卑怯という言葉を、修子は頭の中で反復した。そういわれると、そのとおりのような気もするが、自分は遠野を裏切ってはいないとも思う。 「要するに……」  遠野は自嘲するようにかすかに笑った。 「俺が嫌いになったというわけだな」 「いいえ……」 「じゃあ、何故、ついてこないのだ」  高ぶる遠野の声を聞く度に修子は悲しくなる。  いままで自分が愛し、慕ってきた人は、こういう人ではなかった。自分よりはるかに年上で、それだけ人生を知り尽し、どんな時にも冷静で、抑制がとれていた。彼に従っていくかぎり、間違いはないのだと信じきっていた。  だがいま目の前にいる遠野は人が変ったように荒々しく猛々しい。修子が憧れていた、大人の冷静さには程遠い乱れようである。 「聞いているのか……」  修子は慌てて目を閉じる。こんな喚《わめ》き続ける、子供のような遠野を見たくはない。  だが遠野の声は静まりそうもない。 「せっかく一緒になれるというのに、いまのままのほうがいいのか」 「………」 「いまの、愛人のほうがいいのか?」  問い詰められて、修子はゆっくりとうなずいた。 「本気か……」 「………」 「本当にそう思っているのか」  正直いって、いまの立場が絶対に好ましいと思っているわけではない。  だがいままでのように、遠野とは一緒になれぬと思いながら、彼を恋しているほうが爽やかで、緊張していたことだけはたしかである。 「わからん……」  顔をそむける遠野に、修子は静かにつぶやいた。 「素敵でした」  いまさらそんないい方は酷《こく》かもしれないが、遠野は恋人としては素敵な男性であったが、家庭の夫としては少し違うかもしれない。男達がよく、「あの女性は恋人にはいいけど、妻としてはどうも……」というように、遠野も夫より恋人に向いているのかもしれない。  これまで修子はそうした遠野の、いい面だけを見てきたようである。 「なにが、素敵なのだ」 「いままで……」 「要するに俺と一緒になるより、独りでいるほうがいいというわけだな」 「わたし、独りで生きていけます」 「そんなことをきいているのではない。修をいまの立場から解放してやりたいんだ」 「いまのままで充分です」  修子はフランス語のメトレスという言葉を思い出していた。その語感は女の自立と毅然さを思わせて爽やかである。 「本当にそう思っています」  修子はいま初めて、なぜ遠野の愛人の立場で納得していたかに気がついた。  たしかに愛人という地位は不安定だが、同時に美しい存在でもある。  日常の雑事をある程度忘れて、お互いにいたわり合うこともできるし、たまに逢うが故に美しいところだけ見せ合うこともできる。誕生日や二人が初めて逢った記念日など、節目節目となるときは、必ず二人で過ごそうと努力し、その都度、燃えていける。 「いまのままでいいのです……」  修子は再び窓を見た。  高層ホテルから見下す都会の明りは何本もの天の川が地上に舞いおりたように輝いている。予報では大陸から寒気団が近付いているといっていたが、冷えた夜の大気が街の明りを一層鮮やかにしているようである。  修子はその無数に輝く光りを見ながら、自分の部屋を思った。  ここから自宅の方角は見えないが、朝八時に出てから、もう十二時間以上、部屋は閉ざされたままになっている。いま帰ると暗くて冷えきっているが、その冷えた暗い部屋に、修子は無性に帰りたくなった。  いつもは誰もいない部屋に戻るのが淋しかったが、いまはその孤独な静けさが懐しい。  修子は窓から視線を戻すと、横においてあったハンドバッグに手をかけた。 「帰るのか?」 「はい……」  修子がうなずくと、遠野は行く手をさえぎるようにテーブルに両手をついた。 「まだ、話が終っていない」 「………」 「俺達のことは、なにも解決していないじゃないか」  それをきいて、解決したと思ったのは、修子一人の思いこみだったことに改めて気がついた。 「俺はワイフとも別れて、一人になるんだぞ」  いままで怒りに燃えていた遠野の目が、潤んでいる。 「一体、どうしてくれるのだ」  声を荒らげながら、遠野の顔は泣きだしそうである。 「ご免なさい……」  修子は静かに頭を下げた。  自分が、遠野をこんなところまで追い込んだとしたら、謝らなければならない。  だがいいわけじみるが、修子はこれまで遠野と一緒になりたいといったことはない。心の中で思ったことはあっても、口に出して求めたことはない。妻と別れるのは、遠野が一人で決めたことで、そのことについて相談を受けたわけでもない。それが修子のために好ましいと思ったのかもしれないが、その責任をとれ、といわれても困る。 「どうしても、一緒になれないのか……」  遠野がすがるように修子を見詰める。 「頼む……」  頭を下げる遠野から顔をそむけて、修子は目を閉じた。こんな気弱な遠野を見るのは初めてである。いままで修子の前に立ちふさがり、がっしりととらえて離さなかった遠野はどこにいったのか。 「やめて下さい」  修子は目を閉じたまま首を横に振った。  五年間、愛し合ってきた人と別れるときは、もっと明るく爽やかでありたい。  いま別れるからといって、修子は遠野を嫌いになったわけでも、憎んでいるわけでもない。それどころか、いまも遠野が与えてくれた沢山の優しさと豊かさには感謝している。  そのたしかな男が、女の前で深々と頭を下げたりしないで欲しい。いつまでも、遠野は強く逞《たくま》しく、傲慢でいて欲しい。いままでのように、世間など気にせず堂々と生きて欲しい。  ひ弱で情けない遠野なぞ見たくはない。実際、遠野が強くなければ、五年間、彼を愛し続けてきた自分自身はなにをしてきたのか、わからなくなる。 「ご免なさい……」  修子はもう一度いうと、バッグをわきに引きつけた。 「どこへ行くんだ」 「帰ります」 「駄目だ」  一礼して修子が立上ると、遠野も立上る。  突然、二人が席を離れたので、ボーイも驚いたようである。カウンターの前に立っていた男が、こちらを見ながらレジの方へ移動する。  修子は振り向かず、小走りにバーを出たが、遠野は会計をするのに手間どったようである。  そのあいだに、修子はあいていたエレベーターに乗ってロビーへ下りた。  遠野には悪いが、いまは逃げるよりない。修子は早足でフロアーを駆け抜けると、自動扉から外へ出た。  そのままタクシー乗場に向かいかけたとき、うしろで呼ぶ声がした。 「おい、待てよ……」  振り返ると、遠野の顔が開きかけた自動扉の先に見える。 「非道《ひど》いじゃないか」  遠野は追いつくと、呼吸を整えるように大きく肩で息をついた。 「黙って帰る奴がいるか」 「帰ります、といいました」 「俺は許していない」  男と女がいさかいをしているのは、誰の目にもわかる。  ホテルに出入りする客やポーターが怪訝《けげん》そうにこちらを見ている。恥ずかしくなって、修子がさらにタクシー乗場へ歩き出したとき、いきなりうしろから左腕をとらえられた。 「待て……」 「いやです」  手をふりほどこうと、肘をつき出した瞬間、修子は頬に一撃をくらった。  不思議なことに、痛みより痺《しび》れのようなものが顔面をおおい、次の瞬間、修子は眩暈《めまい》を覚えてうずくまった。 「大丈夫ですか」  すぐポーターが駆け寄ってきて修子を支えてくれる。顔をおおったままうなずく修子の背後で、遠野の罵《ののし》る声がして、男達が揉《も》み合っているようである。  ふらつく体を立て直して修子はポーターに訴えた。 「車に乗せて下さい」  修子はいま遠野から逃げることしか考えていなかった。 「こっちですよ……」  ポーターが修子を抱えるようにして、車にのせてくれた。 「どこへ行きますか?」 「瀬田へ……」  運転手に答えて振り向くと、遠野は喚きながら男達におさえこまれていた。  瀬田のマンションに着くと、十時を少し過ぎていた。  修子は明りをつけ、暖房のスイッチを入れてから、ソファに横になった。  打《ぶ》たれて三十分も経つのに、左の頬がまだ火照っている。しかもそのとき、奥歯を噛んだらしく、口の内側が少し切れて唾に血がまじっている。  鏡で見ると、頬の赤味はほとんど消えたが、口の粘膜の切れたあたりが疼《うず》き、少し腫れているようである。  冷やしておけば、そうたいしたことにはならないだろう。修子は冷たいタオルを頬に当てながら、遠野のことを思った。  あれからまっ直ぐ帰ったのか、それともポーター達と揉み合って喧嘩にでもなったのか。いずれにしても早々にホテルを去ったに違いない。  そのあと、街をさ迷っている遠野を、修子は想像する。  コートを持ったまま、冷える夜を一人で歩いているのか、それともどこかで、浴びるように酒を飲んでいるのか。  それにしても、見事な一撃であった。これまでも一度、遠野の妻と会ったあとに打たれたことがあるが、それは仲直りのための暴力であった。今回のように切羽つまって、しかもこれほど激しく打たれたのは初めてである。  だが不思議なことに、遠野に憎しみは覚えない。  場所柄も忘れて、あれほど強く打ったのは、余程腹に据えかねたのか。修子は改めて、今夜のことを思い返した。  初め逢ったときには、穏やかに話し合って、笑顔で別れるつもりでいた。一週間前に、一緒になる気はないことを告げてあるのだから、わかってくれるものだと思っていた。  だが、美しく別れるということは、修子の幻想だったようである。  深く愛せば愛すほど、別れは辛く、恨みや憎しみは増す。  もし美しい別れがあるとすれば、二人がともに恋人をつくったときだけで、それ以外の美しい別れなぞ、まやかしなのかもしれない。  だがそれにしても、もう少しきれいな別れ方はできなかったのか。  他人の見ている前で、打たれて別れるのでは淋しすぎる。  いまとなっては、遠野と別れることより、別れ方に悔いが残る。  しかし考えようによっては、打たれたことで、かえって気持が定まったといえなくもない。  人はどこかで、別れを決心しなければならないときがあるが、いま初めてその機会が、訪れたようである。  遠野がようやく妻と別れる決心がついたとき、彼から去っていくのは身勝手すぎるかもしれないが、ここまで事態がすすんだからこそ、決心できたのかもしれない。  遠野がいよいよ妻と別れるときいて、修子は自分のしていることの怖さと、これからの責任の重さに気が付いた。  もし、遠野がそこまで決断しなければ、修子はまだまだ彼にすがっていたかもしれない。 「そうか……」  修子はうなずくと、ソファに坐り直した。  いまになって修子は自分が遠野に惹《ひ》かれていた理由がわかってきたようである。  遠野は他人の夫で、自分とは永遠に結ばれない。たとえ結ばれたとしても、そのためには、多くの人々の犠牲と憎しみをかわなければならない。  修子が愛したのは、そんな困難な状況にある遠野という男だったのかもしれない。あるいは、そうした緊張している状況そのものに、惹かれていたのかもしれない。  実際、修子はその緊張状態のなかで、美しく艶《あで》やかになってきた。  遠野はそれを、天性のものだといったが、そんな単純なものではない。  遠野を愛する以上は彼の妻に負けたくない。他の人からも一目おかれる女でありたい。そうした前向きの意志が、修子を美しく、張りのある女性にさせたことは否《いな》めない。  考えてみると、遠野は修子に対して、いくつかの思い違いをしていたようである。  たとえば今夜も、「修を愛人という立場から解放するために、妻と別れるのだ」といったが、女はみな、愛人より妻の座に憧れているのだと思いこんでいるようである。  しかし必ずしも、すべての女性が妻の座を求めているわけではない。  数ある女性のなかには、妻よりは愛人でいるほうが好ましく、自分に合っていると思っている女もいる。一生でなくても、一時、その方が自由で、自分の才能を伸ばせると思うこともある。あるいは結婚という形式自体を忌避している女性もいる。  もしかして、妻という立場に立たされるかもしれないと知って、修子ははじめて、愛人という立場の居心地のよさに気が付いた。  それは具体的にいうと、一人でいる気楽さであり、一日のスケジュールを自分の思うままに立てられる楽しさであり、自分のライフスタイルを確立できる喜びでもある。もちろん好きなときに、好きな友達と会うことも、多くの男性と際《つ》き合うことも可能である。  むろんその裏には、独りでいる淋しさや、結婚していない頼りなさもあるが、なにごとも利点があれば欠点もある。  眞佐子は結婚することで生活と心の安定をとり、絵里は夫と別れることで自由と仕事をえた。  人それぞれ、いずれをとるかによって選択は異なってくる。  いま、修子は妻という立場を否定する気はないが、あえて他人から奪おうというほどの意欲はない。ましてや犠牲を払い、さまざまの人の怨嗟《えんさ》をかってまで、妻の座につきたいとは思わない。 「これでいいわ」  修子はつぶやくと、タオルを冷やすために洗面台の前に立つ。  正面の鏡に、化粧を落して少し疲れた顔が映っている。やはり下顎のあたりが少し腫れて熱っぽい。  修子はさらに鏡に近付いて、小指で目の縁に触れてみる。  目尻に数本の小皺《こじわ》があるが、まだ化粧でかくせそうである。  しかしもう、若さや無邪気さだけで生きていける年齢ではない。  だが、だからこそ、いましばらく自由でいたい。誰にも拘束されず、独りで自分の道を探ってみたい。 「いいでしょう?」  鏡の顔に尋ねると、少し疲れた顔がうなずく。 「これから、大変よ……」  しかし、修子は意外にしぶとく生きていけそうである。  少女のときから体が弱く、泣虫だったが、いまは自分でも驚くほど強いところがある。  遠野を愛しながらも、家庭に戻っていく彼を、自分とは無縁の人として割りきろうとしたことも、彼が妻と別れるといいだしたときに彼から去ることを決めたのも、すべてその強さがあったからできたことである。  考えてみると、女は男より性格は強いのかもしれない。他の友達を見ても、くよくよ考えるわりには、切り替えが早い。決るまで延々と悩みながら、いざ決めると、もはや振り返らない。  気がつかぬうちに、修子もそんな逞しさを身につけたのかもしれない。 「大丈夫よね」  もう一度鏡に向かってたしかめたとき、電話のベルが鳴った。  冷えたタオルを片手に受話器をとると、絵里の声だった。 「もう帰っていたの?」  今夜、遠野に逢うことを、絵里にだけは知らせてあった。 「どうだった?」  修子はいつものように電話のコードを延ばして、ソファに坐った。 「全部、話したのでしょう」 「話したことは話したけれど、最後に打《ぶ》たれて……」 「どこを?」 「左の頬……」  突然、絵里の噴きだすような笑いが洩れてくる。 「殴られたんだ」 「思いきり、叩くんだもん」 「で、悄気《しよげ》ているんだ」  悄気ているというわけではないが、なにか大きな落しものをしてきたような虚しさがある。これから一人でどう生きていけばいいのか、考えだすと不安である。  だがいまそれを、たとえ絵里にでもいいたくない。別れに踏みきった日くらいは強く爽やかでいたい。 「べつに悄気てなんかいないわ。ただ、口の中が少し切れたので……」 「そんなに強く打たれたの」 「突然だったから」 「それで、喋り方が可笑《おか》しいんだ」  修子は空いているほうの手で、冷やしたばかりのタオルをくるくると円《まる》めた。 「それは、あなたを愛しているからよ」 「わかってるわ」 「後悔しない?」 「なにを?」 「彼と別れること」  そんなことは、いまきかれても答えられない。これから一気に悔いがおし寄せてくるかもしれないし、案外平気でいられるかもしれない。いずれにせよ遠野と慣れ親しんだ五年間の歳月がそう簡単に消え去るとは思えない。  だが別れると決めた以上、過去を思い出し、それを懐しんでいても仕方がない。これからどんな未来が訪れるのかわからないが、いまはとにかく、前へ向かって一歩、踏み出さなければならない。 「後悔しないわ」 「本当かな?」 「だって、そう決めたんだから」  後悔しない、などという自信はないが、いまは自分の決めた道にそって歩むよりない。 「いいでしょう」 「わかったわ」  絵里はつぶやくと、少し間をおいてから囁くようにいった。 「これで、あなたも一人ね」 「完全なフリーよ」 「じゃあ、二人でまたいい男を見付けようか」 「賛成……」  修子は思いきり明るい声でいうと、いつのまにか涙であふれた目頭に冷えたタオルを当てた。  あ と が き——メトレスについて                    渡 辺 淳 一   本書の表題である「メトレス 愛人」は同義語で、愛人のことをフランス語で表すとメトレスとなる。  だが意味は同じでも、実際のニュアンスは大分異なり、日本語でいう「愛人」は、経済的にも精神的にも男性に頼っている感じがするのに対して、「メトレス」は自立して仕事をやりながら、他の男性と恋愛関係にある女性、といった感じになるようである。  本書にも「クレッソン首相はミッテラン大統領のメトレスよ」という会話がでてくるように、女性の身で首相という要職をこなしつつ、一方で特定の男性と親しく際《つ》き合っている女性、という意味になる。  ちなみに仏和辞典の「メトレス」の項には、女主人、女教師、女の実力者、といった意味から、主婦、女将、夫人、そして恋人、愛人、妾、情婦といった意味まで広く記されている。  いずれにせよ、メトレスがかなり実力や教養を備えている自立した女性を表し、日本語の愛人という言葉にある、暗さや甘えの部分がないことはたしかである。  もともと日本語は世界でも有数の豊かな語彙《ごい》を持った言語であるが、こと愛に関する言葉だけは、長年、人前で愛を表現することが抑圧されてきたせいか、極端に少なく貧しい。当然のことながら、夫以外の男性を愛する女性を表すには、「愛人」という言葉しかなく、あとは「妾」のような差別的な表現になってしまう。  本書の主人公は経済的に自立し、自分なりのライフスタイルをもち、キャリアアップを目指しながら、同時に妻子ある男性を愛している。  こういう女性をどう表すか。これまでの手垢のついた「愛人」という言葉だけではもの足りないため、あえてメトレスというフランス語と二つ並べて、表題に用いることにした。  くり返すが、メトレスとは男性に頼るだけでなく、自ら仕事をもちつつ、自らの意志で男性との愛を享受する近代的な女性の意味である。むろん妻であっても、主婦であってもかまわない。  この言葉が愛の言葉の貧しい日本でも受け入れられ、恋する女性達が年齢や未婚既婚の区別なく、メトレスという明るい名で呼ばれるようになることを願っている。 「週刊文春」一九八八年五月五日・十二日合併号〜一九八九年二月二日号 一九九一年十二月 文藝春秋刊 〈底 本〉文春文庫 平成六年十二月十日刊